こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

広井良典『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』―「コミュニティの重視・自然との共生」と言うが、「中世に回帰したい」という主張を糊塗しているだけではないか?


ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来 (岩波新書)ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来 (岩波新書)
広井 良典

岩波書店 2015-06-20

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 言うまでもないことだが、歴史全体を通じて世界全体の経済規模は直線的に成長してきたわけではない。ある期間は急成長を遂げるが、やがて成長が鈍化して成熟期に至り、遂にはほとんど成長しない時代が続く。だが、何かしらのきっかけで再び急成長期に突入し、やがて成熟期に移行し、停滞期を迎える。この繰り返しである。これを整理した図を以下に引用する。

ポスト資本主義

 著者は停滞期に突入することを「定常化」と呼んでいる。そして、定常化の時期に入る時には興味深い現象が見られると言う。狩猟経済からスタートした人類の経済は、今から約5万年前に最初の定常化(上図の「定常化①」)を迎えた。この時に「心のビッグバン」という現象が発生し、具体的には、加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品が世界中で一気に出現した。

 「心のビッグバン」からしばらく停滞期が続くが、約1万年前には農耕経済へと移行し、新たな成長期に入った。だが、農耕経済は紀元前5世紀頃に定常化を迎える(上図の「定常化②」)。この時、ヤスパースが「枢軸時代」、科学史家の伊東俊太郎が「精神革命」と呼ぶ現象が起きた。すなわち、現在に続く「普遍的な原理」を志向する思想が地球上の各地で同時多発的に誕生した。インドでは仏教、中国では儒教や老荘思想、ヨーロッパではギリシア哲学、中東では旧約思想が生まれた。これらの思想はいずれも、特定のコミュニティを超えた「人間」という観念を初めて持つとともに、物質的欲求を超える新たな価値を説いた。

 上図はかなり概念的であり、もう少し丁寧に読む必要がある。世界の経済規模は、人類が消費するエネルギーの量と強い相関がある。エネルギーに関する研究で知られるジェレミー・リフキンは、成長期⇒成熟期⇒停滞期⇒成長期⇒・・・の繰り返しで世界経済が拡大してきたと認識しており、この点は本書の著者と共通する。リフキンの主張の特徴は、停滞期から次の成長期への移行を促すのはエネルギー革命であると説く点である。

 最も古いのは今から約50万年前の火の発見である。約5,000年前には、火に加えて家畜エネルギーが用いられるようになった。紀元前後から1800年頃までは薪炭や風力がエネルギーとして用いられた。その後石炭がこれに取って代わり、20世紀に入ると石油エネルギーが中心となった。ここで重要なのは、新しいエネルギーが広まる時には、必ずそのエネルギーを大量に使用する新しい技術の発明が伴っていることである。これはとりわけ19世紀以降に顕著である。石炭エネルギーが広まったのは蒸気機関の発明のおかげである。石油エネルギーが広まったのはエンジンの発明のおかげである。

 エネルギー革命の歴史を上図と重ねるならば、約50万年前に始まった火のエネルギーを中心とする経済は、約5万年前に定常化を迎え、「心のビッグバン」が発生した。約5,000年前に火に加えて家畜エネルギーが用いられるようになった経済は、紀元前5世紀頃に定常化を迎え、「枢軸時代/精神革命」と呼ばれる現象が生じた。そして、紀元前後から1800年頃まで、薪炭や風力がエネルギーとして用いられる時代が続いたということになる。

 著者は、定常化のタイミングで生じた思想は、次の成長期の支柱的な思想を準備するものであると指摘する。著者は本書を通じて、現在の資本主義経済が世界的に定常化を迎えていると認識しており、次の成長期のために「ポスト資本主義」の思想を描写しようとしている。

 だが、約5万年前「心のビッグバン」とその後の成長期、紀元前5世紀の「枢軸時代/精神革命」とその後の成長期の間にどんな関係があったのかは不明である。「心のビッグバン」に関しては、まだ文字がない時代であるから、その後の成長期との関係を追求するのは困難かもしれない。しかし、コミュニティを超えた人間の存在を肯定し、普遍的な価値を説いた「枢軸時代/精神革命」の後に実際に続いたのは、共同体を中心とした土着的な農耕社会である。だから、著者はこの矛盾を隠すために、「枢軸時代/精神革命」から近代化まで長い停滞期が続いたことにしておき、「枢軸時代/精神革命」と相性のよい近代化(=啓蒙主義による理性の合理化)と直結させたのだろう。

 さらに、リフキンのエネルギー革命の考え方を丁寧に反映させれば、19世紀の石炭時代、20世紀の石油時代の前にも定常化があったはずである。その時期に「心のビッグバン」や「枢軸時代/精神革命」に該当する現象があったのか否か、全く記述がない。以上の点で、上図はかなりいい加減だと感じる。

 著者が言う「ポスト資本主義」とは、端的に言えば「コミュニティの重視」と「自然(緑)との調和」である。つまり、近代化以前に戻れということである。さらに、ギリシア政治が「帰納的な合理性」によって共同体から個人を切り離し、ユダヤ教が「法則の追求」によって自然から個人を切り離したという2つの流れが合流して、近代科学の目覚ましい発展があったという著者の整理を踏まえるならば、著者の結論はギリシア政治やユダヤ教以前に戻れという極端なメッセージにも受け取れる。本書には社会保障の充実が大切だとか、グローバル化を超える思想が必要だとか色々書かれているが、結局それらは全て、「コミュニティの重視」と「自然(緑)との調和」という結論を糊塗しているにすぎない。

 著者が引用する国連の報告書によると、世界人口は2100年には109億人程度で安定する。また、2030年までに世界で増加する高齢者(60歳以上)のうち、29%が中国の高齢者、同じく29%が中国以外のアジアの高齢者、28%が他の発展途上国の高齢者である。21世紀は人口増とともに高齢化が進み(同時に少子化も進行し)、22世紀には世界レベルで人口減と高齢社会の出現が起きる。

 仮に、国連のシナリオ通りに事が進んだ結果、人類の消費エネルギーが減少するならば、著者の言う近代化以前=中世への回帰もあるかもしれない。だが、人口が減るからと言って、また高齢者は一般に消費エネルギーが少ないと思われているからと言って、人類の消費エネルギーが減少するとは一概には言えないだろう。22世紀の高齢者の多くはおそらく活発であるし、多様な属性とニーズを持つ高齢者を支えるには複雑で高度な社会が必要であり、その社会を動かすにはより多くのエネルギーが必要である。だから、今後も世界の消費エネルギーは増加し続けるだろうと私は見ている。

 ただ、これまでの延長線上では世界経済が成熟化し、そう遠くない将来に一旦定常化を迎えることは、多くの人が肌感覚で解っていることである。石油エネルギーは枯渇が迫っている。一方で、長期的にはまだまだ世界の消費エネルギーは増加する。このエネルギーギャップを埋めるには、新しいエネルギー革命が必要である。現在、再生可能エネルギー、すなわち太陽光、風力、波力・潮力、流水・潮汐、地熱、バイオマスなどを資源をとするエネルギーや水素エネルギーなどが次世代のエネルギー候補となっているが、どれが主役になるかは今のところ全く読めない。前述の通り、エネルギー革命を完成させるには、そのエネルギーを大量に消費する新しい技術の発明が必要だからである。

 再生可能エネルギーあるいは水素エネルギーを消費する新技術としては、電気自動車(EV)や燃料電池自動車(FCV)が候補として挙げられる。しかし、ガソリン自動車がEVやFCVに代わったところで、消費されるエネルギー量は新興国における自動車の普及スピードに依存しており、爆発的な増加は見込めない。21~22世紀が高齢者の時代であることを踏まえると、高齢者の生活様式、あるいは仕事スタイルを劇的に変える新技術がエネルギー革命を成就させるのかもしれない。その技術がいかなるものであるかは、私には予測できない。

 では、その新しいエネルギー革命によって新たな成長期に入る時代のための思想を、これから突入する定常化のタイミングで用意できるかというと、個人的には疑問である。経営学者のピーター・ドラッカーは、33歳の時に上梓した『産業人の未来』の中で、19世紀の産業の興隆に気づいていたのはアレクサンダー・ハミルトンだけだったと指摘している。ハミルトンの全盛期は、ちょうどワットが蒸気機関を発明した40年後であった。亡くなった年は、蒸気機関車の現れる20年前であった。その他大勢のアメリカ人は、蒸気機関車が普及し、エネルギー源が石炭へと移行し、経済の急成長の果実を享受できるようになってからしばらく経った後にようやく、石炭エネルギー革命と蒸気機関の発明が、産業社会という今までとは全く異なる社会形態を生み出したことに気づいたのである。

ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 新しい成長期がどのようなものになるか皆目見当がつかない中で、その成長期に養分を供給する思想を整備せよというのは酷な話である。未来の人が歴史を振り返った時に、あの成長期を実現させたエネルギー革命と新技術の発明とは何であり、その下準備をした思想はこれであったと後づけで説明できるにすぎない(実際には、先に述べたように、「心のビッグバン」や「枢軸時代/精神革命」の意義を著者自身も説明できていないのだが)。

 著者の言う「自然(緑)との調和」については、確かに自然を食い尽くしてしまったらエネルギーが取り出せなくなるから、その重要性はまだ理解できる。しかし、「コミュニティの重視」は主軸になり得ないと考える。最近、コミュニティの復活と称して、地方移住した人や定年退職した人のローカルビジネスがメディアで取り上げられることが多い。また、現役のビジネスパーソンが副業としてコミュニティで働くケースも増えている。繰り返しになるが、これらは中世への回帰である。さらに言えば、これらの事例をよく見ると、「安く暮らすことができればよい」、「死ぬまで逃げ切れればよい」、「収入の足しになればよい」といった利己心が見え隠れする。資本主義の悪い部分を受け継いでおり、中世への回帰以下である。

 新しい思想を整備する難しさを承知の上で、敢えて本書に手掛かりを求めるならば、近代から現代にかけての科学思想の変遷に着目したい。近代科学はニュートン的機械論から始まった。人間を含めて全てを機械と見なし、ある機械が動くと別の機械にぶつかってその機械を動かすという考え方である。この機械論では、最初に機械を動かすのは何なのかが問題になるが、ニュートンは神だと答えた(意外なことに、ニュートンは熱心なキリスト教徒であった。同時代の科学者には、ニュートンと同じくキリスト教徒が多い)。

 その後、人間とそれ以外を区別する科学思想、生命とそれ以外を区別する科学思想を経て、プリコジンの生命論のように、全てを連続的にとらえる思想が生まれた。プリコジンの世界観では、人間も非人間も関係なく、全てがつながってシステムを形成している。ここでも、このシステムを動かすのは何なのかが問われるわけだが、その究極の駆動員はシステム内部に埋め込まれているというのが答えである。このシステムでは、システムに含まれる諸要素を個別に見るとバラバラに動いているのに、全体としては1つの秩序になっている。これを自己組織化と呼ぶ(以前の記事「マーガレット・J・ウィートリー『リーダーシップとニューサイエンス』―秩序と変化を両立させる複雑系」を参照)。

 言い換えるならば、「普遍」と「個別」が両立している。先ほど、21~22世紀の世界は高齢者中心であり、多様な高齢者を複雑で高度なシステムで支える社会になるだろうと書いた(そのシステムに供給される新しいエネルギーが何であり、システムの中心技術が何になるかは予想できないというのも、先ほど書いた通りである)。仮に、多様な高齢者を無数のミニマムな社会で支えるならば、中世的なコミュニティ重視となる。しかし、私はその立場を取らない。

 複数の大きな社会システムが、多様な高齢者を支える。社会システムの中で働く人々(もちろん、元気な高齢者も含む)は、現場では個別対応をする。しかし、皆が個別対応に走るとシステムが崩壊する。そこで、システム全体を俯瞰し、秩序を保つ方法も習得する。さらに言えば、複数の大きな社会システムは、さらに大きな1つのシステムを形成している。ある社会システムにおける秩序=普遍は、それを包含するより大きなシステムから見れば個別である。ここでもまた、個別的な見方に収まるだけではなく、より大きなシステムの全体を見渡せる場所に駆け上がって、複数のシステムを貫く秩序を知覚しなければならない。

 非常に抽象的だが、「普遍」と「個別」という、普通は相矛盾する2つを統合する思想が、次の成長期に養分を与える思想の1つの候補だと考える。

丸山俊一『欲望の民主主義―分断を越える哲学』―民主主義の実現のために国民は政治に直接参加した方がよいのか?


欲望の民主主義 分断を越える哲学 (幻冬舎新書)欲望の民主主義 分断を越える哲学 (幻冬舎新書)
丸山 俊一 NHK「欲望の民主主義」制作班

幻冬舎 2018-01-30

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 「欲望の民主主義」というタイトルがついているのは、アメリカのトランプ現象、イギリスのEU離脱、フランス極右政党の台頭など、多数の民意を反映した選択は、目先の利益のみを優先しており、協調、協和といった精神からかけ離れたむき出しの欲望が民主主義と結びついた結果であるという意識が反映されているためである。今回の記事では、「民主主義の実現のためには、国民は政治に直接参加した方がよいのか?」というテーマを扱ってみたいと思う。

 アメリカ人は、伝統的に権力を嫌う傾向があり、権力の代表格である政府は小さければ小さいほどよいと考えている一方で、自らの幸福を実現するために政府を必要とするというねじれた感情を持っている。政治家側も、本書で紹介されているように、例えばベンジャミン・フランクリン大統領は、国民と一緒に政治を決定しようとした。フランクリンは何か問題が起きると人々を集め、消防団が必要となれば、どうやって火を消すかを一緒に協議した。同じやり方で、学校や水道、交通、郵便のシステムを作り上げたのもフランクリンである。

 ただし、アメリカ人は、心の奥底では国民と大統領が直接つながることを警戒している。トランプ大統領は、ポピュリズムによって、国民と深くつながりすぎた大統領と見なされている。神学者である森本あんり氏はアメリカを宗教国家であるととらえており、宗教国家においては人々が本当につながりたいのは神であって、大統領や政府ではない。とはいえ、元々アメリカは、宗教の自由を確保するために政府を作った国である。だから、やはり政治は必要なのである。

 アメリカの場合、その政治を担う上で重要な役割を果たしているのが中間者団体である。国民は、中間者団体の活動に協力することによって、政治に近づきすぎることなく、かといって政治を完全に拒絶することもないという絶妙なバランスを取っている。ところが、アメリカの選挙にかかる資金は膨れ上がる一方であり、選挙はマネーゲームの様相を呈していて、資金調達力が強い私欲的な中間者団体が勝つという意味で、民主主義は劣化している。

 歴史の針を戻して、近代フランスに目を向けてみよう。フランスではルソーが啓蒙主義の確立に大きく寄与した。ところが、ホッブズ―ロック―ルソーと続く啓蒙主義の系譜が全体主義につながっていったことは、経営学者のピーター・ドラッカーがまだ主に政治学者として活動していた時期から指摘していたことでもあり、啓蒙主義がどのようにして全体主義に転ずるかについては、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」でもまとめておいた。本書によると、フランスは、自国発の啓蒙主義がドイツやソ連などでファシズムに発展してしまうのを苦々しく見ていたそうだ。

 それでは、フランス国内の実情はどうであったか?本書によれば、20世紀前半のフランスは、権威(国家)主義VS無政府主義、集団的防衛戦略VS個人主義という対立で揺れ動いていたそうだ。権威(国家)主義者は、人々が国家という暴力装置を作ることで、集団で自らを防衛することを目指した。他方、無政府主義と個人主義の組み合わせは全体主義に流れやすい。啓蒙主義によって絶対視された理性が等しく個人に宿るならば、政府を作らなくても個人が直接政治を行えばよい。しかも、誰が意思決定をしても、その結果は必ず等しくなる。当時は、「右岸はお金を使い、左岸は頭を使うところ」と言われていたという。

 左岸、つまり無政府主義と個人主義の組み合わせのメリットは、アメリカと違って、中間者団体を不要とした点である。国民が政治家であり、政治家が国民であるという一体的な等式が成り立つ。一方、フランスの場合、左岸には協力、連帯が欠けていた。これは当時の国際調査からも明らかになっているそうだ。1968年5月には、パリで学生が労働者や大衆の一斉蜂起を主導し、それに伴う政府の政策転換を謀った事件があった(5月危機、5月革命)。だが、労働者間の協力に欠けるこの運動は、結局は成就しなかった。労働者は口先では連帯を唱えているにもかかわらず、バカンスになると帰ってしまうぐらいだったらしい。

 啓蒙主義が生み出した負の側面を暴いた人物にオルテガがいる。啓蒙主義は理性の力を信じ、自然界や社会の法則を全て明らかにするはずであった。ところが、研究が進むにつれて研究分野がどんどん細分化され、特定の分野を専門とする研究者は、他の研究分野に関心を示さなくなった。自分が取り組む分野と密接に関係する分野ですら理解することができなかった。さらに、こうした研究者は、自らの主張とは相容れない考えを徹底的に排除した。自分が持っている万能な理性が発見した考えに間違いがあるはずがないと信じていたからだ。これが啓蒙主義が生み出した「専門家」の実像であるとオルテガは指摘した。そして、この専門家とセットになっているのが「大衆」である。大衆は、「専門家」の言っていることなら絶対に正しいと、無批判に「専門家」を受け入れた。

 仮に、「専門家」の数が極めて少数で、その「専門家」に「大衆」が従うならば、全体主義となる。マルクスの社会主義は、生産手段に焦点を当てて経済構造を明らかにするという極めて狭い研究分野であったが、それが世界の全てであるかのように宣伝され、大衆を巻き込んだ結果、ソ連では社会主義による全体主義が生じた。啓蒙主義を生んだフランスで全体主義が根づかず、前述の5月危機が失敗したのは、マルクスほどの強烈で排外的な「専門家」がおらず、「専門家」が相当数併存した結果、”ミニ全体主義”とでも呼ぶべきものが乱立し、特定の思想が社会全体を貫くまでには至らなかったためではないかと考える。

 そもそも、政治の役割とは何であろうか?近年、国民国家という概念がグローバル規模の人々の移動によってかなり崩れかかっているが、それでもなお国民国家が有効であるという前提に立つならば、政治の役割は、「歴史的物語に沿った国民像に合致するよう、国民に生きてもらう」ことであり、「国民に生きてもらうための制度、仕組み、システムを設計すること」である(行政の役割は、その設計図に従って制度などを整備することである)。

 こうした政治の実現に向けて民主主義に期待されているのは、①決して万能ではない理性を持つ人間が集まり、相互に知を補完し合うことでより最適な解を目指すこと、②歴史的物語に沿った国民像というゴールや、各種制度という手段に対して、マイノリティや社会的弱者の意見を反映させること、③短期的に国民の欲求を満たすだけではなく、国家の存続・持続的な発展を見据えて、将来世代の利益を確保する意思決定を下すこと、であると考える。

 民主主義には直接民主主義と間接民主主義があるが、大半の国では後者が採用されている。アメリカも間接民主主義の国ではあるものの、冒頭で述べたように、心のどこかには政治に直接参加したいという欲求がある。では、実際に直接民主主義を採用した場合、どのようなことが起こるだろうか?

 まず、①については、参加する国民の数が多すぎて、意見が集約できない。いくらITが発達したとはいえ、政治が扱うのは主に定性的情報であり、ITであっても手に負えない。ここで、AI(人工知能)があるではないかという提案もあるだろう。だが、現在のAIは、まず人間からある情報を与えられて、AIが何らかの判断を下し、人間がAIの判断の正否をフィードバックすることで学習する仕組みになっている。政治の場合、ある政策が完全に正しいとも完全に間違っているとも断定することができず、AIに機械学習をさせることは困難である。

 次に②についてだが、仮に①で述べた欠陥が克服されて、大勢の国民がITを通じてある場にアクセスし、AIを使って政治を行う仕組みを構築することができたとしよう。しかし、この仕組みが健常者による利用を想定しているならば、例えば視覚に障害がある人はその仕組みから排除されやすい。

 ITとAIによる仕組みは夢物語で、現実的には、日時、時間、場所を指定して討議を行うというオーソドックスな形式になるだろう。この場合、討議に参加できない人の割合はさらに増える。そして、往々にして、討議に参加できないのはマイノリティや社会的弱者である。討議を週末に設定すれば、子どもの世話と家事に追われる女性は参加が難しくなるし、地方において討議を駅近くの公共施設で実施すれば、駅から遠く離れたところに住んでいる高齢者は参加が難しくなる。日時、時間、場所をどのように設定しても、精神障害者や性的マイノリティは、討議に参加すること自体が、「私は精神障害者や性的マイノリティである」と告白することに等しくなるため、参加のハードルが上がる。

 最後に③についてである。仮に国民全員(マイノリティや社会的弱者を含む)が参加できる討議の場を形成することができたとしよう。ここで、国家は存続・持続的な発展を目指していることを思い出していただきたい。ということは、まだ生まれていない次世代の人々の利害も考慮しなければならないことを意味する。場合によっては、次世代の国民の利益を守るために、現在の国民の利益を犠牲にする必要があるケースも出てくる。直接民主主義の場合、それぞれの国民は自分の利益が恋しいから、中長期的な視点に立った意思決定は難しい。

 そのため、一定の母集団を代表する人を選出し、その中にはマイノリティや社会的弱者を代表する人も含むとともに、時には自らが代表している集団の利益を犠牲にしてでも、将来世代のために重大な決断をすることが可能な間接民主主義を採用している国が多いと考えられる。代表者が母集団の利益を犠牲にできるのは、代表者は母集団の利益を”代表”している人間であり、代表者の利益と母集団の利益が必ずしも”等しい”とは限らないからである。代表者が母集団の利益を一歩引いた立場から眺め、将来世代の利益との平衡を実現することは、母集団を構成する当の国民に比べれば(多少ではあるが)容易である。

 政治の役割は、「歴史的物語に沿った国民像に合致するよう、国民に生きてもらう」ことであり、「国民に生きてもらうための制度、仕組み、システムを設計すること」であると書いた。国民は政治からの要請を受けて生きなければならない。より具体的には、能力を高め、仕事に勤しみ、市場で取引をし、家族や隣人を助けることなどによって、自ら生きて国家の存続に貢献する責務がある。

 普通は、毎日を生きるだけで精一杯であり、政治に参加することはおろか、政治のことを考える余裕すらなかなかない。とりわけ日本ではそのような風潮が強いと感じる。SNSで政治的発言ばかりをする人や、政治的発言をする芸能人や有名人に対して、周囲の人は「この人は暇なのか?」、「もっと本分を守れ」と思っている(政治的な記事を時々アップしている私も、「本業の経営コンサルティングにもっと集中せよ」と思われているに違いない)。

 だから、日本の場合は間接民主主義がよりフィットしやすい。しかし、それは裏を返せば、国民と政治家の距離が遠いことを意味し、選挙に対する関心が低すぎることや、選挙が終わるとその関心がさらに低くなることに現れている。国会議員に限定して話を進めると、国民と国会議員との間の情報のチャネルがまだまだ未熟であることが要因の1つであると考えられる。「生きる」という本分に集中している国民の意思を尊重しつつも、「生きる」ことに意味を与えている政治への国民の理解度を引き上げることが大切である。

 まず、国民から国会議員に対しては、議員会館への陳情などという仰々しい形を取らなくても、もっと簡便な方法で自らの利害を訴求する機会を作る。だが、先ほど述べたように、国民は普段の生活で手一杯であり、政治に参加する余裕が少ないから、国民側からの積極的なアクションはあまり期待できない。

 もっと重要なのは、国会議員から国民への情報提供である。第一に、国会議員は、自分が何者であるのかを明確にする。言い換えれば、誰の利害を代表しているのかをはっきりさせる。国会議員ともなれば、通常は複数の集団の利害を代表していることだろう。この点を明らかにしなければならない。とりわけ、マイノリティや社会的弱者の利害を代表している場合は、それを強調する。

 第二に、民主主義を通じて、マイノリティや社会的弱者の利害、あるいは将来世代の利害との調整を図った結果、自らが代表する集団の利害に変化が生じる場合には、議論の経緯と今後予想される事態について丁寧に説明しなければならない。この説明を怠れば、次の選挙で自らが代表する集団からの支持を失うだろう。これらの情報提供は、「生きる」ことに忙しい日本人の日常生活の中にすっと溶け込むように、相当の工夫を凝らして行う必要がある。

 ここからはおまけの話である。こういう情報チャネルが充実して、国民と国会議員の距離が近くなると、必ずその関係を悪用する輩が出てくる。ニュースの中だけの話かと思っていたら、私も身近で経験したことがある。安倍政権になってから中小企業向けの補助金が一気に増えた。私は一時期、ある補助金事業の事務局員をしていたのだが、補助金交付のルールをめぐって事務局とトラブルになった中小企業の経営者が、国会議員を使って中小企業庁に圧力をかけ、補助金を無理やり交付させようとしたことがあったらしい。国会議員をまるでヤクザか何かだと勘違いしている人間は現に存在している。

 政治家は、「歴史的物語に沿った国民像に合致するように生きよ」という、国民に対する政治的要請を無視して、卑しい心で動く人間を突っぱねる職業倫理を持っていなければならない。仮に相手から、「補助金がもらえずに俺の会社が倒産したらどうするのか?俺を殺す気か?」などと言われても、「そんな人間なら死んだって構わない」と凄んでみせればよい。その会話を録音されてマスコミに公開されても、その発言には十分な正当性があったと堂々と言い切ればよい。

森本あんり『宗教国家アメリカのふしぎな論理』―アメリカが自由と平等を両立させようとした結果


シリーズ・企業トップが学ぶリベラルアーツ 宗教国家アメリカのふしぎな論理 (NHK出版新書 535)シリーズ・企業トップが学ぶリベラルアーツ 宗教国家アメリカのふしぎな論理 (NHK出版新書 535)
森本 あんり

NHK出版 2017-11-08

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 ブログ本館の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」で、アメリカのイノベーションは反知性主義で説明ができると書いたが、本書を読んでこれにはもう少し補足が必要だと感じた。

リベラリズム

 ブログ本館の記事「『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)」で上図を示した。私は、右派と左派の違いについて、右派は多様性を尊重するのに対し、左派は平等を重視し、特定の階層や階級に属する人、特定の属性を有する人を全面的に擁護するものだと考える。多様性を重視するのは右派ではなく左派ではないかという声もあるだろう。確かに、左派は例えばLGBTQのようなマイノリティにもっと着目せよと言う。ただし、LGBTQに対して、伝統的な男女間の婚姻関係と同様の法的保護を与えよと主張しているという点で、差を”揃えよう”、あるいは差が”なかったことにしよう”としているわけであり、実際には多様性を黙殺することによって強引に平等を実現している。

 これに対し、右派が多様性を扱う場合、人種、国籍、性別、年齢、出身地、宗教、価値観、親の地位、学歴、職業、婚姻状況などに違いがあるのには、それなりの理由があると考える。違いがあるのだから、社会(ヒエラルキー社会)における役割分担も異なる。よって、格差や不平等が生じるのは当然だとする。ただし、誰しもが自分の意見を述べる自由は有している(自由主義、リベラリズム)。下の階層に属するからというただそれだけの理由で、上の階層の人に対して自分の意見が言えないという状況は、本当の右派ではない。

 私はブログ本館で、近代の啓蒙思想、特にフランスの啓蒙主義が全体主義を招いたと説明してきた。ただ、これは一面的な見方ではないかと内心では常々思っていた。完全無欠の唯一絶対神に似せて創造された人間は、生まれながらにして完全な理性を持っているから、手を加えなくてよいと考えると、全体主義、社会主義につながる(ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。一方、人間の理性は生まれた時点では”眠った”状態であり、人生とは眠った理性を叩き起こし、完璧に向けて理性を磨き上げていく過程だと考えれば、科学技術の進歩の可能性が生まれ、同時に資本主義も発展する。私は後者の側面を軽視していた。

 (※)さらに言えば、両者の混合体とでも呼ぶべき「科学的社会主義」なるものがある。冷戦期のソ連は社会主義国でありながら科学技術の向上に血眼になり、実際に宇宙に人間を送り込むことにまで成功していた。この現象をどのように説明すればよいのかが、私にとっての今後の課題である。

 トランプ大統領が誕生したのは、没落した白人中流階級の強い支持があったからとされる。また、イギリスのEU離脱を支持したのは、EUから押しつけられる緊縮政策によって格差拡大の被害を被った労働者階級であったと分析されている。さらに、ヨーロッパでは、ドイツのAfD(ドイツのための選択肢)をはじめ、移民排斥を訴える政党が急速に支持を伸ばしているが、その背景には、大量の移民流入により若年層の失業率が上昇し、貧困にあえいでいるという実情がある。

 トランプ大統領も、EU離脱派も、移民排斥を訴える政党も、社会に広範囲に広がる弱者(マイノリティである弱者ではない点に注意すべし)にスポットを当て、彼らを救済すべきだと主張する。彼らこそ社会の全てであり、他の人間は悪であるという二分論に持ち込む。これは全体主義によく見られる排外主義である。さらに、こうした弱者は十分な教育を受けておらず、知識が乏しいと見られている。そこで、彼らからの支持を取りつけようとする人は、反知性主義に走る。

 反知性主義とは、単に知識の価値を否定する立場ではなく、知識層が権力を握っているという社会構造を批判する立場だと著者は指摘する。だから、本当であれば、弱者に対して、「君たちこそこの社会において権力を握るにふさわしい」とその政治的正統性を滔々と語りたいところである。だが、いかんせん弱者は十分な教育を受けていないため、そのような説明をしても聞き入れてくれない。だから、「君たちは絶対的に正しい。それ以外は皆クソだ」といった極端で過激なワンフレーズを多用するポピュリズムに傾倒する。トランプ大統領も、EU離脱派も、移民排斥を訴える政党も、一般的には極右とされるが、ラディカルな平等主義を志向しているという意味では、極左と呼ぶのが適切だと私は考える。

 全体主義―反知性主義―ポピュリズムは、社会に広範囲に広がる弱者をターゲットとして、彼らに合わせてそれ以外の者を平等に扱う、もしくは彼らに合わない人々を排斥するという立場である。これに比べれば、福祉国家はかなり穏健である。福祉国家は、社会のだいたい中間ぐらいに位置する層をターゲットとし、彼らに合わせて格差を調整し、平等の実現を目指す。誰もが一定の収入を得、それなりに豊かな暮らしを送り、必要な時には手厚い社会保障を受けられるようにするというのが福祉国家の目標である。

 ネオリベラリズムを左派に位置づけたのはなぜか?ネオリベラリズムは究極の自由競争を是とし、自由競争を勝ち上がった一部の者だけが社会の勝者であり、大量の敗者=弱者が生まれるのは仕方がないと割り切る。全体主義―反知性主義―ポピュリズムや福祉国家では、政府が誰を平等に扱うかを決定するのに対し、ネオリベラリズムにおいては政府が出る出番はない。市場という調整機能を通じて、自然と勝者が決まる。彼らは社会の富を独占し、富裕層なる一種の階級を形成する。富裕層が社会の全てだと見なされるという点では、全体主義―反知性主義―ポピュリズムが社会に広範囲に広がる弱者に、福祉国家が社会のだいたい中間ぐらいに位置する層に社会を代表させる点と共通する。だから私は、ネオリベラリズムを右派ではなく左派としている。

 興味深いことに、アメリカのイノベーションは、ネオリベラリズムと全体主義―反知性主義―ポピュリズムとががっちりと手を握ることによって成立していると私は考える。本書はアメリカにおいて宣教師がどのようにしてキリスト教を布教したのかを分析した本である。初期の宣教師は、教会の権威を頼りに、ヨーロッパから輸入された神学的解釈を人々に伝道していた。ところが、「アメリカ人にはそんな難しいことは理解できない」、「宣教師が教会の権威を盾にしているのはおかしい」と主張する人が出てきた。ここに反知性主義が現れるのであり、その担い手となったのが、巡回宣教師と呼ばれる人々であった。

 彼らは街中でいきなり布教活動を始める。ターゲットは、それほど教育を受けていない、社会の中で言えば中の下ぐらいに該当する人々である。巡回宣教師は、彼らにでも理解できる平易な内容で布教を行う。つまり、ポピュリズムである。ターゲットが中の下ぐらいの人々とはいえ、人数はたくさんいるから、彼らから少しずつお金を集めただけでも宣教師にとっては相当の収入になる。布教の新しい形を創造したという意味で、これはイノベーションと呼べる。

 だが、そういうイノベーションが有効だと解ると、自分の方がもっと上手に布教できる、もっと上手に人々を熱狂させることができるはずだと考える人たちが現れ、布教方法をめぐる激しい自由競争が始まった。彼らはプレゼンテーションの腕を磨き、出版物を通じて自身の考えを発信し、信者を獲得することに余念がなかった。やがて、競争を通じて人気宣教師が選別され、聴衆から得られる収入は一部の人気宣教師に集中するようになった。勝者となり、莫大な富を手にした人気宣教師は、後は悠々自適の余生を送ればよかった。

 一方で、説教を受けた中の下ぐらいの人々は、教えを実践したおかげで多少暮らし向きがよくなったとはいえ、アメリカ社会全体が成長しているため、依然として中の下にとどまっている。すると、未だ中の下を抜け出せない人々に向けて、何を信じるべきか、何をなすべきかを説く新しい布教スタイル=イノベーションをめぐり、再び自由競争が始まった。この後の過程は先ほどと同じである。

 アメリカは自由と平等を理念とする国である。まず、平等の理念によって、中流階級(その中でも、中の下ぐらいの人々)を社会の主役にする。一方で、彼らを救済するイノベーションは、自由の理念に基づいて激しい競争という門をくぐらせ、最終的に勝った一部のイノベーターだけが巨万の富を獲得する。

 だが、イノベーターのソリューションは、中の下ぐらいの人々を完全に救済するには程遠い。よって、未だに残る中の下ぐらいの人々を救済すべく、新たなイノベーション探しという名の激しい自由競争が始まる。そして、生き残った一部のイノベーターだけが富裕層の仲間入りをする。アメリカで繰り返されているのはこういう現象である。平等と自由を両立させようとした結果、言い換えれば、一見すると相容れないような全体主義―反知性主義―ポピュリズムとネオリベラリズムがタッグを組んだ結果、格差は固定され(るどころか拡大し)ている。

 1つ例を挙げると、アメリカの労働者(中の下ぐらいの人々)の多くは、非効率な仕事と劣悪な労働環境に悩まされている。そこに携帯電話というイノベーションが登場した。これによって、遠隔地間のコミュニケーションが効率化され、労働環境が改善されるはずであった。しかし、実際に起きたのは、休暇中であっても携帯電話が鳴り、休暇先でも仕事をしなければならないという悲劇であった。そこに、「口頭でやり取りをしているから非効率なのだ。文書化すればもっとスムーズに仕事ができる」という触れ込みで登場したのがパソコンである。だが、実際に起きたのは、作成すべき文書の急速な増大であり、四六時中文書を読んだり作成したりしなければ仕事が追いつかないという状況であった。

 そこで今度は、「パソコンがなくても、もっと手軽に文書の閲覧・編集ができる」という謳い文句でスマートフォンが登場した。しかし今度は、スマホ依存症という病的状態を生み出し、短文でしかやり取りができないという知性の低下をもたらした。この問題の解決策として次に提示されるのは、おそらくAI(人工知能)だろう。イノベーターは、「短文であっても、大量にデータを集めて解析すれば、機械が最適な判断をしてくれる」と売り込んでくるに違いない。

 儲かったのはネオリベラリズムで勝ち残った携帯電話メーカー、パソコンメーカー、スマートフォンメーカーであり(ここに将来、AI企業が加わるはずだ)、中の下ぐらいの人々の暮らし向きは、イノベーターの反知性主義―ポピュリズムによって固定されたままである。いや、どんどん高価になっていくイノベーションによって、イノベーターはますます金持ちになるが、逆に中の下ぐらいの人々はますます搾取されて、両者の格差は拡大する。
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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京から実家のある岐阜市にUターンした中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。双極性障害Ⅱ型を公表しながら仕事をしているのは、「双極性障害(精神障害)の人=仕事ができない、そのくせ扱いが難しい」という世間の印象を覆したいため。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

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