ソ連史 (ちくま新書) 松戸 清裕 筑摩書房 2011-12 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
1917年の二月革命から1991年のソ連崩壊までを俯瞰した1冊。社会主義国ソ連に対する一般的なイメージと現実とのギャップが解った。
(1)【一般的なイメージ】ソ連は「計画経済」でがんじがらめになっていた。
⇔【実際】本書を読むと、ソ連は慢性的に農作物の不足に悩まされていたことが解る。農作物を輸出して外貨を稼ぎ、その外貨を重工業に投資して経済成長をさせるというのが共産党の狙いであったが、シナリオ通りにはいかなかった。そのため、冷戦期にはアメリカとの経済格差が開く一方であった。
計画経済では、毎年農作物の種類ごとに目標収穫量を設定する。ところが、実は計画を策定した時点で国民の需要を満たせないことが明らかなこともあった。そこで、政府が定めた農地=国有地に加えて、農民が自由に作物を育てることのできる付属地=私有地を認めた。そして、付属地で収穫された農作物は、コルホーズ(集団農場)市場で自由に売買することができるようにした。つまり、部分的に自由市場経済を認めていたわけである。
政府が農民から買い取って国民に販売する農作物に比べて、コルホーズ市場で取引される農作物は価格が高くなる傾向にあった。そのため、政府は付属地の制限に乗り出したことがある。ところが、付属地を制限した途端に農作物の収穫量が激減し、かえって国民を飢餓に追いやる結果となってしまった。
以前の記事「エズラ・F・ヴォーゲル、橋爪大三郎『鄧小平』」で、鄧小平が自由市場主義を採用したのは、共産圏では初めてではないと書いたが、鄧小平の改革より何十年も前に、実はソ連が自由市場を試みていたのである。
(2)【一般的なイメージ】ソ連は共産党の一党独裁で、上意下達で運営されており、国民が共産党を批判することは許されない。
⇔【実際】本書を読んで最も興味深かったのは、政府や共産党関係者、地方の行政官、新聞などのメディアに対して、毎年国民からおびただしい数の手紙が届いていたという点である。手紙には、政治や行政に対する不満や改善点が書かれていた。2代全国紙には毎年数十万通の手紙が寄せられていた。ゴルバチョフの元には、”毎日”4,000通の手紙が届いていたという。
共産党は国民の不満が爆発することを恐れていたため、国民の声を聞くことに注力していたようだ。手紙の中には、「仕事を斡旋してほしい」といった個人的なお願いごとも含まれていたそうだが、それに対応して就職先を紹介してあげたという例も紹介されていた。そのぐらい、共産党は国民の声に対して敏感だった。
共産党も、政策を一方的に国民に押しつけたわけではなかった。共産党のスタンスは「国民に説明し、理解させ、協力を得る」というものであった。選挙は、共産党の政策を国民に浸透させる絶好の機会であった。ソ連は共産党の一党独裁であるから、選挙をやっても結果は見えているのだが、共産党は選挙活動を通じて政策を国民に丁寧に説明し、国民統合を図った。
(3)【一般的なイメージ】((2)とも関連するが、)ソ連は中央集権体制である。
⇔【実際】必ずしも中央集権体制のみだったわけではない。フルシチョフの時代には、「国民経済会議」という組織が設置された。それまでのソ連は、国家経済委員会が連邦全体の計画を策定し、工業部門別の省が連邦全域の当該部門企業を管理する縦割り体制であった。この過度の中央集権を是正するため、フルシチョフは省を解体するとともに、全国各地に数十程度の国民経済会議を置き、部門を問わずその地域の工業企業の管理を委ねることで分権化を図った。
また、フルシチョフは、国家機関が担う機能の多くを、次第に「社会団体」の管轄に移さなければならないとも考えていた。社会団体としては労働組合、コムソモール(共産党の青年組織)、各種協同組合などが挙げられた。さらに、文化施設、保健施設、社会保障施設の管理に社会団体を関与させ、劇場・映画館、クラブ、図書館など、国家の管轄下にある文化啓蒙機関の指導を社会団体に移す方針を打ち出した。これは、広く国民の参加意識を醸成することが目的であった。