ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)
重田 園江

筑摩書房 2011-09-05

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 日本で言えば磔や引き回し、海外で言えばギロチンなどの刑は、現代からすると人間性を無視した非道な刑罰だと思われがちだが、フーコーはそのように考えない。刑罰は時代や社会の事情を反映したものであり、そのあり方を決めるのは政治である。だから、現代の自由刑と過去の身体刑を比べて、どちらがより残酷であるとか、どちらがより人道的であるといったことを決めることはできない。

 フーコーが「古典主義時代」と呼ぶフランス絶対王政の時代には、主権、つまり法を与える権能は王にあった。王こそが全ての法源である。よって、犯罪というのは王の正統性に対する侵害である。その侵害の程度が重大であればあるほど、王は犯罪者をあらん限りの力で消滅させるのが当然であった。人々に犯罪に対する抑止力を働かせるため、犯罪者は大衆の面前で罰せられた。こうした王の権力は、剣による権力、王による至上権、王による生殺与奪権、法的・主権的権力などと呼ばれる。別の言い方をすれば、王の権力とは、人々を「死なせるか、生きたままに放っておくか」という権力である。

 近代に入ると、主権が王の手から国民の手に移った。国民主権においては、国民が民主主義によって法を作っていく。それから、近代になるともう1つ重大な変化が生じた。それは、経済の発展により、窃盗などの経済化した犯罪が増加し、しかも、その犯罪を実行するのはプロの小集団であったということである。こうした状況に対して、当時勃興した啓蒙主義は2つの方向性を目指した。1つは、犯罪者であっても自立的で判断力に長け、物事の善悪を自分で決められる、つまりは良識を持った人間へと改良するというものである。もう1つは、人々が罪と罰とを頭の中で即座に結びつけられるようにすることである。例えば、窃盗を犯すとこういう罰を受けるから、窃盗をするのは止めよう、と人々に思わせることである。よって、犯罪が多様化すれば、自ずと刑罰も多様化することが想定される。

 ところが、実際には増加する犯罪者を効率的に処罰するために用いられたのは、「監獄における規律」という自由刑(犯罪者から自由を奪う刑)であった。どんな犯罪を犯した者でもまずは監獄に収監され、彼らは監獄のルールの下で、決まりきった1日のスケジュールに従って生活し、労働する。啓蒙主義は人間の可能性に光を当てるものであったが、現実的には効率性の方が優先された。

 フーコーの指摘が面白いのは、規律は近代になって発明されたわけではなく、古代からあった様々な手口の組み合わせであるとしている点である。加えて、規律は監獄を超えて我々の日常生活にも浸透するようになった。犯罪を取り締まるために、都市にはポリス(行政警察に近い)が張り巡らされた。さらに、規律は学校や工場などでも用いられるようになった。

 王の権力は、「人々を死なせるか、生きたままに放っておくか」という権力であったが、逆に規律型権力は「人々を生かす権力」である。なぜそこまでして人々を生かす必要があるのか、ここでフーコーは国家理性に注目する。従来の国家は、国家を超越する神や自然の法に従うものとされていた。ところが、フーコーは、国家は存続そのものが自己目的化していると指摘する。そして、国家の存続には国家の力が必要である。国家の力を構成する要素は数多く存在するのだが、その中でも「人々の数」は大きなウェイトを占めている。だから、権力によって人々を生きさせることが極めて重要である。この権力は「生の権力」とも呼ばれる。

 ところで、啓蒙主義の観点からすると、監獄における規律、規律的権力は明らかに失敗である。人間の多様性に着目するどころか、効率性を優先し、人間を画一的に扱っている。ここでフーコーは、なぜ監獄は失敗なのかとは問わない。失敗している監獄は何かの役に立っているのかという問いを立てる。

 近代に入って急速に力をつけてきたのはブルジョワジーである。彼らにとっての敵は、従来型の王と下層民であった。特に、下層民を敵視していた。ブルジョワジーは、下層民の犯罪行為(労働忌避、機械の打ちこわし、商店の襲撃など)と政治的行為が結びついて秩序転覆を図る危険を最小限に抑え、犯罪者集団を一般人から区別する必要があった。そのために監獄は利用された。犯罪が既存の秩序を脅かすどころか、秩序に組み込まれ、ブルジョワジーに役立つ形で存続するなら、ないよりもあった方がましなのであった。

 先ほど、監獄による規律は啓蒙主義の目指した方向性と異なると書いたが、個人的には、啓蒙主義と監獄による規律は容易に結びつくものではないかと感じる。啓蒙主義とは、人間理性の至上性を強調し、理想の人間を追求する試みである。ただ、啓蒙主義は全体主義に転ずる可能性と常に隣り合わせである(以前の記事「大井正、寺沢恒信『世界十五大哲学』―私の「全体主義」観は「ヘーゲル左派」に近いと解った」を参照)。啓蒙主義が人間理性の至上性を説く時、それはややもすると人間理性の唯一絶対性と完全無欠性を説くことになる。これらは全体主義の特徴である。啓蒙主義的―絶対主義的目的を達成するためには、画一的な規律はまさにうってつけの手段となる。