こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

2015年02月


池上彰『そうだったのか!中国』


そうだったのか!中国 (集英社文庫)そうだったのか!中国 (集英社文庫)
池上 彰

集英社 2010-03

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 毛沢東は、「理想の人間像」を模索し、共産主義の理想を実現しようともしていたからです。それは、「分業の廃止」「商品経済の廃止」「社会的平等の実現」でした。文化大革命の中では、とりわけ近代社会の分業体制が批判されました。分業体制は、それぞれの人間が片寄った専門家になってしまうので、分業を廃止することで、知識人と労働者・農民の差別・壁を取り除き、全人的な発達をめざすという目標が宣伝されたのです。
 人民公社は、農業ばかりでなく、工業、農業、商業、文化、教育、軍事を総合する共同体となり、これを来るべき共産主義社会の基盤とすることを毛沢東は考えました。農民たちは、人民公社で農業をし、工業にも携わり、商売もし、文化を高め、教育も受け、兵士にもなる。あらゆることを実行する万能な存在になることが目標でした。それにより、農民と労働者の格差、肉体労働と頭脳労働の格差もなくしていけると考えました。
 ここだけ読むと、共産主義が一時期日本の若者を虜にした理由が何となく解る気がする。人間の能力があらゆる方向に開花する可能性を信じ、真に自由で平等な社会を構築しようというのだから、非常に理想的に思える。

 しかし、共産主義は資本主義に敗れた。共産主義は、労働者が資本家を打倒することで、階級闘争のない社会を目指した。ところが、革命後の社会では、支配者と被支配者という新たな階級が生まれる。そのため、再び被支配者が支配者を打ち倒す革命が起こる。これが繰り返される限り、真に平等な社会は永遠に到来しない。つまり、共産主義は本質的に自家撞着を抱えているのである。

 この矛盾は、共産主義が階級のない”社会”を目指す限り、必ず表出する。そもそも社会には地位や身分がつきものであり、それらがない社会とは一体どういうものなのか、共産主義は明確な答えを出していない。

 この点、地位や身分を内包した社会の中においてこそ、個人は自由を発揮すると考えた日本は進んでいたのかもしれない。このことを発見したのは、江戸時代の禅僧・鈴木正三である(ブログ本館の記事「童門冬二『鈴木正三 武将から禅僧へ』―自由を追求した禅僧が直面した3つの壁」を参照)。

 ブログ本館で何度か書いたように、日本社会は多重構造である方が安定する。大雑把に言えば、現在の日本では、神―天皇―国会―行政―地域社会―企業―学校―家庭―個人という階層構造が見られる。そして、下の階層は上の階層を「天」と仰ぐ限りにおいて、正当性を獲得する。基本的に、下の階層は上の階層の指示命令通りに行動する。しかし、日本の場合は下の階層に一定の裁量が認められており、創造性を発揮して自由にふるまうことを許される。この下の階層から上の階層へのエネルギーを、社会学者・山本七平は「下剋上」と呼んだ。

 共産主義の脅威は世界から消え去ったわけではない。世界には5つの社会主義(社会主義は、共産主義を実現するための途中段階とされる)国家が5つある。キューバ、中国、北朝鮮、ベトナム、ラオスである。実に4か国がアジア、しかも日本の周辺にあるのである。日本は自らが培った叡智を活かして、共産主義に対抗しなければならない。いや、対決姿勢を見せるというより、日本お得意の”いいところ取り”を発揮して、日本の歴史・文化・風土を土台とし、資本主義に共産主義を接合した、何か新しい思想を生み出すことが必要なのかもしれない。

『成功の要諦(『致知』2015年3月号)』


致知2015年2月号成功の要諦 致知2015年3月号

致知出版社 2015-02


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 安倍政権になってから「道徳の教科化」が進められており、小・中学校の学習指導要領には「道徳」という章が設けられている。他の教科と並列にせず、道徳だけで単独の章とするあたりに、安倍政権の力の入れようが表れている。

 小学校学習指導要領
 中学校学習指導要領

 学年に応じて内容は異なるが、全学年に共通しているのは、道徳教育の目標を以下の4つの視点から設定していることである。
 【視点1:主として自分自身に関すること】
 自己の在り方を自分自身とのかかわりにおいてとらえ、望ましい自己の形成を図ることに関するもの。
 【視点2:主として他の人とのかかわりに関すること】
 自己を他の人とのかかわりの中でとらえ、望ましい人間関係の育成を図ることに関するもの。
 【視点3:主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること】
 自己を自然や美しいもの、崇高なものとのかかわりにおいてとらえ、人間としての自覚を深めることに関するもの。
 【視点4:主として集団や社会とのかかわりに関すること】
 自己を様々な社会集団や郷土、国家、国際社会とのかかわりの中でとらえ、国際社会に生きる日本人としての自覚に立ち、平和的で文化的な社会および国家の成員として必要な道徳性の育成を図ることに関するもの。
(「有限会社教育評価研究所」HPより)
 道徳の教科化に対しては色々な批判が見られる。私なりに大別すると(1)道徳そのものを学校で教えることに反対するもの、(2)学習指導要領に定められた道徳の内容に問題があるとするもの、(3)道徳の学習成果をテストで数値化することに反対するもの、(4)道徳教育には賛成だが、道徳を単独の教科として切り出すことに反対するもの、の4つに分けられると思う。

 (1)に関しては、道徳というのは、本来は家庭や地域社会の中で身につけるべきだということを思い出す必要がある。それができていないから、学校で道徳教育を行うわけだ。もし、学校での道徳教育に反対するのならば、家庭やコミュニティが望ましい機能を取り戻すための方策を提案しなければならない。

 しかし、それは容易なことではないと思う。両親の共働きが増え、3世代世帯が減り、地域コミュニティの解体が進んでいる現代では、かつての家庭像やコミュニティ像にしがみつく牧歌的な主張は通りにくい。家庭やコミュニティで道徳が教えられないから、学校で教える。すると、学校の負担が重くなってその他の教科を十分に教えることが難しくなる。よって、文部科学省も認めているように塾が補完的な役割を果たす。これが現代の実情に合わせた教育のあり方である。

 (2)に関しては、特に郷土愛や愛国心に関する教育が問題視されているのだろう。しかし、これは教え方の工夫でカバーできるはずだ。愛とは、対象のいいところだけを無条件に褒め称えることではない。そういう「○○万歳」的な教育を行うとどういう国民ができ上がるかは、隣国が既に証明済みである。対象には欠陥もあることを認めつつ、それでもなお対象を受け入れることが本当の愛である。

 (3)の批判に対してだけは、私も同意見である。安倍政権は、道徳はテストで数値化しないという方針を打ち出しているものの、市中には既に道徳のテストが出回っている。例えば、有限会社教育評価研究所が1990年代から販売している「HUMAN III 新道徳性検査」などがそうである。道徳は他の教科と違って、実践や他者との交流の中で磨かれるものである。したがって、個人が頭で取り組むペーパーテストは(たとえ論述式であっても)馴染まないだろう。

 (4)のような批判が、『致知』2015年3月号に掲載されていた。
 道徳は国語や歴史で教えよというのが私の持論です。管理する側からは、本当にやっているかは把握できにくいので困るでしょうが、教える側から見れば、国語や歴史教育から切り離した道徳はありえない。『私たちの道徳』を見ても、取り上げられている読み物教材の多くは、教科でやれる内容です。いや、やるべきなのです。
 こういう考え方もあるのかと非常に参考になった。ただし、仮に道徳を国語や歴史の中で扱うとしても、結局は頭の中の理解だけにとどまってしまう。(3)で述べたように、道徳は実践や他者との交流の中で磨かれるとすれば、プラスアルファの教育が必要なのではないだろうか?例えば、これは全くのアイデアで学校側の負担を考慮していないのだが、夏に2週間クラス全員で共同生活を実施してコミュニティを擬制する、といった取り組みが考えられる。

 本当のことを言えば、こういうことをやるのは家庭や地域社会の役割である。しかし、(1)で述べたように、家庭や地域社会が機能不全に陥っており、その機能を取り戻すことは非常に困難である。よって、学校がやるしかないのである。

『原油安 超入門/エレクトロニクス市場の最強”黒子”復活 ニッポンの電子部品(『週刊ダイヤモンド』2015年2月7日号)』


週刊ダイヤモンド 2015年2/07号 [雑誌]週刊ダイヤモンド 2015年2/07号 [雑誌]
ダイヤモンド社

ダイヤモンド社 2015-02-02

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 (1)昨年6月に1バレル=107ドルをつけていた原油価格(WTI原油価格)が、今年の1月には1バレル=45ドル台と半分以下になっている。原油安には、メリットとデメリットの両方ある。メリットとしては、原油安によって電気やガスの料金が下がり、物価が下落する。そうすると、企業のコストが抑制され、業績が改善する。企業の利益が上がれば株価は上昇し、社員の給与も増える。よって、景気が回復する、というのがプラスのシナリオである。

 一方で、原油安は産油国の経済を直撃する。サウジアラビア、イラン、イラク、ナイジェリア、ベネズエラなどの経済は間違いなく悪化する。産油国の経済悪化は、ロシア、中国、ブラジル、トルコ、マレーシアなど新興国にも及ぶ。そうすると、産油国と新興国の通貨が下落し、世界同時株安になるリスクがある。また、産油国や新興国の中にはイスラム教の国が多い。これらの国が緊縮財政を行えば社会の不満が高まり、イスラム過激派が活発化する可能性もある。

 (2)特集2は、日本の電子部品に関するものであった。
 JEITA(電子情報技術産業協会)の推計によると、14年の世界の電子部品の生産額は21兆5230億円。ディスプレイデバイスの15兆円を抜き、半導体の34兆円に迫る。その世界市場の約40%を占めるのが日本。日本企業の生産高では、半導体とディスプレイデバイスをすでに上回る規模の電子部品が生産されている。「最新のスマホの中で、ロゴがない電子部品はほぼ全て日本製」(業界関係者)というのはエレクトロニクス業界ではよく知られた事実だ。
 ただ、電子部品と一口に言っても、コンデンサ、コイル、リレー、圧電素子、振動子、スピーカー、電熱線、コネクタ、スイッチ、ヒューズ、電線、ヒートシンクなど、種類が非常に多く、また電子部品が使われる産業も多岐に渡る。だから、全ての電子部品が好調というわけでもないし、同じ電子部品でも、顧客企業の産業が異なれば明暗が分かれるだろう(当たり前だが)。

製品・サービスの4分類

 私は最近この(まだ不完全な)図のことをよく思い浮かべるのだが、日本企業が強いのは右下の「必需品&製品・サービスの欠陥が顧客の生命に与えるリスクが大きい」という象限である。これに対して、左下の象限は、労働コストが安い新興国が圧倒的に有利である。アメリカ企業は、イノベーションという名の下に、左上の象限に該当する新しい製品・サービスを創造し、それを世界中の人々の必需品にする(ゴリ押し)マーケティングが得意である。

 ただし、必需品になってしまうと、左上から左下に移動するので、やがては新興国企業とのガチンコ勝負になる。これではさすがのアメリカ企業も勝ち目がない。だから、アメリカ経済が成長し続けるためには、左下の象限に移動してしまった製品・サービスからは手を引いて、常にイノベーションを起こす必要がある。

 《参考記事(ブログ本館)》
 『一流に学ぶハードワーク(DHBR2014年9月号)』―「失敗すると命にかかわる製品・サービス」とそうでない製品・サービスの戦略的違いについて
 『創造性VS生産性(DHBR2014年11月号)』―創造的な製品・サービスは、敢えて「非効率」や「不自由」を取り込んでみる

 引用文では、スマートフォンに日本企業の電子部品が数多く採用されていることが自慢げに書かれているようだ。しかし、私自身は、スマホは左上の象限の製品だと思っているので、日本企業の天下は長く続かないと予測する。あと数年すれば、(家電業界と同様に、)中台韓メーカーにボコボコにされる気がする。

 かつて日本の半導体は世界一と言われていた。ところが、パソコンが世界中に普及して、新興国でも半導体部品を製造できるようになった結果、日の丸半導体の代表格であったエルピーダは破綻してしまった。パソコンは左上の象限の製品として登場し、やがて左下の象限に移動したからであると言える。

 日本で生き残る電子部品メーカーは、右下の象限に該当する企業である。そういう企業は、一見すると非常に地味で解らない。しかし、よくよくビジネスモデルを分析してみると、実は社会的なインフラの中核部分を担っていて、その電子部品に欠陥があったら社会が大変なことになるくらい重要な部品を作っている企業こそが、本当に強い電子部品メーカーではないだろうか?
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

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