フーコー入門 (ちくま新書)フーコー入門 (ちくま新書)
中山 元

筑摩書房 1996-06-01

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 以前の記事「重田園江『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』―近代の「規律」は啓蒙主義を介して全体主義と隣り合わせ」とも関連するが、「啓蒙主義から全体主義へは一直線に線を引くことができる」というピーター・ドラッカーの言説を私は支持している。啓蒙主義の理性至上主義が理性の唯一絶対性、完全無欠性を主張する時、それは全体主義へと転じる。だが、現実問題として、人間世界は多様である。その多様性を徹底的に排除するのが極右のファシズムである。なお、多様性を全て認めて、自由・平等の名の下にそれらを画一的に扱おうとするのが極左であるが、私に言わせれば極右と極左は同根異種である。

 歴史的に見て、成功したファシズムというのは存在しない。ファシズムを批判する時、完全無欠であると信じていた人間の理性に欠陥があったとするのが普通のやり方だが(私もそう考えていたが)、フーコーはこのような方法を取らない。理性の欠陥を理性が批判するならば、批判する側の理性の正統性が問題になってしまうからだ。フーコーは、これとは別のアプローチを取る。

 まず、フーコーは「国家理性」を取り上げる。理性という名前がついているが、啓蒙主義者が理性という言葉に込める合理性のような要素はない。従来の国家観では、国家は国家よりも上位に位置する神の法や自然の法と合致するために存在すると考えられてきた。ところがフーコーは、国家は存在すること自体が自己目的化していると主張する。これが国家理性である。そして、国家が存続するためには、国家の力が大切になる。国家の力を構成する重要要素は「人々の数」であるから、権力は人々を生きさせようとする。これが「生―権力」である。古典主義時代(フランス絶対王政時代)の王が「国民に死を与える権力」を持っていたのとは対照的である。この「生―権力」によって、福祉国家が志向される。

 この「生―権力」を社会の隅々にまで浸透させるために、国家はポリス(行政警察に近い)を配備する。ポリスの権力を通じて、人々は自分自身を解釈し、権力が望む姿に自己を変質させる。別の言い方をすれば、人々は自己を捨てることで国家に従う。逆説的だが、国家は国民の福祉を目的としながら、実は国家の自己保存のために国民に自己犠牲を強いるのである。こうした権力の構造を、フーコーはキリスト教会にも見出している。教会では、信者は告白という自己解釈の儀礼を通過しなければならない。本来、教会はその告白を受けて信者の魂を救済することが目的である。しかし、現実の教会は、信者を犠牲にして教会の権力構造を維持することが目的と化しているとフーコーは指摘する。

 国家がもっと大掛かりに国民に自己犠牲を強いることがある。「生―権力」は人々を生きさせる権力であると書いたが、権力は生きさせるに値する人間とそうでない人間を区別するようになる。その基準が<人種>である。人間の種には、よい種と悪い種がある。「生―権力」が浸透した社会では優生学が発達しているのは偶然ではない。その筆頭がナチス・ドイツであり、アーリア人の血の純粋性という架空の概念に基づいて、国民の中の純粋でない部分を排除するという方法に頼った。さらに言えば、戦争とは軍の参謀本部などの国家の全ての装置が、国民全体に仕掛けた戦いでもある。したがって、民族の<純粋な血>を守るはずのナチスの政策は、自国民の純粋な血、つまり<よい種>の血を戦場で流し、遂には国家自体が崩壊するという逆説的な帰結を招いてしまった。

 だが、ここに来てフーコーの主張は袋小路に入ってしまう。フーコーは、ニーチェが主張する「真理の理論」に多くを負っていた。ニーチェは、真理とは唯一絶対のものではなく、階級対立の結末であると位置づけた。また、真理とは何かが重要なのではなく、誰が真理を語るのかという点が重要であるとも述べている。フーコーの「生―権力」の考察は、権力にからめとられる人間の姿を描写することには成功したものの、ニーチェから受け継いだ真理への意思と欲望という問題がすっぽりと抜け落ちてしまっているのである。

 ここからのフーコーは、人間の主体性を取り戻す哲学を模索する。要点をありていに言えば、「自己を手放さないこと」である。フーコー自身、ホモセクシュアルであることを公言し、自己の欲望を解釈するのではなく、欲望が実現されるような世界に向かってわずかでも自己と社会を変えていくことを重視した。真理には複数性があることを前提とした「真理のゲーム」や、真理を語ることを意味する「パレーシア」という概念の提唱は、こうしたフーコーの思索の成果の一部である。