こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

2016年06月


丸山眞男『日本の思想』


日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
丸山 真男

岩波書店 1961-11-20

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 私に丸山眞男の考えなんてこれっぽちも解るわけがないのだが、頑張って記事を書いてみることにする。

 通常、理論と精神は固く結びついている。基本的な精神の上に理論は構築されている。ところが、日本の場合は、外国から次々と新しい理論が入ってきて、それらが雑居(雑種ではない)するという状態が見られる(私はこれを小国らしい「ちゃんぽん戦略」だと評価するのだが、丸山の場合はそうではなさそうだ)。日本に導入された理論は、時系列に従って整然と整理されていない。だから、理論の生みの親である西洋では既に時代遅れになったものが、未だに日本ではもてはやされるという事象が頻繁に見られる。また、ある理論が否定されると、その代わりに突如として昔の理論が思い出されることもある。

 一方の精神はどうかと言うと、日本の精神は抽象化されず、直接的に把握されるという特徴がある。本居宣長の国学が追求したのはこの点であった。明治時代には「国体」という言葉で日本精神を統一し、国体のために戦争に突入したわけだが、その中身はついに煮詰められることがなく終戦を迎えた。端的に言えば、国体の中身は空っぽであった。空っぽなのだから何でも受け入れる余地がありそうなのに、実際はそうではない。日本の国体は、普段は沈黙しているが、自分が気に食わない精神は徹底的に排撃するという暴力性を備えている。

 丸山は、日本にはイデオロギー論争がなかったと指摘する。通常、イデオロギーを議論の俎上に載せるには、その前提となる精神を抽象化しなければならない。その上で、その精神が正当であるかを問うことを通じて、理論の効用を論じるという手順を踏む。ところが、前述のように、日本の場合は、次々と新しい理論が流入する一方で、精神の側が空っぽであるから、論争にならない。

 理論と精神の関係は、社会科学と文学の関係と言い換えてもよい。近代の日本において、社会科学と文学の関係が最も強固な形でもたらされたのが、マルクス主義(とプロレタリアート文学)であった。しかし、日本には理論と精神を固く結びつけるという伝統がない。そこに、社会科学と文学ががっちりと手を結んだマルクス主義が流入したことは、日本にとって大きな衝撃であった。とはいえ、日本にはマルクス主義を受け入れる精神が存在しない。マルクス主義によって、ようやく文学における自然主義が認識される程度であった。

 精神の側がそんな具合だから、理論の側もマルクス主義の衝撃を受け止めることができなかった。マルクス主義に限らずどんな理論でも必ずそうだが、理論は論理的一貫性を通すために、現実の一部を敢えて捨てている。この意味で、理論はフィクションである。日本人はこの点を理解することができなかった。現実が理論と等しいものと勘違いしてしまった。この時点で、理論は敗北を喫している。

 理性的なもの(社会科学)を追求する根源的なエネルギーは非理性的(文学)である。理論(合理的)を現実(非合理的)に適用するには、一種の賭けをしなければならない。この意味でも、理論(社会科学)と精神(文学)の固い絆は不可欠である。だが、その絆を我がものにできなかった日本では、理論が現実に歩み寄ってしまった。これはちょうど、日本という理想を中国という現実に合わせて、中国に対して土下座外交をしたと指摘した山本七平の主張に通じるところがあるように思える(ブログ本館の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」を参照)。

川上全龍、石川善樹『世界中のトップエリートが集う禅の教室』


世界中のトップエリートが集う禅の教室世界中のトップエリートが集う禅の教室
川上全龍 石川 善樹

KADOKAWA/角川書店 2016-03-31

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 今、西欧人の間で「マインドフルネス」という言葉が流行しているようだ。マインドフルネスとは、提唱者であるジョン・カバット・ジンによれば、「今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、能動的に注意を向けること」という意味である。そして、マインドフルネスを実践するための方法として、日本の禅に注目が集まっている。スティーブ・ジョブズも禅を行っていたのは有名な話だ。

 マインドフルネスの流行の根底には、従来の西欧型の価値観が限界を迎えているという認識がある。これまでの西欧世界は、勤労主義を重視し、自分を苦しめてでも努力することを美徳とした。プレッシャーに耐え、懸命に努力してこそ自己実現ができる。西欧人は、プラグマティズムに基づいて実利を追求する。役に立つことが全てであり、役に立たたないことを行うのは悪である。こうした考え方は、キリスト教、特にプロテスタントと親和性がある。しかし、リーマン・ショックはそうした無茶な生き方が破綻していることを示す出来事であった。

 本書は禅の効用を説いた一冊であるが、禅を実践すると自制心が身につくという。自制心の効果として、心理学の「マシュマロ実験」に触れている。
 社会的成功のためには自制心が重要であることを裏付ける根拠として、1960年代後半から始まった「マシュマロ実験」がある。主導者のウォルター・ミシェル教授は、人間の将来の成功は、IQではなくて、「4、5歳の子どもの目の前にマシュマロを負いいて、食べることを待つ子か待てない子かでおおよそ見当がつく」という。

 実験では、被験者である子どもの人生を継続して追う。被験者は現在40代中頃~50代。その人たちの収入や社会的地位などを比べると、マシュマロを食べるのを我慢できた、自制心が高かった子が、収入も地位も高かった。
 ただ、マシュマロ実験は1960年代後半に始まったものであり、40代中頃~50代となった被験者の中で、幼少期にマシュマロを我慢して現在高い地位に就いている人とは、従来の西欧的な価値観で評価されて昇進した人である。つまり、禅が本来目指す人間像とは離れているように感じる。

 西欧的な価値観を私なりに簡単に整理すると次のようになる。人生の目的は自己実現である。将来的に達成したい目標を明確に設定し、その目標を達成するための具体的な計画を逆算で立案する。一度計画ができ上がれば、その計画に沿って懸命に努力する。計画が思うように行かない時は、そのギャップの原因を徹底的に分析し、計画を修正する。晴れて目標が達成され、自己実現が現実のものとなった暁には、大きな富を手に入れることができる。後は、その富を使って悠々自適の生活を送る。これが西欧人の理想である。

 昔は自己実現までの期間が長かったが、時代が下るにつれて目標設定の期間は短くなっている。ただ、計画期間が短くなったからといって、目標達成時に手に入る富が少なくなったわけではない。むしろ、富はますます増大している。問題は、自己実現に成功する人の割合が極端に減っていること、その結果として富の偏在が見られることである。西欧人の生き方はただでさえ緊張感が強いのに、最近は成功確率が下がってさらに緊張の度合いが高まっているように思える。

 東洋の禅が目指すのは、これとは逆であろう。禅と聞くと厳しい修行を想像してしまうが、禅の本質はもっと別のところにある気がする。まず、人生の目的は自己実現ではなく、他者を活かすことである。他者を蹴落としてでも成功するのではなく、他者の助けとなることこそ善である。全ての人がお互いに他者を助け合えば、誰かは自分のことを助けてくれる。人間関係は持ちつ持たれつである。

 明確な目標や計画は不要である。おぼろげな方向性だけを設定すればよい。その代わり、毎日の生活=「今、ここ」を大切にする。禅の世界には「即今、当処、自己」という言葉があるそうだ。他者の助けになることを毎日行う。西欧人のように肩肘を張らなくてもよい。自分にできる範囲の中で、他者をサポートすれば十分である。目標も計画も曖昧なのだから、何が成功で何が失敗なのか、判断のしようがない。つまり、失敗を分析するという、あの苦痛な作業を経験しなくてもよい。何となく、昨日よりはちょっと優れた方法を試してみる。その程度の心構えでよい。だから、西欧人のように高いモチベーションを保つ必要もない。

 一言でまとめるならば、「緩やかな気持ちで他者のために生きる」ということである。西欧人の生き方に比べると、一気に肩の荷が下りた気分である。ただし、西欧人の自己実現にはリミットが設定されており、成功すれば残りの人生を自由に謳歌できるのに対し、禅的な生き方では、一生他者のために生きる必要がある。この点だけは多少頑張らなければならない。

 このように書くと、日本で一番禅的な生活を実践しているのは、タモリさんであるように思える。笑っていいともは、タモリさんが前面に出る番組ではなかった。前面に立つのは曜日ごとのレギュラーで、タモリさんはいつも後方から彼らを支えていた。笑っていいともでレギュラーになり、その後芸能界で出世したタレントは多い。タモリさんのスタンスは、最終回でも変わらなかった。出演NGと言われたタレントたちの共演を実現させたのは、タモリさんの包容力のおかげであろう。

 タモリさんは、笑っていいともが長寿番組となった秘訣を聞かれた時、「反省しないことだ」と語ったことがある。実際、毎日の放送が終了した後、スタッフや共演者と反省会をしたことは一度もないという。生放送は生き物であり、2度同じことが起きることはないのだから、反省してもそれを活かす機会がないというのがその理由であった。笑っていいともは、毎日「今、ここ」に集中した番組であった。

 タモリさんは「やる気のある者は去れ」とも言っている。笑っていいとものレギュラーには、ベテランのタレントもいれば、売り出し中のタレントもいた。ベテランは番組に慣れているので、自分でペース配分をし、他のタレントに気遣いができる。しかし、売り出し中のタレントは、自分をアピールしたいがために、実力以上に目立とうとする。やる気だけが高い人は、往々にして自己中心的になる。すると、出演者同士のもたれ合いで成立している笑っていいともは番組にならない。この点をタモリさんは危惧していたから、このような言葉を口にしたのかもしれない。

中島敬二『インドビジネス40年戦記』


インドビジネス40年戦記インドビジネス40年戦記
中島 敬二

日経BP社 2016-04-01

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 著者の中島敬二氏は住友商事出身である。1975年からインドとの取引に関わり、スズキ自動車がインドに設立したマルチ・ウドヨノ(現マルチ・スズキ)については、立ち上げ期から支援を行った。1998年からインド住友商事社長を務めた。2004年に定年退職したが、2006年には住友商事が出資するインド企業の再建を依頼され、同社取締役としてインドに赴任している。トータルで約40年にわたりインドビジネスに携わっているインドのエキスパートである。

 海外ビジネスに詳しい方々が口を揃えて言うのは、「インドは肌に合う人と合わない人がはっきりと分かれる」ということである。インドの文化や国民性にすっかり惚れ込んで、インドでの仕事が大好きになる人がいる一方で、水を飲めば下痢になり、食事を食べても口に合わず、一刻も早く日本に帰任したいと本社に懇願する人もいるようだ。中島氏は前者の中でも強者の部類に入る。

 以前の記事「清好延『インド人とのつきあい方―インドの常識とビジネスの奥義』」でも書いたが、インド人は他人、特に友人との距離が非常に近く、男性同士でも手をつないで歩くことがあるという。これは本当なのかと半信半疑だったが、本書にも次のように書かれていたので、どうやら真実のようだ。
 K会長はこう言ってくれた。「多くのインド人や外国人が私に接近する。だが、そのほとんどはビジネス上の付き合いである。君は若いけれど、私の親友だ。A friend in need is a friend indeedという言葉を知っているかい?今後君に困ったことが起こったら、どんな問題であろうとも私はあなたを助ける」と。K会長は「日本の弟」と私を呼ぶようになった(彼と私とはインドではよく手を繋いで歩いていたが、お互いにホモではないことを念のため申し添えておく)。
 ここからはインドの話からは外れる。商社のビジネスは、言い方は悪いが、モノを右から左へ流すビジネスである。顧客からすれば、間に商社が介在している分だけ、高い価格を払わされることになる。そこで、顧客はメーカーとの直接取引によって、コストカットをしたいと考えるようになる。商社は常に中抜きをされるリスクにさらされている。そのリスクを巧みに回避し、さらに顧客に対して商社ならではの付加価値を提供できる人が商社の世界で生き残っていくに違いない。
 3回目のF氏(※日本の自動車関連会社X社との合弁を計画していたN社の社長。住商はX社とN社を仲介していた)の来日時、彼を東京でアテンドし、X社へ送り出したところ、X社の課長から、「F氏は住商抜きで取引をしたいと言っているよ」との電話がかかってきた。私は普段は冷静で温厚な人間だと自認していたのだが、このときばかりは怒り心頭に発し、机に置いてあったF氏から貰った土産を叩き潰した。

 翌日彼は再び住友商事本社を訪れた。本部長が海外出張中だったので、私は本部長室を借りて、1人で彼と対峙した。彼が入室するなり、私は彼を睨み、そして私は厳しい態度で言った。「当社抜きの直接取引を申し出たとの話を聞いたが本当ですか?もし本当なら、大変遺憾な話です。今すぐこの部屋から出て行ってください。私は約束を守らない会社とは関わりたくない。当社の本部長の名代として貴方にはっきり申し上げる」と。
 ブログ本館の記事「安土敏『スーパーマーケットほど素敵な商売はない』―一度手にした商圏を”スッポン”のように手放さない執念、他(続き)」で、製造業と流通業の価値観の違いについて書いた。製造業の価値観は、自社の得意技術を活かして、特定分野の製品を極め、それを広く市場に広めようとする。製造業が重視するのは、その製品の「市場シェア」である。一方、流通業の価値観は、特定の顧客を極めることである。つまり、顧客のニーズを幅広くつかみ、かつ深堀して、「あの企業にお願いすれば手に入らないものはない」と思ってもらえるように製品・サービスを揃える。だから、流通業は「ウォレット・シェア」を重視する。

 強い商社マンというのは、単に手持ちの製品を横流しするだけではなく、顧客が無理難題を言ってきても、世界中のネットワークを活かして、顧客がほしがる製品・サービスをありとあらゆる手を使って(もちろん合法的に)調達できる人のことを指すのだろう。顧客のことが好きで好きで仕方なく、顧客を喜ばせたい一心で顧客のために何でもしてあげられる人が、商社や流通業には向いている。

 流通業の中には、特定メーカーの系列に組み込まれていて、顧客からの受注情報をメーカーに伝えるだけの存在になっているところもある。今はそれでよいのかもしれないが、仮に顧客が力を持ち始めて、「メーカーとの直接取引をしたい」とプレッシャーをかけるようになれば、きっと流通網は崩壊する。また、「もっと製品・サービスの選択肢がほしい」という声が大きくなれば、系列関係が崩れ、多様なメーカーの製品・サービスを扱う流通業者が出現するに違いない。

 私は、どちらかと言うと製造業の価値観に近い。自分の得意分野に磨きをかけて、質の高いコンサルティングや研修・セミナーを提供したいと思う。もちろん、私も顧客の役に立ちたいと思って仕事をしている。だが、いくら顧客がほしがっているからといって、自分があまりよく知らない製品・サービスまで探し出して紹介しようとは思わない。私のような人間が総合商社に入社していたら、真っ先に出世競争から脱落していただろう。むしろ、今の仕事の方が性に合っている。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

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