風姿花伝 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ) 世阿弥・著 夏川賀央・現代語訳 致知出版社 2014-12-26 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
たくさんの物まねを極め尽した役者は、1年中の花の種を持っているようなものなのだ。どんな花でも、相手の望みやその時の時流に合わせて取り出すことができる。この文章の中に、日本人の重要な特徴が2つ表れていると思う。1つは、日本人は物まねから入る性を捨てきれないということである。日本という国はいつも、諸外国を見回しながら、優れた文化・風習・制度・技術を取り入れ、自国流にアレンジして、本家を凌駕するほどに磨き上げることで生き残ってきた。
物まねの数を極めていなければ、時によっては花を失うこともある。例えば、観客が夏草の花を観賞したいと思っている時、役者が夏草の演技を持っていなくて、季節外れの春の花の演技を持ち出したなら、顧客のニーズに応えられない。
花というのは、見る人の心に新鮮な感動を与えてこそ花なのだ。たくさんの物まねを稽古し、工夫を重ね、新鮮な印象を与えられるように磨き上げた演技が花となるのだ。
日本は先進国の中でいち早く高齢社会を迎えることから、社会のあるべき姿を他の先進国に示す課題先進国になるべきだとよく言われる。また、先日も文部科学省のセミナーを聞いていたら、日本は従来のようなキャッチアップ型の発展ではなく、フロントランナーを目指さなければならないという話が展開されていた。
しかし、私はどちらの主張も叶わないと思う。結局、日本は高齢社会を迎えても、相変わらず物まねを繰り返すだろう。現在の諸外国にいい手本がなければ、歴史をひっくり返してでも手本を探すに違いない。何千年も続いた日本の伝統的な精神を、今さらがらりと変えることなど、そう簡単にはできない(ブログ本館の記事「山本七平『危機の日本人』―「日本は課題先進国になる」は幻想だと思う、他」、「野村総合研究所2015年プロジェクトチーム『2015年の日本』を2015年の到来を前に読み返してみた」を参照)。
ちなみに、能楽のストーリーは、古典に着想を得たものが非常に多い。世阿弥が作曲した清経・敦盛などは『平家物語』が、井筒は『伊勢物語』が、野守は『万葉集』が題材となっている。また、能楽のルーツである猿楽も、7世紀頃に中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。物まねの重要性を説いて能楽を大成した世阿弥だが、能楽自体が物まねの集合体なのである。
冒頭の引用文から読み取れるもう1つの日本人の特徴は、「状況に応じて臨機応変に対処できるよう、手の内を多様化しておく」ということである。Aならばこうする、Bならばこうする、Cならばこうする・・・という条件分岐が豊かであればあるほど、その人の技能は高く評価される。重層的なパターンを持っている達人であっても、「いや、まだこのケースに対応する解を得ていない」と言って鍛錬を続けるのが、いわゆる「○○道」という言葉が指すところの「道」である。
これに対して、社会経済を”モデル化”してできるだけシンプルに理解しようとするアメリカ人は、現実をモデルの方に合わせようとする。だから、もし春の花の演技しか持っていなかったら、自分の対応を変えるのではなく、観客に春の花がほしいと思わせるのがアメリカ人である(ブログ本館の記事「『一流に学ぶハードワーク(DHBR2014年9月号)』―単純化するアメリカ人、複雑なまま理解する日本人(モチベーション理論を題材に)」を参照)。
最後にもう1つ。「秘すれば花」という世阿弥の言葉があるように、日本人は上記の特徴を上手に隠さなければならない。具体的には、手本の取捨選択の基準や、本家以上にその手本を洗練させる方法、条件分岐の設定の仕方や道の極め方などは秘密にしておく必要がある。そうすれば、日本はイノベーターになれなくても、世界の動乱の中でしぶとく生き残っていくに違いない。