こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

2016年09月


『9・11から15年―世界はどう変わったか(『世界』2016年10月号)』


世界 2016年 10 月号 [雑誌]世界 2016年 10 月号 [雑誌]

岩波書店 2016-09-08

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 (1)
 中東や東南アジア、西欧諸国においては、軍・警察中心のハードなアプローチがテロ対策の中核をなしていた。だが、ここ数年で徐々にソフトなアプローチが重視されるようになってきた。とくにテロリスト予備軍をコミュニティー・レベルで監視・捕捉し、彼らが実際に行動に移るまえに、脱洗脳と社会復帰のためのリハビリ・プログラムを受けさせる、といった対策が現実に進んでいる。
(保坂修司「アルカイダからイスラーム国へ ジハード主義の来し方行く末」)
 イスラム国のようなテロリスト集団に対してどのように対処すべきか、私は十分な見解を持たない。上記のアプローチは一見もっともらしく聞こえるが、本号の別の箇所では次のように述べられている。
 すべてのムスリムを信仰だけを理由として無差別に監視することがどのような機序でテロの予防に寄与するのか、そのような研究成果はあるのかといった肝心の点については、証拠によらずに妄想で補ってしまったのだ。むしろ、世界の研究成果によると、このような監視捜査に予防効果はないとされている。
(井桁大介「ポスト9・11からポスト・スノーデンへ テロ監視政策」)
 ということは、冒頭のようにテロ予備軍をあぶり出してリハビリ・プログラムを行うのは、大変な労力がかかる割に十分な効果が期待できないことになる。本号で、加藤周一が1946年に書いた論文「天皇制を論ず―問題は天皇制であって、天皇ではない」に言及している箇所があったが、この表現を借りれば、「問題はイスラーム原理主義を支える何らかの仕組みであって、ムスリムではない」と言える。テロリストであれ犯罪予備軍であれ、人に着目してモグラ叩き的に対策を打っているうちは、残念ながらテロはなくならないであろう。

 (2)本号では「風評被害」という言葉が何度も用いられていた。福島原発事故後に放射線について学校で授業を行ったら、「風評被害が出るから止めてくれ」と親からクレームが入った話(尾松亮「教室で「放射能」を語れない―外国語に訳せないいくつかの理由」)、日本の国有林の中には枯葉剤が埋められている箇所が50ほどあるが、林野庁は風評被害を恐れてその場所を公開していないという話(宗像充「枯葉剤の埋められた山野を行く」)、最近、事故物件が密かな人気を集めているが、自死があった物件情報をいつまでも掲載する事故物件検索サイトに、「風評被害が広まるから掲載を取り下げてほしい」と家主が申し入れた話(杉山春「「事故物件」高額補償はなぜ起きるのか」)などである。

 尾松氏によると、「風評被害」という言葉は英語やロシア語に訳せないという。
 「風評被害」・・・。どう訳すか。ロシア語にはない言葉だ。「悪いイメージをつくる噂による被害」(?)と訳してみる。(中略)

 「DNAを放射線が傷つけるっていう話が、なんで噂になるの?悪いイメージをつくるって、何のイメージが悪くなるの?」うまく訳せない。もう一度トライする。「間違った情報の流布によって地域の人を傷つけ損失を与える」(?)「えっ、なんで?DNAを放射線が傷つけるっていうのは間違った情報じゃないでしょ。教科書にも書いてあるじゃない。なんでそれが、地域の人を傷つけるの?だれが損失を受けたの?」
 この福島訪問後、長崎で会ったバイリンガルの英語通訳者に「英語で『風評被害』はどう訳すか」を聞いてみた。この通訳者は、福島第一原発事故以来多くの外国人専門家を日本に招き、事故後の状況についての会話や報告を通訳してきた。「英語には『風評被害』なんて言葉ないですよ。”Harmful rumor(有害な噂)”と訳してみるんですけどね。少し違う」
 ブログ本館の記事「竹内洋『社会学の名著30』―「内部指向型」のアメリカ、「他人指向型」の日本、他」などで、日本人は他者との交わりを重視し、欧米人は自己を重視すると書いた(その違いを宗教観の違いに求めた)。日本の社会は巨大なピラミッドであり、垂直・水平方向に分化が進んでいる。1人1人の日本人は、社会全体のほんの一角を占めるにすぎない。だが、上の階層に対しては「下剋上」を起こし、下の階層には「下問」する(ブログ本館の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」を参照)。

 さらに、日本人は水平方向にも積極的に協業する。企業内では同期のつながりが重視されるし、ジョブローテーションが頻繁に行われる。業界内では業界団体が競合他社とのリレーションを促進する。競合他社はライバルであると同時に、協業のよき友でもある。さらに、業界を飛び越えた異業種連携も見られる。以上を総合すると、日本人はピラミッドの中で、自分に課せられた役割を果たすだけでなく、上下左右へと移動し、他者の目的達成にも貢献しようとする。

 心理学には、「セルフモニタリング」という用語がある。セルフモニタリングが高い人はその場の状況に応じて言動を変える傾向が強く、逆に低い人は一貫した言動をとりやすい。セルフモニタリングが高い人ほど出世しやすいことも解っている。そして、研究によれば、日本は典型的なセルフモニタリング社会なのだという。これは、日本人がピラミッドの中で見せる柔軟性と無縁ではないだろう。

 ただし、セルフモニタリングが高いことには問題もある。他者に遠慮するあまり、他者に正しい情報を提供せず、自己を正当化する傾向が強いのである。日本語だけに風評被害という言葉があり、日本人が極度に風評被害を警戒するのは、「この情報を相手に伝えたら、相手に迷惑がかかるに違いない」と余計な心配をしてしまうからである。そして、そういう心配をせずに客観的な情報を公表する人を、風評被害のことを考えない無神経な人と責めるのである。

 通常、他者との関係を大切にするならば、客観的な情報を重視するはずである。ところが、日本人は他者との関係を大切にするあまり、客観的な情報を曲げてしまう。日本人のこの悪癖は、おそらく永遠に治らないだろう。逆説的だが、自己を重視する欧米人の方が、よっぽど客観性を重視する。

森田安一『物語 スイスの歴史―知恵ある孤高の小国』


物語 スイスの歴史―知恵ある孤高の小国 (中公新書)物語 スイスの歴史―知恵ある孤高の小国 (中公新書)
森田 安一

中央公論新社 2000-07

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 ブログ本館の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」などで、「対立する大国に挟まれた小国は『ちゃんぽん戦略』をとるべきだ」と散々書いておきながら具体的な戦略の中身を詰めていなかったのだが(汗)、だんだんと輪郭が見えてきた。「ちゃんぽん戦略」の目的は大きく分けると2つある。

 ①対立する双方の大国のシステムや制度のいいところ取りをして、自国を複雑化させる(INの戦略)。
 ②対立する双方の大国と交流し、利益を与えることで、双方から求められる国となる(OUTの戦略)。

 ちゃんぽん戦略は、政治面、経済面、軍事面という3つの面で展開される。まず、政治面のINの戦略とは、専制主義と民主主義の間をとって、独自の政治システムを構築することである。日本は民主主義を採用しているが、ほとんど自民党の一党独裁状態にあると言える。専制主義と民主主義を混合して、一定の政策の多様性を担保していたのが、派閥という伝統であった(ただし、小泉政権以降は派閥が弱体化しているため、やや心配である)。

 政治面のOUTの戦略とは、いわゆる「八方美人外交」である。インドやベトナムはこれが得意だ(以前の記事「山田剛『知識ゼロからのインド経済入門』」、「福森哲也『ベトナムのことがマンガで3時間でわかる本―中国の隣にチャンスがある!』」を参照)。また、環境問題など地球規模の重要な課題をめぐる意思決定の局面で、キャスティングボートを握ることである(以前の記事「田中義晧『世界の小国―ミニ国家の生き残り戦略』」を参照)。国際政治における小国の1票の価値は相対的に重いため、それを利用して大国を手玉に取ることができる。

 経済面のIN戦略とは、国家主導の市場制度と自由市場主義の間をとって、独自の経済システムを構築することである。日本は建前上は自由市場主義を採用しているものの、かつては護送船団方式と呼ばれる制度が存在した。現在でも、行政が業界団体を通じて企業に影響力を及ぼし、市場における自由を一部制限することがある。経済面のOUT戦略は至ってシンプルであり、対立する双方の大国と貿易を行い、双方に直接投資をすることである。日本の貿易相手国を見ると、輸出・輸入ともにアメリカと中国がツートップである。

 政治・経済面において、小国が対立する大国の双方と深く結びついていれば、大国は小国に対して簡単に手出しができなくなる。仮に一方の大国がもう一方の大国にダメージを与えるために小国を攻撃したとしても、自国も一定の損害を覚悟しなければならない。ここまでは何となく整理できた。問題は軍事面である。

 軍事面のIN戦略とは一体何であろうか?そもそも、軍事面において、政治における専制主義VS民主主義、経済における国家主導の市場制度VS自由市場主義のような対立はあるのだろうか?さらに、軍事面のOUT戦略となると、日米同盟に慣れきってしまった私には想像がつかない。以前の記事「百瀬宏『ヨーロッパ小国の国際政治』」では、デンマークが対ドイツのために軍隊を拡充する一方で、NATOが西からデンマークを経由してドイツを攻撃するのを防ぐ役割も果たし、ドイツに対し安全保障を提供しようとした例(この政策は結局実現しなかった)を紹介した。こういうことが、現在のアジア情勢において可能なのだろうか?

 スイスは、周囲を大国に囲まれており、戦略的に見て非常に重要な地域であるが、中世の時代から永世中立を貫いている。ただし、本書によると、中世のスイスは、周辺で対立する双方の国に傭兵を派遣し、傭兵同士を戦わせることで、スイス本土には戦火が及ばないようにするなど、結構ダーティーなことをやっていたようだ(もちろん、現在は傭兵は廃止されており、国民皆兵制度となっている)。

 また、スイスはナチスとのつながりも深い。第2次世界大戦の当初、スイスは連合国との貿易を盛んに行っていた。ところが、1940年に「スイス・ドイツ経済協定」を結ぶと、一転して枢軸国との貿易額が増加した。さらに、戦後のスイスは、「ナチス略奪金塊問題」で国際社会から批判を浴びた。この問題は、ナチスがユダヤ人などから略奪した金塊をスイスでロンダリングして、世界各地に販売していたというものである。Amazonで本書を調べると、関連書籍として福原直樹『黒いスイス』(新潮社、2004年)が出てきた。同書はこの辺りに詳しいのだろうか?

黒いスイス (新潮新書)黒いスイス (新潮新書)
福原 直樹

新潮社 2004-03

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野矢茂樹、西村義樹『言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学』


言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)
野矢 茂樹 西村 義樹

中央公論新社 2013-06-24

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 《参考記事(ブログ本館)》
 飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)
 森本浩一『デイヴィドソン―「言語」なんて存在するのだろうか』―他者が積極的に介在する言語論に安心する
 門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に

 ブログ本館で「シリーズ哲学のエッセンス」の言語論について書いた記事を改めて読み直したのだが、自分の理解が浅くて涙が出そうだ。それでも、自分の無知をさらにさらすことを覚悟で、言語学の本について記事を書いてみたいと思う。

 かつての言語学の世界では、アメリカの構造主義が主流を占めていた。アメリカ構造主義は行動主義とも呼ばれ、人間が言語を使用するプロセスに注目する。人間はあるインプットを受けると、何らかの言語処理を行って、言語というアウトプットを出す。アメリカ構造主義では、人間の言語処理をブラックボックスのままとし、インプットとアウトプットの関係を記述することに徹した。これに異を唱えたのがチョムスキーであり、彼は「生成文法」というものを発想した。

 チョムスキーは、アメリカ構造主義者が不問とした言語処理の中身を明らかにすることに努めた。我々が普段用いる様々な単語のことを「語彙項目」、そして「<名詞>+<動詞>」のような文の構造を「文法項目」と呼ぶ。語彙項目を文法項目にあてはめた時、明らかにおかしなものを排除していく。例えば、「私は財布を落としました」は正しいが、「私は財布に落ちられました」は不自然である。このような作業を繰り返して行くと、語彙項目の組合せには何らかのルールがあることが解る。こうしたルールのことを「統語論」と呼ぶ。

 生成文法では、能動態と受動態は同じ意味を表すとされる。具体例で言うと、「ダビデはゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は同じ意味である。統語論的には2つのルールで記述されているが、意味は同じとして扱われる。つまり、「統語論」と「意味論」は区別される。別の言い方をすれば、文法項目には意味がなく、意味を持つのは語彙項目のみとなる。そして、文法は異なっても意味は同じになる場合があることを指して、「客観主義の意味論」と称する。

 生成文法に対して、著者の西村義樹氏が研究しているのが「認知言語学」である。認知言語学はその名の通り、認知と言語の関係を扱うため、生成文法のように客観的なルールを切り出して整然と並べるのではなく、言語と心の働きを一体のものとする。また、語彙項目だけでなく、文法項目にも意味があると主張する。したがって、先ほどの「ダビデはゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は、意味が違うことになる。本書では他にも、使役構文、プロトタイプ、メトニミーなどに触れながら、認知言語学の広がりが紹介されている。

 生成文法が厳格であるのに対し、認知言語学は柔軟性や拡張性がある。(私の誤解でないことを願いたいのだが、)「私は財布に落ちられました」は、生成文法の観点では正しくないものの、認知言語学では意味が通用する。先日、私は実際に財布を落としたのだが、私の不注意というよりも、財布の方から勝手に転げ落ちたのであり、落ちた財布が悪い、被害者は私の方だと思っている。こういう気持ちを他者と共有したい場合には、「私は財布に落ちられました」という恨めしさを込めた表現の方が適している。この考え方を拡張していくと、当事者間で意味が共有できるのであれば、どんな言語を用いてもよいことになる。

 ただし、これを逆方向に突き詰めていけば、どんな言葉を用いても意味が通じない世界というのも想定できる。冒頭の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」でも書いたような事態である。こうなると、人間にとっては破滅的である。人間は、世界を意味で切り取ることができず、世界から放たれる全ての刺激を背負い込まなければならない。それを負担に感じているうちはまだましで、それを逆手にとって私が世界の全てを抱えているのだと肯定し始めると危険である。私は世界と等しい。同時に、他者にも同じように世界が全て流れ込む。ここに、私=他者=世界という構図が成立する。これは全体主義に他ならない。

 クリプキがヒュームの懐疑主義を導入してこの破滅を回避したように、認知的言語学は、「百科事典的意味論」を用意している。つまり、多くの人があらかじめ合意している意味の集合があると考える。我々の拡張的な言葉遣いは、百科事典的意味論の上に展開される。こう考えれば、破滅的な事態に至らずに済む。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

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