こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

2015年01月


岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』


ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)
岩田 靖夫

岩波書店 2003-07-19
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律法の完全な遵守により正しい人間になろうと精進するとき、人はたえず人生のあらゆる局面で律法の定めを意識し、律法の細則を立て、自分の一挙手一投足がそれらの掟に外れていないかどうかを心配するようになる。そうなると、掟の遵守に囚われるあまり、人間性の自然な発露を失う危険に陥るのである。道徳的に非難の余地のない人間になろうとすると、イエスに否定されたあのパリサイ人のように、他人と自分とを比較して、自分の超人的な禁欲を誇り、他人を軽蔑する、非人間的な道徳主義者になるのである。
 イスラム国が日本人2人を人質に取るという事件が発生し、テロの手が非ヨーロッパ国にも及び始めている。イスラム国には、はるか昔、イエスがユダヤ人のパリサイ派を批判した言葉を突きつけてやりたい。イスラームは「コーラン」を絶対視し、イスラム国もコーランの厳密な適用を狙っている。コーランには「自分の敵を殺してよい」という規定があるらしい。だが、イスラム国はコーランをあまりに機械的に狭く解釈しすぎている。

 もちろん、律法主義であるからただちに非難されるべきであるとか、ヨーロッパが経験した啓蒙主義による世俗化をイスラーム世界が経ていないから、イスラームは前近代的である、などと言いたいわけではない。イスラームにとってコーランは合理的で立派な法である。そのコーランを厳格に順守することが非難されるのならば、西洋諸国が法治国家を掲げて法律の厳格な運用を行っていることも同じく批判されるべきだということになってしまう。

 重要なのは、宗教の目的に立ち返ることである。言い換えれば、何のためにコーランを守るのかをもう一度認識することである。キリスト教は、人間が愛によって幸福になることを目指した。いや、幸福は他の動物でも感じることができるから、人間は幸福以上のもの、すなわち社会的な善を目指すべきだという主張もある。これに対して、イスラームは一体何を目指すのであろうか?「アラーの他に神なし」という主張は解った。では、アラーの下で人間はどのような人生を実現し、どのような社会を構築するべきなのだろうか?

 そもそも、キリスト教もイスラームも(、そしてユダヤ教も、)同じ唯一絶対の神から派生した宗教である。それならば、自ずと似たような目的にたどり着くはずである。イスラム国だけが排外主義に走るならば、その行為を支える論理が破綻をきたしているに違いない。

『目標達成―結果を出す組織のPDCA(『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2015年2月号)』


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ダイヤモンド社 2015-01-10

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 イスラエルでは、売上げ1億ドル未満から、数億~数十億ドルへとグローバル市場で規模を拡大した企業が、この40年間で75社を超える。つまり、スイート・スポットは見つかるのだ。彼らのアプローチはこうだ。多国籍企業が魅力的と感じず、地元企業が十分に対応できない、そんな機会が存在する国や地域に照準を合わせ、目立たないやり方でゆっくりと、この中間領域に浸透していく。
(ジョナサン・フリードリッヒ他「多国籍企業と地元企業が不在の『中間領域』を支配する グローバル化の秘訣はイスラエル企業に学べ」)
 DHBRが珍しく中小企業に焦点を絞った論文を掲載しており、しかも、中小企業庁が最近「今後5年間で新たに1万社の海外進出を実現する」と息巻いているグローバル化に関する論文であったから期待したのだが、私が想定してた内容とはちょっと違った。引用文に書かれた企業規模から解る通り、中小企業と言いながら、日本で言えば中堅企業に相当する企業が分析対象となっている。

 グローバル化に成功したイスラエルの企業は、1か国・地域だけでは小さな市場であるものの、類似のニーズを持つ他の国・地域も合わせればそれなりに大きな市場になるという「中間領域」を見つけることに長けているらしい。

 逆に、日本企業はこういうのが不得意である。日本企業は、複数の国・地域を横断する共通ニーズを見つける、あるいは自社の製品・サービスが複数の国・地域に通用すると思わせるようなマーケティングが上手ではない。むしろ、1か国ずつ順番に攻めて、その国のニーズに合致した製品・サービスを開発し、ある程度成功した段階で次の国に進出するという、段階的なアプローチをとる。そのため、グローバル化で急速に規模を拡大する中小企業がなかなか現れない。

 イスラエルの企業が、複数の国・地域を同時に相手にすることができるのは、企業幹部の大多数がイスラエル国防軍(IDF)の幹部を務めていたからであると著者は指摘する。IDFは、例えば1967年の6日戦争の際、南はエジプト、東はヨルダン、北はシリアと戦火を交えた。IDFは戦域全体の指揮を行わなければならず、どこに戦力を重点投下し、どんな戦術を展開すべきか、即座に判断しなければならない。こういう経験が、グローバル経営にも役立っているという。そういう経験に乏しい日本の中小企業の経営者は不利である。

 本論文では述べられていないが、イスラエルの企業がグローバル化に成功している要因は、ユダヤ人のネットワークにもある気がする。ユダヤ人は迫害によって世界中に散らばったものの、ユダヤ教という信仰の対象を通じて、心理的に強く結びついている。現代でも、世界中にいるユダヤ人が、各国・地域の市場に関する情報を経営陣と共有しているのではないだろうか?それが、ターゲット国・地域全般を見渡した戦略的な意思決定に使われていると推測される。

『未来をひらく(『致知』2015年2月号)』


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致知出版社 2015-02


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 :例えば、いまはお店なんかでも子供に対して非常に丁寧でしょう。どこへ行っても「お客様」として扱われる。でも昔は「坊主、そのへんのものに触るなよ」と言って叱られることっもありましたね。

 お店の対応がよくなるというのは、もちろんよい面もあるでしょうが、それによって損なわれる面もたくさんあると思いますよ。どこに行っても丁重に扱われると、学校でもお客様みたいに扱われるのが当たり前だという考えが自ずと出てくるんです。

 菊池:神戸女子学院大学名誉教授の内田樹先生が、病院で「患者様」と呼ぶようになったら院内ルールを守らないだとか、クレームをつける患者が増えたと指摘しています。同じように、学校が「お子様」と呼び始めてから、学校のルールは守られなくなるし、親は給食費を払わなくなると。
(菊池省三、平光雄「子供の未来をひらく教育力」)
 まだ理論づけが十分ではないのだが、ブログ本館の記事「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」で書いたように、日本では「個人―家族―学校―企業・NPO―地域社会―地方自治体―政府―天皇(―神?)」という重層的な関係が成り立つ。

 神との直接的なつながりを重視するキリスト教圏では、「個人―神」という関係が基本である。その間に何らかの組織が入る場合には、神との関係においてなぜその組織が正当化されるのかが厳しく問われる。はるか昔は、国王の権力を正当化する理論を、政治学者や哲学者が一生懸命説明しようとした。近現代において正当性が問われたのは企業(特に大企業)である。日本人は企業の正当性など考えたこともないだろうが、1900年代前半のアメリカの経営書を読むと、この点に関する議論がよく見られる。

 一方、日本においては、「個人―神」という基本関係の間に新しい組織が入っても、その組織がすぐ上の組織を天として戴けばそれで正当化される。だから、キリスト教圏に比べて、「個人―神」の基本関係に多種多様な組織が流れ込む余地が大きかった。そして、不思議なことに、権力の多重化が進めば進むほど、日本社会は成長し、安定するという特徴がある。

 この構図に従うと、家族は学校を天と戴く。最近は、いわゆる顧客主義が教育や行政にも広まっているが、私に言わせれば、学校にとっての顧客は企業・NPOであり、家族・子どもではない。学校は、子どもに対する教育を通じて、企業やNPOなどの経済的・社会的組織が必要とする社会的能力を習得させ、これらの組織に子どもを「納品する」。学校は、子どもの「品質」を管理するために定期的にテストを実施するし、納品時の「品質保証」のしるしとして内申書を提出する。

 家族・子どもにとって、学校は顧客である。その逆ではない。顧客である学校が教育を円滑に実施できるよう、基本的なしつけを子どもに施して学校に送り出すのは、納入業者たる家族の重要な役割である。また、学校が指示する家庭学習をサポートするのも、親の責任である。最近はどうもこういった点を誤解している親が増えているように感じる。

 学校が子どもを顧客と見なしたら教育は崩壊する。顧客である子どものニーズを聞いたら、大半の子どもは「勉強なんてしたくない」と答えるに決まっている。だからといって、顧客の声に応えるためだという理屈で、学校は教育を放棄できるだろうか?学校は、「世の中で十分な仕事をし、豊かな生活を送るためには、こういう能力、こういう考え方を学ぶ必要がある」という将来の人間像をはっきりと示さなければならない。企業が取引先に「要求仕様書」を提示するのと同じである。そして、その仕様を実現するために、遠慮なく子どもをリードするべきだと思う。

 (※本記事では、あくまでもたとえとして企業経営の言葉を使っているだけであり、決して子どもをモノ扱いしているわけではない点はご理解いただきたい)
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

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