こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。


『正論』2018年10月号『三選の意義/日本の領土』―樋田容疑者さえ捕まえられない日本警察の下でスパイ防止法など運用できるはずがない


月刊正論 2018年 10月号 [雑誌]月刊正論 2018年 10月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-09-01

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 北朝鮮は、核ミサイルを持たなかったリビアのカダフィ体制がアメリカによって崩壊したのを見て、体制維持のために核ミサイル(ICBM)を開発したと言われる。しかし、北朝鮮という小国が数十発程度ICBMを開発したところで、アメリカにICBMを撃ち込めば、世界最大の核保有国によって簡単に国ごと葬り去られるのは自明である。あくまでも北朝鮮にとってICBMは、韓国から在韓米軍を撤退させ、将来的に南北統一を実現させるための外交カードにすぎない。また、アメリカも核先制不使用の方針を墨守している。よって、北朝鮮もアメリカも、自らが最初に核ミサイルを使用する気はさらさらない。

 北朝鮮が昼夜問わず弾道ミサイルを発射する中、常時警戒する態勢を整えるために、日本政府がアメリカの新型迎撃ミサイルシステムである「イージス・アショア」の導入を決定したのは2017年である。だが、配備には5年かかるという。トランプ大統領と金正恩第一書記があれだけの舌戦を繰り広げていて、まるで明日にでもミサイルが日本に発射されるのではないかという雰囲気があったことを考えると、この配備スケジュールはあまりにものんびりしている。要するに、北朝鮮は本気で日本にミサイルを撃ち込むつもりなどなかったのである。防衛省は、アメリカから「お買い物リスト」を見せられて、アメリカから言われるがままに迎撃ミサイルシステムを導入したというのが実態であろう。

 中国と日本の関係も同様である。本号では、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹の宮家邦彦氏が次のように述べていた。
 外務省の役人時代、日本のミサイル防衛をめぐって在日中国大使館の館員から「わが国を敵視するもので、緊張感を高める」と抗議を受けたことがあった。私が「中国は日本にミサイルを撃つ気でもあるのですか?ミサイル防衛は日本にミサイルを撃つ気のない国にはまったく影響ありません。貴国は日本にミサイルを撃とうなんて考えていないでしょうから、心配する必要はありませんよ」と答えたら、その外交官は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべていたことを思い出す。
(宮家邦彦「スパイ防止法は世界の常識」)
 防衛省はやはり2017年に、戦闘機に搭載する長射程の空対地ミサイルの導入に向け、準備経費を2018年度予算案に計上した。導入するのは、ロッキード・マーチンの「JASSM」と「LRASM」の2種類に加えて、ノルウェー企業の「JSM」というミサイルになる予定である。これらのミサイルは敵の攻撃を受けにくい地点から発射できるのが特徴で、東シナ海で活発化する中国軍の動きを牽制するのが狙いである(射程が1,000kmあるため、北朝鮮にも届く)。

 一方、複数の見方があるが、中国が尖閣諸島を奪取するのは2020年まで、または2020年からの10年間、あるいは2035年から2040年代にかけてとされる。仮に中国が最短の奪取計画を採用した場合、JASSMなどの戦闘機への搭載は2020年には間に合わない。だとすると、実は中国は本音では2020年までに尖閣諸島を奪取しようとは思っておらず、中国の宣言に慌てた日本がアメリカにそそのかされてミサイルを買ってしまったのではないかと考えてしまう。

 このように、日本の防衛はどこかスケジュール感がずれており、「本当に使えるのか?」といった類のものを導入しているように見える。現在、世界ではどの地域でも紛争が発生しそうな雰囲気がある。しかし、その紛争の行方を握っているのは、依然としてアメリカである。アメリカのさじ加減1つで、世界で紛争が起きるか否かが決まる。トランプ大統領は元来平和主義者であると言われており、言葉遣いこそ荒いものの、内心では紛争を望んでいない。だから、トランプ大統領がいる限り、世界では大規模な紛争が起きる可能性は低いと思われる。

 日本はそれがよく解っていないので、平和主義者だが軍需産業の強いロビー活動によってやむなく軍需産業を活性化しなければと考えているトランプ大統領によって、日米同盟を道具に、アメリカの最新武器を買わされている。私は、当面世界で大規模な紛争が起きる可能性が低い今だからこそ、アメリカ軍需産業のお得意様に成り下がっている場合ではなく、憲法改正をしっかりと行って、自衛隊の位置づけを憲法上で明らかにするべきだと考える(ブログ本館の記事「『正論』2018年10月号『三選の意義/日本の領土』―3選した安倍総裁があと2年で取り組むべき7つの課題(1)」を参照)。

 ところで、先ほどの宮家邦彦氏は、「スパイ防止法」を日本でも早く制定するべきだと主張していた。日本は昔からスパイ天国であった。『致知』2018年10月号の中西輝政氏の記事によると、関東大震災の時にはアメリカのスパイが大量に日本国内に流入していた。ロシア革命時のソ連の救援団の中にもスパイが紛れ込んでいた。驚くべきことに、日米野球で来日したベーブ・ルースの捕手を務めた選手もアメリカのスパイだったという。

致知2018年10月号人生の法則 致知2018年10月号

致知出版社 2018-09


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 ただ、樋田淳也容疑者ごときに大阪府警富田林署の脱走を許し、48日間もの間捕まえられなかった日本警察に、外国のスパイの取り締まりができるとは到底思えない。私はブログ本館の記事「『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)」で、対立する大国に挟まれた小国が一方の大国と同盟を結んでその国の庇護下に入り、もう一方の大国と対峙するという関係はもう時代遅れなのではないかと書いた。仮想敵国が流動的に変化しうる可能性のある時代においては、伝統的な同盟関係は通用しにくい。

 私は、対立する双方の大国の政治、経済、社会、軍事の特徴を小国にオープンかつ柔軟に流入させ、小国が独自の国家システムを構築することで、どちらの大国に対しても、自国は味方なのか敵なのか解りにくくさせることが、小国の新しい戦略的ポジショニングになると考える。大国からすると、小国の本音が解らないので、簡単には手出しができない。それが小国にとっての抑止力になる。私はこれを今のところ「ちゃんぽん戦略」と呼んでいる。桑田佳祐氏が「いいひと~Do you wanna be loved?」という曲の中で、「あっち向いて”いい顔” こっち向いてニコッ!! アンタは本当に”いいひと”さ 曖昧 中庸 シャイ 気まぐれ そんなニッポンの"お家芸”が好きかい!?」と当時の民主党政権を揶揄していたが、私は小国日本はむしろこの態度を貫徹するべきだと思う。

 軍事に関しては、いっそのことスパイにやりたい放題させればよい。現在でも、アメリカは絶対に認めないものの、エシュロンを通じて日本の全ての情報を傍受しているし、おそらく中国のスパイも多数日本に潜り込んでいる。

 まず中国のスパイが日本でアメリカの対中戦略情報を入手する。そのまま中国に持ち帰られる情報もあるが、日本国内の中国人スパイがその対中戦略情報を活用して、日本国内で対米戦略を練ることもあるだろう。すると次は、アメリカのスパイがその対米戦略情報を入手する。そして同様に、日本国内で対中戦略を練り直す。これを繰り返していけば、中国もアメリカも常に相手国に対する戦略をアップデートしなければならず、いつまでも日本ないしは相手国への攻撃に踏み切ることができない。情報が固定的である方が、合っているかどうかは別として、何らかの仮説に基づいて戦略の実行に踏み切られるリスクが大きい。

 最後に、集団的自衛権と集団安全保障について述べておく。古是三春氏は元陸上幕僚長の冨沢暉氏の『軍事のリアル』から以下の文章を紹介している(孫引きになることをご容赦いただきたい)。
 「本来戦闘を目的とせぬPKOに参加しながら、やむを得ず戦闘する場合がある。実はこれが集団安全保障における武力行使であり、明らかに自衛とはいえぬ武力行使である。・・・これらは各国独自の権限に属するものではなく、『世界の秩序維持機構たる国連』の要請に応じての義務遂行にあたるもので、不戦条約や憲法第9条が禁止する武力行使とはまったく系列を異にする」
(古是三春「敵地攻撃能力 当たり前の”自衛”がなぜできない」)
 私もまだ十分に理解しきれていないのだが、憲法9条が定めているのは自衛権のことであるのに対し、集団安全保障は国連憲章に定められた国連加盟国の義務であり、国際法上、国連憲法は各国の憲法よりも上位に位置するから、各国は集団安全保障の義務を負わなければならないということである。

 2015年の安保法制によって、憲法9条の下で集団的自衛権が認められた。文言上は従来の個別的自衛権に毛が生えた程度にすぎない。しかし、運用の段階になって、アメリカの都合のよいように解釈され、アメリカが日本から遠く離れた地域で引き起こした紛争であっても、放っておけば日本に危険が迫ると言われて自衛隊が出動させられる恐れがある。私は、それは安保法制で定めた集団的自衛権の範囲を大きく逸脱しているから、国会が歯止めをかけるべきだと考える。あくまでも集団的自衛”権”であって、集団的自衛”義務”ではない(ブログ本館の記事「『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について」を参照)。

 ただ、これが集団安全保障となると話が違ってくる。集団的安全保障とは、ある国連加盟国が、別の国から不法な攻撃を受けた場合には、その他の国連加盟国が一致団結してその被害国を支援するという考え方である。その支援とは、実際の軍事的な行動を指す場合もあれば、救援物資や資金の援助にとどまることもある。日本は「憲法で武力行使を禁じている」という立場から、今まではPKOにとどまっていたが、仮に憲法9条と集団安全保障が別物という考え方に立つならば、日本の立場は通用しないことになる。日本の憲法が武力行使を禁止していようが、日本が国連に加盟している以上、集団安全保障の義務を負うのは当然であり、武力行使の要請に対してNOとは言えない。

 以前、ブログ本館の記事「『正論』2017年11月号『日米朝 開戦の時/政界・開戦の時』―ファイティングポーズは取ったが防衛の細部の詰めを怠っている日本」で、日本の自衛隊は邦人救出はできないのに、安保法制によって駆けつけ警護が可能になったのはおかしいと書いてしまったが、邦人救出は自衛権の話であるのに対し、駆けつけ警護は集団安全保障の話であり、両者を混同していたと反省した。私は、アメリカに振り回されて自衛隊を紛争地に派遣するのには反対だが、国連加盟国である以上、国連の要請には応える義務があると考える。それでも、憲法で武力の行使を禁止しているという理由で、自衛隊を紛争地へ送り込むことに反対するならば、日本は国連を脱退するしかない。

斎藤洋一、大石慎三郎『身分差別社会の真実』―「ケガレ」を「キヨメ」ることができる、神とつながった人々が差別されるという不思議


身分差別社会の真実 (講談社現代新書)身分差別社会の真実 (講談社現代新書)
斎藤 洋一 大石 慎三郎

講談社 1995-07-17

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 斎藤洋一氏と大石慎三郎氏の2人による共著だが、2人の思惑は若干異なっている。斎藤氏は、江戸時代の身分制について、武士、百姓、町人、えた・ひにんという身分間の格差よりも、同一身分内の格差の方が大きかったことを問題にしている。例えば、武士は大名、旗本、御家人、百姓は本百姓、小前百姓、町人は町年寄、町名主、草分名主、小町名主、平名主などに分かれており、それぞれの身分の間には厳然たる格差があったことを指摘している。ただ、この指摘は本書の導入部のみにとどまり、残念ながらそれ以上の考察は行われていない。

 本書の主眼は、大石氏による「えた身分」をめぐる差別の実態を解き明かすことにある。我々は学校の歴史の授業で、被差別民としてえた・ひにんの2種類を学習したが、実際にはそれ以外にも様々な被差別民が存在した。全てを挙げることはできないが、本書からその一部を拾うと、ちゃせん、とうない、みやばん、猿まわし、わたしもり、ささら、しゅく、はちや、ばんたなどが存在していた。これらの被差別民をまとめて、本書では便宜上「えた身分」と呼んでいる。

 そして、重要なのは、こうしたえた身分が、江戸時代になって幕府の権力によっていきなり作られたのではなく、その起源を中世に遡ることができるという点である。仮に、江戸幕府が自らにとって都合のいいように被差別民という身分を作ったのであれば、全国各地に人工的に被差別民の集落が形成されていなければおかしい。ところが、それぞれの被差別民には地域性がある。

 特に、死んだ牛を解体する仕事に従事していたえたは、近畿地方に集中している。日本人には伝統的に死をケガレとして嫌う傾向があり、死んだ牛の解体はケガレた仕事であるから、えたに任せていたというわけである(えたは漢字で書くと「穢多」=「穢れが多い」となる)。よって、大石氏は、被差別民という存在は権力が作り出したものではなく、人々が皆で作り上げたものだと主張する。

 だが、本書を読んでいくと、よく解らないことがいくつも出てきた。

 ・「ちゃせん」は主に中国地方に少数点在した被差別民で、農業の傍ら竹細工などを行い、また祝福芸能に従事したとある。また、「みやばん」は主に長門国に点在した被差別民で、神社の清掃・警察的業務、さらには村の取り締まりなどに従事したとある。不思議なのは、ケガレた存在である彼らが、キヨメの象徴である神社の警備や祝福芸能に参加していたことである。本当に彼らがケガレた存在であれば、彼らを神社から遠ざけようとするのではないだろうか?

 ・えた・ひにんは、平人と同じ火=窯で煮炊きしたものを食べてはならない、煙草の火をもらう時も直接もらうのではなく、一旦捨ててもらって、それをもらうようにとされていた。これは、神聖な火がえた・ひにんによってケガレることを恐れたためである。一方で、一部のえた身分の中には、「灯心」の製作・販売に携わっていた者がいるという。灯心とは、ロウソクの芯である。つまり、神聖な火に関わる製品をえた身分に作らせていたことになり、この点でも矛盾を感じる。

 ・えた身分の人々は、戦国期から市の警備などにあたり、その際、市で商いをする商人・農民などから「市役銭(いちやくせん)」を徴収していた。えた身分がケガレた存在であれば、華やかな市などには関わらせないようにしようと考えるのが普通だろう。しかし、実際にはそれとは正反対に、えた身分に番役を積極的に担わせ、対価まで支払っている。これは、えた身分に市の繁栄を祈る呪的な能力があると見なされていたのではないかと大石氏は考える。

 このように、えた身分の人々は、単にケガレた存在ではない。ケガレをキヨメる力があったと考えられる。だから、神社に出入りし、祝福芸能の役割を担い、神聖な火を扱う灯心の製造・販売を行い、市の番役を任せられた。彼らは、身分社会の最底辺にいながら、実は、神に最も近い存在であった。中世に起源をもち、江戸時代に完成した身分差別社会を簡単に書くならば、神⇒天皇⇒公家⇒武士⇒百姓・町人⇒被差別民という構図になるだろう。ところが、もう少しこの構図を精緻に描けば、被差別民から神に対して上向きの矢印が伸びていて、被差別民は神に仕えていたことになる。そして、その神の命令を天皇が受け取り、下の階層へと伝達していたという複雑なシステムが浮かび上がってくる。

 ブログ本館で、現代の日本の階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という形でラフスケッチしたことが何度かあるが、この構図についても、江戸時代と同じことがあてはまる。つまり、最下層に位置する家庭に所属する国民から天皇に対して上向きの矢印が伸びていて、憲法という形で天皇の権力を制限する。また、国民主権の名の下に、国民は立法府に対しても上向きの矢印を持っており、立法府の法律制定能力をある程度コントロールしている。今まで私は非常に単純な多重階層社会を考えてきたが、実態はもっと複雑であることに目を向けなければならないと思い知らされた。

 《追記》
 余談だが、本書にはまだ解らない点がある。そのうち2つを記しておく。

 ・日本人が伝統的にケガレを忌み嫌う民族であり、神道はその傾向が特に強いことは前述した通りである。天皇は神道に従事し、キヨメに集中する存在であった。だが、実際問題として人民や動物は死に、ケガレが多発する。この問題をどう扱うかに頭を悩ませていた時に、ちょうど中国から朝鮮半島経由で日本に流入したのが仏教であった。仏教はケガレを積極的に扱ってくれる。天皇はケガレの処理を仏教にすっかり任せてしまい、ますますキヨメに集中するようになった。

 そんなケガレを扱う宗教であるから、本来であれば人々から敬遠されてしかるべきである。ところが、仏教は鎌倉時代以降ずっと力を持ち続け、ついに江戸時代には、檀家制度に代表されるように、仏教が国家制度の中心に据えられた。ケガレに直接携わるえた身分は差別されたのに、仏教徒は差別されるどころか幕府によって優遇されたのはなぜなのか、理解に苦しむところである。

 ・えた身分の人々は、藩から町や村の見回り、犯罪人の捜索・逮捕といった、いわば下級警察的な役務に従事させられていた。これもよく考えてみれば不思議なことである。警察権というのは、国家や藩が社会の治安を維持するための強力な行政権の一部である。そんな重要な任務を、被差別民に任せていたというのが不可解である。確かに、下級警察的な役務の延長線上で、処刑の役割を担っていたこともあるから、これはケガレを担当するえた身分の範疇としてとらえることができるだろう。しかし、一般の警察権をえた身分に与えていた理由は、ケガレという観点からはどうにも説明ができないように思える。

山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―上下関係とは上から下への一方的な指揮命令関係だけではない


帝王学―「貞観政要」の読み方 (日経ビジネス人文庫)帝王学―「貞観政要」の読み方 (日経ビジネス人文庫)
山本 七平

日本経済新聞社 2001-03-01

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 「貞観政要」は、唐代に呉兢が編纂したとされる太宗(李世民)の言行録である。「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」を意味する。本書はこの貞観政要の内容を山本七平なりに解釈したものである。貞観政要は日本でも幅広く読まれており、特に徳川家康は好んで読んだとされる。

 「貞観の治」と呼ばれる太宗の安定した政治を特徴づけるもののは、何と言っても太宗が臣下からの諫言を積極的に受け入れたことである。もちろん、天命によって君主となった人物とはいえ、太宗とて人の子であるから、臣下からあれこれと注意をされれば気分がよいものではない。事実、諫言をした臣下に対してあからさまに嫌悪感を示しているような、人間臭い一面もある。ただ、それはごくごく例外的で、大半において太宗は臣下からの声に耳をよく傾けた。

 太宗が特に重宝したのが、房玄齢、杜如晦、魏徴、王珪の4人である。房玄齢、杜如晦の2人は唐の律令制度をはじめ、様々な国家制度の整備に尽力した功労者である。面白いのが魏徴、王珪の2人であり、彼らは元々太宗の臣下ではなかった。太宗がまだ君主になる前のこと、つまり李世民だった頃、王位をめぐって李建民・元吉兄弟と争ったことがある(玄武門の変)。実は、魏徴と王珪は建民、元吉側の人間であった。玄武門の変に勝利した太宗は、敢えて敵に仕えていたこの2人をスカウトした。敵にあれだけの忠誠を誓うのだから、自分に対しても高い忠誠心を持ってくれるに違ないと期待してのことだった。事実、この2人は太宗の期待に応え、太宗の政治において重要な役割を果たした。

 特に、魏徴は太宗に対してよく、そして厳しく諫言したことが貞観政要からは読み取れる。随分昔に、旧ブログの記事「部下にだって「上司に物申す時の流儀」ってものがある」で、魏の君主・曹操に使えた郭嘉と孔融という2人を取り上げたことがある。この2人も曹操によく諫言したのだが、孔融は史実を都合のいいように曲げたり、多分に皮肉を含んだ迂言的な諫言をしたりしたために、結局は曹操に疎んじられ、殺害されてしまった。その点、魏徴の諫言は非常にストレートである。中には、「太宗が有終の美を飾るための提言」などというものもあって、まるで太宗に退位を迫るかのようなものなのだが、それでも太宗に受け入れられたのは、よほど厚い信頼関係で結ばれていたためであろう。

 太宗がこれほどまでに臣下の意見を重宝したのには理由がある。太宗は幼い頃から弓矢を好んでおり、その道には熟達していると思っていた。ところがある時、自分が手に入れた良弓を弓工に見せると、「こんなものは真っすぐに飛ばない」とばっさり切り捨てられてしまった。この時太宗は、自分は弓矢の道に通じていると天狗になっていたが、実は全く理解が及んでいないことを痛感させられた。弓矢の道ですらこのような具合なのだから、まして自分が不慣れな政治の道に関しては、様々な過ちを犯すであろう。だから、決して独断で物事を進めずに、必ず周囲の人々の意見を聞くことにしようと決意したわけである。

 古代の中国の政治を見ていると、太宗の例のように、君主から臣下に対する一方通行の指揮命令関係だけでは語れない側面がたくさんある。下から上に対して影響力を及ぼす関係も重要である。これを私はカギ括弧つきの「下剋上」と呼んでいる。通常の下剋上は、下の地位の者が上の地位の者に取って代わることを目的とする。これに対して、「下剋上」の場合は、下の地位にある者が、下の地位にいながら、その自由意思を発揮して、上の地位の者の言動を変化させることを目的としている。決して、地位を乗っ取ろうとしているわけではない点に大きな特徴がある。この「下剋上」があるから、上の階層の者は誤りを犯す確率が減るし、下の階層の者は生き生きと仕事をすることができる。現在のように共産党が強権的に支配する中国ではおよそ考えられないことだろう。

 こうした双方向的な上下関係の原点の一端を、私は『孟子』の中に見て取ることができると考えている。
 舜・帝に尚見(上見)すれば、帝は甥(むこ)を貳室(副宮)に館(み)て、亦舜を饗し迭(たがい)に賓主となれり。是れ天子にして匹夫を友とするなり。下を用いて上を敬する、之を貴を貴ぶと謂い、上を用(もっ)て下を敬する、之を賢を尊ぶと謂う。貴を貴ぶと賢を尊ぶとは、其の義一なり。

 【現代語訳】舜が帝尭に謁見するときは、天子はわざわざ婿の舜をその泊まっている離宮に訪ねていって会われ、また舜を招いて饗宴を催され、二人は互いに賓客となったり、主人役となったりして待遇の礼を尽くされた。これこそ身は尊い天子でありながら、その尊貴を忘れて賢者を尊んで、ただ一介の平民をば友とされたものである。いったい、身分の下のものが上のものを敬うのを貴を貴ぶといい、身分の上のものが下のものを敬うのを賢を尊ぶというものであるが、貴を貴ぶのも賢を尊ぶのも、どちらも尊敬すべき点があるからこそ尊敬するのだから、その道理は全く同じで、決して変わりはないものである。
 これは決して、身分が上の者がへりくだって、身分が下の者に対しておもねることを意味するのではない。また、身分が下の者も、身分が上の者がへりくだってきたことを利用して身分が上の者に接近することをよしとするのでもない。最近は、上司が部下に対して厳しく接することができず、また部下も上司に怒られたくないから、お互いにまるで友達であるかのように振る舞うケースが増えていると聞くが、これは組織における人間関係というものを勘違いしている。
 曰く、その多聞なるが為ならば、則ち天子も師を召さず、而るを況や諸侯をや。その賢なるが為ならば、則ち吾未だ賢を見んと欲して之を召すを聞かざるなり。繆公亟(しばしば)子思を見て、古は千乗の国〔の君〕も以て士を友とすとは如何と曰えば、子思は悦ばずして、古の人言えるあり、之に事(つか)うと曰うも、豈之を友とすと曰わんやと曰えりとぞ。子思の悦ばざりしは、豈位を以てすれば則ち子は君なり、我は臣なり、何ぞ敢て君と友たらん、徳を以てすれば則ち子は我に事うる者なり。奚ぞ以て我と友たるべけんといふにあらずや。千乗の君すら之と友たらんことを求めて得べからず。而るを況や召すべけんや。

 【現代語訳】孟子はいわれた。「物識りだから〔召す〕というのなら、多分その人を師として学ぶつもりだろうが、天子さまでさえも師を呼びつけにはしないのに、まして諸侯ではなおさらのことではないか。また、賢者だから〔召す〕というなら、私は賢者に会いたいからといって、呼びつけるなどという無礼な話はまだ聞いたことがない。

 昔、魯の繆公(穆公)はたびたび子思に会われたが、ある時繆公は『その昔、戦車千台を出すことのできる大国の君でありながら、〔その身分を忘れて〕一介の士を友達として交際した者があるというが、これをいったいどう思うか』といって、暗に自分を褒めたので、子思は〔公が身分を鼻にかけているのを〕不快な様子で『古人の言葉に、賢者には〔その徳を師として〕事えるとこそ申していますが、どうして友達扱いにするなどと申していましょうや』といったということだ。

 子思が不快に思ったのは、それはおそらくこういう腹づもりだったのではあるまいか。つまり『地位からいえば貴方は主君であり、私は臣下です。どうして主君と〔対等の〕友達になろうなどと思いましょうや。しかし徳からいえば、貴方は門人で、私に師事する者です。どうして〔師である〕この私と友達になどなれましょうぞ』。かように、大国の君ですら賢者と友達になりたいとのぞんでもなれないのに、ましてこれを呼びつけるなどどうしてできようぞ」
孟子〈下〉 (岩波文庫)孟子〈下〉 (岩波文庫)
小林 勝人

岩波書店 1972-06-16

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 国家も組織である以上、トップに最高責任者としての君主があり、上下関係で結ばれた臣下がいる。だが、臣下の方が優れている分野に関して臣下の力を借りたいと思う場合には、君主の方から臣下に会いに行かなければならない。決して、身分の高いことを鼻にかけて臣下を呼びつけにしてはならない。古代の中国にはこういうしきたりがあったようである。

 以前の記事「岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』―現代マネジメントへの挑戦状」で、アドラーは垂直関係を否定し、水平関係を重視していると書いたが、個人的にはこのアドラーの主張にはどうも賛同できない。垂直関係があるからこそ、人々は立場が上の人に対して敬意を払うことができる。上の人を思いやることができる。ただ、立場が上の人も、立場が上であることに胡坐をかいているわけにはいかない。立場が下の人の中に知識、能力、経験、人格面で優れている人がいるならば、彼らの元へ出向いて教えを請わなければならない。これによって、立場が上の人は独善的にならずにすむ。そして、組織も抑圧的な権威主義に傾くことを防止できる。

 仮に全員が水平関係にあったら、相手に対する敬意も思いやりも消え、代わりに顔を出すのがエゴをむき出しにした敵意や憎悪である。それが端的に表れているのが、民主的とされるインターネットの世界である。私はそういう敵意や憎悪に触れたくないので、Q&Aサイトや掲示板の類はほとんど見ない。

 ブログ本館の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第42回)】いびつなオフィス構造もコミュニケーション不全を引き起こす原因に」で書いたように、私の前職のベンチャー企業のオフィスでは、若手のスタッフが狭い端っこの部屋に押し込められ、マネジャーは少し離れた大部屋でブースを与えられて仕事をしているという具合であった。私は、大部屋にいるマネジャーから内線電話がかかってきて、「作ってもらった資料について話があるから大部屋に来て」と呼び出されるのが非常に嫌であった。もちろん、当時の私はコンサルタントとしてはカスみたいな存在だったから、マネジャーからそんな扱いを受けても文句は言えなかった。

 だが、たかが歩いて数秒の距離である。もし私が自分よりも優秀な部下を持ったならば、そのスタッフ部屋に直接出向いて話をしようと思ったものである。そして、これだけ知識が目まぐるしく変化する時代においては、自分よりも知識面などで優れいている部下を持つ確率は格段に高まっている。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
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