こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント)のブログ別館。1,500字程度の読書記録の集まり。

2016年08月

保阪正康、東郷和彦『日本の領土問題―北方四島、竹島、尖閣諸島』


日本の領土問題  北方四島、竹島、尖閣諸島 (角川oneテーマ21)日本の領土問題 北方四島、竹島、尖閣諸島 (角川oneテーマ21)
保阪 正康 東郷 和彦

角川書店(角川グループパブリッシング) 2012-02-10

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 《参考記事》
 『「慰安婦」戦、いまだ止まず/台湾は独立へ向かうのか/家族の「逆襲」(『正論』2016年3月号)』―朝鮮半島の4つのシナリオ、他
 『非立憲政治を終わらせるために―2016選挙の争点(『世界』2016年7月号)』―日本がロシアと同盟を結ぶという可能性、他

4大国の特徴

 領土問題と言うと、最初にその土地を自国の領土に編入したのは一体どの国なのか、歴史文献から紐解こうとするのが一般的である。学術的には価値があるのだろうが、残念ながら現実の国際政治においてはあまり意味がないと思う。というのも、対立する双方が都合のよい研究結果だけを集めて、我が国の領土だと主張して譲らないからだ。領土問題を前進させるためには、国際政治の今後の行く末を見据えて、日本が少しでも有利なポジションを確保するためにはどうすればよいか?という視点が必要となる。

 冒頭の参考記事の中でも、稚拙ながらいくつかのシナリオを示してみた。個人的に、近いうちに起きる可能性が最も高いのは、朝鮮半島が共産主義国として統一されることだと考えている。韓国の資本が北朝鮮の核に投入され、凶悪な核保有国が誕生する。日本は、新しい朝鮮国家からの脅威を直接受けることになる。ここで、竹島の扱いが問題になるが、はっきり言うと、竹島は朝鮮国家に譲ってもよい。わずか0.23平方キロメートルしかない島に、軍事拠点を築くのは不可能である。埋め立てて基地を作るとしても、コストに見合わない。

 現在、アメリカと中国は対立関係にある。ところが、ひょっとするとアメリカが中国に寝返るのではないかという疑念が最近の私の頭の中にはある。仮にヒラリー・クリントン氏が大統領になれば、親中の姿勢が強くなるだろう。経済的な依存が強すぎる両国は、対立するよりも協調した方が得策だと判断するかもしれない。アメリカは、アジアのシーレーンを米中で共同管理しようと言い出しかねない。米中同盟なるものが成立すれば、アメリカ軍は日本から撤退する。

 《2016年9月3日追記》
 仮にドナルド・トランプ氏が大統領になったとしても、中国寄りになる可能性が高い。トランプ氏がの親族が経営する不動産会社の「トランプタワー」には、中国人投資家が多数投資している。移民排斥を掲げるトランプ氏の言動と矛盾するようだが、彼はあくまでもビジネスを中心に物事を考える。自分とアメリカのビジネスにとってよいことであれば、たとえ相手が中国であろうと積極的に接近する。


 ブログ本館の記事で、大国は二項対立的に発想すると何度か書いたが、現在の大国は上図のように複雑な対立関係にある。アメリカが中国側についたとする。これに加えて、朝鮮には新しい共産主義国家が生まれる。そして、かつての大国イギリスは中国との関係深化を狙っている。これらの事柄が重なると、米中を中心とする強大な勢力圏が登場する。これに対抗できるのは、ロシアとドイツしかいない。20世紀は資本主義と社会主義の対立であったのに対し、21世紀はアメリカ・中国陣営とロシア・ドイツ陣営の対立になる。

 《2016年12月10日追記》
 『正論』2017年1月号より、中国とロシアの関係について引用。
 日本の知識人間では中ロ蜜月が続いているかのように誤解されていますが、今年6月中旬にサンクトペテルブルクで開かれた国際経済会議では、プーチン大統領は明らかに、これ以上の中国接近を諦めて、ヨーロッパ回帰路線を打ち出している。ロシアはイギリスのEU離脱をそれほど喜んでいません。ましてやドイツやフランスに対して全く冷たい態度を取っていない。ヨーロッパは、ロシアの最高のトレーディングパートナーである。他方、中国はまだまだそこまでの水準に到底達していない。
(木村汎「いかにすれば北方領土返還が可能になるか」)
正論2017年1月号正論2017年1月号

日本工業新聞社 2016-12-01

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 《2016年12月25日追記》
 『致知』2017年1月号より、中国とロシアの関係について引用。
 中国が進めている「シルクロード構想」は、ロシアからすれば、中国が中央アジアに進出してくることを意味するため心中穏やかではありません。一方、国内にチベットやウイグルなど独立問題を抱える中国も、グルジア戦争やクリミア併合などの際にロシアを支持しませんでした。お互いに核心的な部分にまで踏み込んだ付き合い方はしていないのです。
(小泉悠「”大国”ロシアの行動原理―日本は大国ロシアにどう向き合うか」)
致知2017年1月号青雲の志 致知2017年1月号

致知出版社 2017-01


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 この対立を何と名づければよいか妙案がないのだが、ひとまず国家主義VS超国家主義としている。国家主義は、国家の枠組みを保ったまま、その範囲を膨張させようとする立場である。一方、超国家主義は、国境線を超えて複数の国が連携するシステムを目指す。ドイツはEUの中心であるし、ロシアは今年1月にユーラシア経済連合(EEU)を発足させ、EUとの連携にも意欲を見せている。

 中国・朝鮮からの脅威を受け、アメリカが撤退してしまった日本は、今後ロシアとの関係を重視することになるだろう。もしかすると、日露同盟が誕生するかもしれない。そうなった場合、北方領土問題には、もっと柔軟なアプローチが必要となる。日本は半世紀以上に渡って、「四島一括返還」でなければ受けつけないとしてきた。一方のロシアは「歯舞・色丹は返還してもよい」と譲歩してきた時期があるし、近年も日露共同統治案や面積等分論など、様々な選択肢を示している。それなのに、日本はことごとくそれを蹴ってしまった。

 交渉においては、BATNAを持つことが重要だと言われる。BATNAとは、「交渉が決裂した時の対処策として最もよい案」を意味する。日本はBATNAを持たず、「四島一括返還」一本槍で交渉に挑んできた。これでは絶対に領土問題は前進しない。今年12月にはプーチン大統領が訪日する。日本はこれを、ロシアとの関係を充実させる大きなチャンスととらえなければならない。

 最後に尖閣諸島問題だが、これは日本としては譲ってはいけない。中国が尖閣諸島をほしがるのは、そこに軍事基地を作るためではない。竹島と同様、面積が小さすぎる。中国は時間をかけて少しずつ相手国の領土を削る「サラミスライス作戦」をとる。尖閣諸島はサラミスライスの入り口にすぎない。本丸は沖縄である。これだけは絶対に阻止する必要がある。もしも沖縄に中国軍の基地ができたら、日本にとって死活問題である。だから、尖閣諸島は何が何でも死守しなければならない。その際に、先ほど述べた日露同盟が活きてくるはずである。

 しかし、以上のことは日本がアメリカや中国と完全に手を切ることを意味しない。ロシア・ドイツ陣営に過度に肩入れするのは、小国の戦略としては最悪である。日本とアメリカ・中国の経済関係はあまりに深く、今さら大幅な変更はできない。あくまでも軍事面においてロシア・ドイツ寄りになるということであって、その他の局面では、アメリカ・中国と協力できることは協力していくし、両国から学べることは学んでいく。ここに、日本の新たな「ちゃんぽん戦略」ができ上がる(ブログ本館の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」を参照)。

サンフォード・M・ジャコービィ『日本の人事部・アメリカの人事部―日本企業のコーポレート・ガバナンスと雇用関係』


日本の人事部・アメリカの人事部―日本企業のコーポレート・ガバナンスと雇用関係日本の人事部・アメリカの人事部―日本企業のコーポレート・ガバナンスと雇用関係
サンフォード・M. ジャコービィ Sanford M. Jacoby

東洋経済新報社 2005-10

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 平均的に見れば、日本企業は相対的に組織志向的であった。つまり、雇用は可能な限り長く維持され、離職率は低かった。広範な教育訓練、平等、年功といった組織内の配慮が、賃金や採用・昇進・異動の決定に大きな影響を与えていた。ステークホルダー型ガバナンスと企業別組合は企業の組織志向性を支えた。これらすべてが日本企業の人事職能の高いステータスと集権的性格を補強する役割を果たしていた。
 アメリカでは、雇用慣行はより市場志向的になる傾向があった。雇用期間はより短く、離職率はより高く、教育訓練投資は少なく、賃金や採用・昇進・異動は市場水準やその他の外部基準に基づいて決まった。コーポレート・ガバナンスは株主を特権的に扱い、組合は産業レベルを志向するか、もしくはより一般的に言えば組合自体が存在しなかった。(中略)人事職能は、日本の人事部のような集権性と影響力を欠いていた。
 本書は日米の人事部の機能・役割を比較した一冊である。分析対象が大企業中心であるため、私のような中小企業診断士にはちょっとフィットしない本であるが、一応私は人事や人材育成を専門とうたっている以上、読んでおくべきだろうと思い通読した。日米の人事部の違いを一言で言えば、引用文にあるように、日本が「組織志向」であるのに対し、アメリカは「市場志向」ということになる。

 組織志向の日本企業の人事部は、社員を競争力の源泉と見なし、長期雇用と中長期的な教育投資を通じて、その企業に固有の能力を習得させる。人事部は全社員の能力を把握しており、自社の戦略に照らし合わせて、彼らをどの役職、部門に配置するべきかを決定する非常に強い権限を持っている。日本の人事部は、競争戦略論で言うところの「資源ベース理論」に基づいて行動する。

 一方、アメリカの人事部は市場志向である。アメリカの場合、人材は労働市場からいつでも自由に調達できるという前提に立っている。戦略がめまぐるしく変化するアメリカ企業の場合、本社の人事部がいちいち採用や配置転換を行っていては間に合わない。そこで、現場の事情を最もよく知るそれぞれの事業部に人事部が置かれ、必要に応じて採用・配置・評価・賃金の決定などを行う裁量を与えている。中には、ラインマネジャーに人事権を与えているところもある。

 アメリカ企業の本社にも人事部はあるが、日本の人事部に比べるとはるかに権限が弱い。全社共通の基礎的な研修を実施したり、経営陣がビジョンや理念を浸透させるのを支援したりする程度である。アメリカの本社で最も力を持っているのは財務部である。CFOはCEOの直属の部下となり、経営チームの一員となっている。これに対して、人事部から経営チームのメンバーを出しているケースは少ない。日本では人事部が経営陣への登竜門となっているのとは対照的である。

 アメリカの財務部は、自社の事業をポートフォリオ管理し、全体の収益を最大化するために、どの事業を売却し、またどの事業を外部から買収するかを決定する。そのため、経営チームの中で強い力を発揮する。この状況で人事部にできることがあるとすれば、売却やM&Aの際に、人材の価値を算定し、適切な売買金額を算定する「ビジネスパートナー」となることである。

 とはいえ、アメリカの人事部も歴史をたどると、色々と変遷があったようだ。経済の落ち込みによって労働不安が高まった時や、政府が労働・雇用に関する規制を強化した時には、本社人事部の権限がむしろ高まった。具体的には、第2次世界大戦前後や1960年代の本社人事部は、日本の「資源ベース理論」と似たような考え方を採用していた。特に1960年代には、いわゆる「人間関係学派」が生まれており、社員を単なるコストではなく資源と見なす傾向が強まった。

 ただ、面白いことに、ほぼ時期を同じくして、企業では多角化が進んだ。多角化が進むと、前述のように財務部が力を持つようになる。本書には明確に書かれていなかったが、1960年代以降は、「資源ベース理論」に基づく人事部と、「ビジネスパートナー」としての人事部が勢力争いを繰り広げていたと推測される。

 しかし、次第に企業が株主重視の姿勢に傾くにつれて、人事部の市場志向が高まった。1980年代には、日本企業の後塵を拝したアメリカ企業が成果主義を採用し始めた。アメリカは、20世紀初頭に「科学的管理法」で知られるフレデリック・テイラーが成果給を提唱した後、特に人間関係学派が中心となり成果給の欠陥を克服しようと努めてきたのに、結局はまた成果給に戻ってしまったわけだ。

 日本では、以前ほど成果主義を支持する声は聞かれなくなったが、アメリカの市場志向に倣うべきだという意見は根強い。だが、アメリカ企業だけに注目するのではなく、アメリカ社会全体に注目しないと、判断を間違える。アメリカでは、企業は経済的ニーズを満たす存在である。企業が生み出す価値は全て金額換算される。しかし、人生の価値は可算的なものばかりではなく、不可算の価値もある。こうした社会的なニーズは、アメリカ企業が苦手とするところである。そこで、企業に代わって、非営利組織が社会的ニーズを充足する。企業と非営利組織が両輪となって、人間のニーズ全般を満たすのがアメリカである。

 これに対して、日本企業は経済的ニーズと同時に、社会的ニーズを満たす存在である。具体的には、自社の社員を一市民としても扱い、福利厚生を充実させて社員=市民の社会的ニーズを満たす。また、アメリカ企業ならば相手にしないような低所得者層や障害者などに対しても、日常生活で必要となる製品・サービスを広く提供する。採算は二の次で、顧客満足度を最優先させる。

 これ以外にも、日本企業は下請・取引先との長期的な協力関係を重視し、共存共栄を図る。また、地域社会の一員として、地域活動にも積極的に参加する。以上が日本企業の特徴である。企業がそこまでやるため、日本では非営利組織がアメリカよりずっと少ない(とはいえ、最近は日本企業の社会的機能が随分と薄れてきた)。この状態で、日本企業がアメリカのように市場志向になると、社会的ニーズを満たす機関が消える。だから、安易なアメリカの模倣は危険である。

 競争戦略論で有名なマイケル・ポーターは、近年CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)というコンセプトを提唱している。企業は経済的価値と同時に社会的価値も創造するべきだというわけである。私は、ポーターの論文を読んだ時、「何を今さら」という感想を持った。なぜならば、日本企業は昔から経済的価値と社会的価値の両立を目指していたからである。

由良弥生『「神」と「仏」の物語』


「神」と「仏」の物語 (ベスト新書)「神」と「仏」の物語 (ベスト新書)
由良 弥生

ベストセラーズ 2016-05-10

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 ブログ本館の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」、「島薗進『国家神道と日本人』―「祭政一致」と「政教分離」を両立させた国家神道」で「神仏習合」について書いた。日本は元々八百万の神であるが、6世紀に百済から仏教が伝えられた後、奈良時代に入ると神道と仏教の融合が図られた。神社の中には「神宮寺」という寺院が建てられ、僧侶が住みついた。そして鎌倉時代中期には「本地垂迹説」が生まれた。これは、仏・菩薩を本地とし、神は衆生救済のためにこの世に姿を現した垂迹とする考え方である。

 これによって、各神社に祀られている神の本地が定められることになった。例えば、天照大神の本地は大日如来、八幡神(応神天皇)の本地は阿弥陀如来といった具合である。古事記や日本書紀にあった神々の名前も、仏の名前へと書き換えられた。本書では「仏教の方が優位であった」といった記述が目立つ。

 しかし、ここで1つ素朴な疑問が生じる。仏教の方が優勢であったのならば、なぜ仏教は神道を駆逐しなかったのであろうか?影響力の点では仏教の方が上であるが、神々の子孫である天皇を日本社会の頂点にいただいている限り、関係としては神道の方が仏教より上に立つ。だから、実際には仏教が神道の下に潜り込み、下から神道を突き動かした(変質させた)と表現するのが適切である。この関係は、明治時代に神道が仏教を徹底攻撃した廃仏毀釈とは対照的である。

 ブログ本館において、日本では「二項対立」ではなく、しばしば「二項混合」が起きると書いた。つまり、ある事柄Aに対して、それと対立する事柄Bが生じると、BはAを排斥するのではなく、Aの下に入り込んでAと融合するのである。Aに対してBが強い力を及ぼすことを、山本七平は「下剋上」と呼んだ。一般的な下剋上では、下の階層が上の階層を打ち倒すが、山本の言う下剋上とは、上の階層を生かしながら、下の階層が自由に影響力を発揮することを意味する。

 日本で長らく続いた朝廷と幕府の二元体制はこの文脈で理解することができる。近現代で言えば、経営者と労働者、資本主義と共産主義も二項混合の関係にある。このような二項混合は、結果的に社会構造を多層化・複雑化させることになる。しかし、逆説的であるが、日本社会は階層が多重化した方が安定するという特徴を持つ(ブログ本館の記事「渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ」を参照)。

 日本は、アメリカのように階層を減らして、トップに強烈なカリスマを持つリーダーを据える社会とは異なる。どういう理由か解らないが、日本では傑出した能力を持つリーダーが生まれにくいようである。だから、カリスマに満ちたリーダーがトップダウンで社会を動かすことは期待できない。凡人が幾重にも重なってああでもない、こうでもないと検討を繰り返した結果、少しずつ社会を動かす方が、時間と手間はかかるけれども結果的にリスクを回避できる可能性が高まる。これが、日本がしぶとく2000年以上も国家を継続させてきた秘訣である。だから、日本には諸外国のような緊急事態条項は不要である。

 私は以前、神仏習合は日本人の二項混合的な発想の好例であると書いたが、本書を読んで少し考えるところがあった。そもそも、何をもって日本人に固有の発想と呼ぶのかという問題がある。換言すると、①当時の支配層に主流の考え方ならば日本人に固有の発想と言えるのか、それとも、②一般庶民にまで広く行き渡らなければ日本人に固有の発想とは言えないのか、という問題である。

 本書によれば、奈良時代から平安時代にかけて、神仏習合はあくまでも貴族などの支配層に限定された思想であったという。一般市民にとって、仏教は縁遠い存在であり、相変わらず土着の神道を頼っていた。鎌倉時代には鎌倉仏教が生まれたが、それが広まったのは武士階級までであった。武士は人を殺めたことに対する罪悪感を感じており、悪人でも地獄ではなく極楽浄土に行けるという仏教の思想に惹かれていった。逆に言えば、この時点でもまだ、仏教は一般市民と無縁であった。仏教が一般市民にまで広まるのは、江戸時代に入ってからである。幕府が定めた寺請制度によって、仏教は一般市民の身近な存在となった。

 前述の①に従えば、神仏習合は奈良時代から見られる日本古来の思想と言えるだろう。しかし、逆に②に従うと、神仏習合はせいぜい江戸時代に入ってから定着したにすぎない。しかも、江戸時代の一般庶民は、寺院を単なる葬儀業者のように見なしていたから、神仏習合なるものをどこまで理解していたのか不明である。この辺りをもっと掘り下げることが、私の今後の課題である。

庵功雄『やさしい日本語―多文化共生社会へ』


やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)
庵 功雄

岩波書店 2016-08-20

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 著者は、労働人口が減少する日本が将来的に移民を受け入れざるを得ないという前提に立って、移民やその子どもたちが地域社会でそれなりに不自由なく生活できるようにするために、<やさしい日本語>を習得してもらうことを提案している。この<やさしい日本語>に基づく日本語初等教育は、50~100時間程度の短い時間で集中的に実施されるように設計されている。

 著者が提唱する<やさしい日本語>と、現在小学校で用いられている国語教科書が教える日本語の文法を比べると、教科書では初級と位置づけられている文法であっても、<やさしい日本語>では初級から外されているものも多いという。言い換えれば、教科書がうたう初級とは、移民などの外国人が日本国内で生活するのに最低限必要な日本語のレベルとは乖離しており、外国人に対する日本語教育としては難しすぎるということになる。

 また、外国人の子どもたちにとって大きな壁となるのが、教科書の読解である。教科書が読めなければ、学校の授業について行けない。学力で劣る彼らは、間違いなく就職面で不利になる。貧しい生活環境に置かれた彼らは、犯罪に走る可能性も高まるであろう。将来そういう事態にならないようにするためにも、子どもたちが教科書を読めるようになることは極めて重要である。著者は、小学校の教科書での使用頻度が高い漢字と、現在小学校低学年で学習することになっている漢字とを比較した。すると、やはりそこにも大きな乖離が見られたそうだ。

 移民などの外国人が<やさしい日本語>のレベルにまで到達するのと同時に、我々日本人も、普段使っている日本語から<やさしい日本語>のレベルへと移動することが必要となる。著者は、「なぜ日本人の方が外国人に合わせなければならないのか?」といぶかしがる日本人を批判する。コミュニケーションとは、自分が言いたいことを相手が理解できるように伝えることである。したがって、相手の立場に立つことは当然である。私は、著者の主張に完全に同意する。

 ところで、外国人を受け入れるならば、日本人が<やさしい英語>なるものを外国人と共有すればよいでのはという意見もあるかもしれない。この点について私は次のように考える。まず、日本人が英語そのものに慣れていない。現在、訪日外国人の増加に伴って街中で英語表記を多く見かけるようになったが、その中には英語圏の人の目に不可解に映るものも少なくないという。また、日本への移民などが必ずしも英語を母語としているとは限らない。アジアからの流入が最も多いことが想像されるから、英語は第二外国語である確率の方が高い。

 この状態で<やさしい英語>を導入すると、日本人は<母語としての日本語>⇒<第二外国語としての英語>⇒<やさしい英語>という順序をたどり、外国人もまた<母語>⇒<第二外国語としての英語>⇒<やさしい英語>というまどろっこしいステップを踏むことになる。それよりも、日本人は<母語としての日本語>⇒<やさしい日本語>とたどり、外国人は<母語>⇒<やさしい日本語>と進んだ方が効率的である。無理に英語を挟む必要はない。

 余談だが私の最近の失敗談を1つ。コンサルティングの仕事で、あるインド人にヒアリングをする機会があった。そのインド人は日印の通訳もやっていた方で、紹介してくれたコンサルタントからは、日本語がペラペラだと聞いていた。メールでもやり取りさせてもらったが、漢字も多少使えそうだったので、私はてっきりそのインド人が日本語をほぼ自由自在に使えるものだと思い込んでいた。

 ヒアリングの場で私は、質問項目を書いた紙をそのインド人に渡し、順番に読み上げることにした。もちろん、相手がいくら日本語が堪能とはいえ、インド人であるから、解りやすく言い換えた箇所もあった。だが、開始早々、そのインド人に、「スミマセン、私は漢字が2つ以上続く言葉は解らないです」と言われてしまった。

 ヒアリングに同席していた同僚の日本人によれば、彼は通訳ができるほどのレベルではあるけれども、熟語は理解できない、まして4字熟語はもっと理解できないとのことだった(例えば「雇用契約」、「就業規則」と言われてもピンとこない)。日本語の熟語は外国人にとって想像以上にハードルが高いようである。勝手な思い込みで相手の能力を十分に把握していなかった自分をひどく恥じた。

 本書を読んでいたら、日本語を外国人向けにやさしい文章に書き換える実験をさせると、外国人にも理解される文章を書くことができる人は、元の日本語の文章を書いた人の意図を汲み取り、不必要な情報を削って、大切な情報だけを極限まで噛み砕いて書き直すとのことだった。これに対して、外国人に理解してもらえる文章が書けない人は、元の日本語の文章を単純に全て別の言葉に書き換えるだけだったという。申し訳ない、その後者の人間はまさに私のことである。

『どう生きますか 逝きますか 死生学のススメ/LCC乱気流/ヘリコプターマネーの功罪(『週刊ダイヤモンド』2016年8月6日号)』


週刊ダイヤモンド 2016年 8/6 号 [雑誌] (どう生きますか 逝きますか 死生学のススメ)週刊ダイヤモンド 2016年 8/6 号 [雑誌] (どう生きますか 逝きますか 死生学のススメ)

ダイヤモンド社 2016-08-01

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 「死=無」という考え方は団塊世代に多い。戦争を経験した彼らの親世代が子どもに同じ教育をしてはいけないと考えたこと、また団塊世代を教えた世代の知識人の多くがマルクス主義に染まり、唯物論的な死生観が形成されていったという経緯があります。
(玄侑宗久「震災で古来の死生観が蘇った」)
 私の神学論なんてまだ支離滅裂で全くまとまっていないのだが、ブログ本館の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」で書いたように、神と人間をともに完全で合理的な存在であると認めたところから、全体主義や共産主義が生じた。その発端は17世紀後半~18世紀の啓蒙主義に見出せる。

 もっとも、共産主義は無神論であるから、神と同時に論じるのは適切ではない。ただし、啓蒙主義によって「あちら側のメシアニズム」から「こちら側のメシアニズム」に移動した(ブログ本館の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」)、すなわち、人間が神の性質を獲得したとすれば、神の存在を人間とは別個に考える必要はなくなる。

 神が無から有を生み出すことができるように、人間もまた無から生じて有となる。有の時間は絶対不変であり、「今、ここ」という現在に固定されている。共産主義には過去も未来もない。だから、社会主義の革命は、世界”同時”革命である必要がある。ところで、人間は神と同じでありながら、死ぬ。死ぬことで無に帰す。これは人間の完全性と矛盾するのではないかと思われるかもしれない。

 だが、絶対的な生を、前後から絶対的な無で挟むことで、生の絶対性をより際立たせることができる。つまり、生きている人間は現在のうちに絶対に社会主義革命を成し遂げなければならないと、生を強く規定するのである。山本七平の言葉を借りれば、「死の臨在による生者への絶対的支配」と呼ぶことができる(ブログ本館の記事「山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』―日本型組織の悪しき面が露呈した帝国陸軍」を参照)。さらに、絶対無となった人間は、再び無から有を生み出し、現在という時間軸の中に人間を送り込む。そして、世界同時革命の実現を目指すのである。この仕組みは、いわば革命の永久機関である。

 共産主義や全体主義が恐ろしいのは、その暴力性もさることながら、現在という時間が絶対であり、およそ歴史というものを持たない点である。つまり、社会が進歩するという発想がない。これは、我々、特に日本人には到底受け入れられない。ブログ本館の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」でも書いたが、日本人は、何となくこの世に生を受け、何となく死んでいく。我々は生の瞬間、死の瞬間を自覚することはできない。そして、絶対無も絶対有もない。そういう点では、共産主義的な生に比べると、いかにも軟弱であるかもしれない。

 しかし、何となく生まれた日本人は、ただ何となくこの世に生を受けたのではなく、先祖代々の魂を受け継いでいる。つまり、そこには歴史と伝統がある。そして、何となく死んだ後も、何となく意味を失うのではなく、魂だけは後世に引き継がれると信じる。すなわち、社会の永続的な発展を願う精神がある。

 冒頭の玄侑宗久氏によれば、東日本大震災は、従来のマルクス主義的な死生観に埋もれていた日本古来の死生観が再発見される契機になったという。
 行方不明者多数という稀有な事柄があり、被災者や遺族は生と死を深く見詰める中で「遺体が見つからないなら、あの人はきっとどこかで無事に生きている。たとえ肉体が滅んでも魂は不滅で祈りをささげれば帰ってくる」という、日本人古来の死生観がよみがえったのです。(同上)
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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、1,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

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(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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