こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

2016年09月


田中義晧『世界の小国―ミニ国家の生き残り戦略』


世界の小国 ミニ国家の生き残り戦略 (講談社選書メチエ)世界の小国 ミニ国家の生き残り戦略 (講談社選書メチエ)
田中義晧

講談社 2007-09-10

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 本書は小国の中でも、とりわけ規模が小さい国、具体的には人口100万人以下の国を取り上げている。そのような「ミニ国家」は、本書が発行された2007年時点で世界193か国中44か国に上る。実に世界のおよそ5分の1がミニ国家である。

 以前の記事「百瀬宏『ヨーロッパ小国の国際政治』」で、大国間の対立に挟まれた小国は一方の国に過度に肩入れせず、「ちゃんぽん戦略」を取るべきだと書いた。ちゃんぽん戦略とは、軍事、政治、経済、文化面などにおいて、対立する大国の双方と交流し、また双方に依存することである。というふうに自分で書いておきながらこんなことを言うのも恥ずかしい話だが、経済、文化面において、対立する大国の双方と交流する方法には貿易や直接投資の呼び込みなどが考えられるものの、軍事、政治面ではどうすればよいのかが不明のままであった。

 本書を読んで、政治面における具体例が少し見えてきた。1つは、大国との外交の結び方である。ミニ国家の中には、その時の国際政治の状況や内政の事情に応じて、外交関係を中国支持から台湾支持(つまり、アメリカ支持)へ、あるいは逆に台湾支持から中国支持へと乗り換えるケースが見られる。大国は、国際社会で影響力を増すために、自国を承認する国の数を増やしたいと考える。一方、ミニ国家としては大国と外交関係を樹立することで経済的な見返りを期待している。ここに、大国とミニ国家が接近する理由がある。

 ただ、私としては、「ちゃんぽん」と言うからには、対立する大国の双方と外交関係を結んでいる例はないものかと考える。本書では、パプアニューギニアやキリバスが中国に加えて台湾と外交を結んだ結果、中国が激怒して台湾との外交が白紙に戻されたり(パプアニューギニア)、中国が断交したりした例(キリバス)が紹介されてる。ただ、キリバスの場合は、中国断交後も、中国人外交官が首都タラワに留まっているとの報道もあるという。個人的には、かつての琉球王国が日本と中国の両方に朝貢していたような例(ブログ本館の記事「相澤理『東大のディープな日本史2』―架空の島・トカラ島の謎」を参照)を探している。

 政治面におけるちゃんぽん戦略のもう1つの例は、国際政治において「1票」の力を有効に使うことである。国際社会の意思決定は、国家の規模に関わらず、1国1票が原則である。よって、相対的にミニ国家が持つ影響力が大きくなる。その影響力を駆使し、自国が味方につく大国を柔軟に変えることで、世界的な問題を大きく左右することができる。例えば、捕鯨問題における国際捕鯨委員会の表決などがそうだ(日本はミニ国家から捕鯨賛成を取りつけるのに必死だった)。

 ただ、これでは対立する大国の一方に肩入れしているだけである。ちゃんぽん戦略と言うからには、もっと別のアプローチが必要となる。つまり、対立する双方の勢力とは異なるポジションを形成することである。温室効果ガスの排出をめぐっては、先進国と途上国(途上国は大国ではないが)が激しく対立している。温室効果ガスの削減義務を負いたくない途上国に対して、ミニ国家は先進国も途上国も削減義務を負うべきだという第3のグループを形成している。ミニ国家の中には、海抜が1.5mしかないツバルのように、地球温暖化が国家の存立を脅かす国も含まれる。こうしたグループは、意思決定のキャスティングボートを握る。

 残りは軍事面におけるちゃんぽん戦略であるが、これについては本書では解らなかった。引き続きの課題としたい。

『小池都知事は「正論」で勝てるか/陛下のお気持ち/改憲勢力3分の2になったのに・・・/人工知能 支配する民、支配される民(『正論』2016年10月号)』


月刊正論 2016年 10月号 [雑誌]月刊正論 2016年 10月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2016-09-01

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 今月号の『正論』は政治的に大きな動きがあまりなかったせいか、他の月に比べると比較的おとなしめの印象であった。8月8日に天皇陛下がビデオメッセージで発せられた「おことば」の全文が掲載されていたので改めて読み返してみたのだが、1か所興味深いところがあった。
 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らもありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。
(太字下線は筆者)
 ブログ本館の記事「北川東子『ハイデガー―存在の謎について考える』―安直な私はハイデガーの存在論に日本的思想との親和性を見出す」などで、「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という日本の階層構造を何度か示した。ただし、天皇はあくまでも象徴であり、実際に下位の階層に対して何かを命じることはないと考えていた。ところが、「おことば」の中では、国民に対して象徴天皇という立場に対する理解を深めよとはっきりとおっしゃっている。
 陛下がビデオメッセージで触れられた「務め」とは天皇としての「機能」の面だが、その大前提には「存在」されること自体の意義がある。徹底した血統原理によって他に代わる者がいない存在として、陛下が天皇の地位に就いておられること自体に尊い意義がある。
(八木秀次「政府も悩む 皇室「パンドラの箱」」)
 八木氏は、天皇は「存在」されること自体に意義があると述べているものの、天皇陛下自身はそれだけでは足りないとお考えであり、国民に対して積極的に役割を求めている。逆に言えば、心身の面でそのような要求が難しくなったことも、天皇陛下が生前退位を検討するようになった一因なのかもしれない。

 象徴天皇の立場に対する理解を深めるとはどういうことか?それには、象徴天皇とは何の象徴なのか?という問いに答えなければならない(憲法学においては、「国民の象徴」ではなく、「国民統合の象徴」であるという点に注目して様々な学説が提唱されているが、法学部出身でありながら憲法に不勉強であった私は、ここでは立ち入らない)。その答えは、「おことば」の中に示されている。
 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。
 象徴天皇とは、祈りの象徴であり、人々(特に弱者)のそばに寄り添う者の象徴である。そのような象徴天皇への国民の理解を深めるとは、国民に対して、天皇の行為が日本国民の精神の象徴であると認識させるとともに、国民もまた他者の幸せを祈り、他者の思いに耳を傾けるべきことを要求していると解釈できる。今回の「おことば」は、単に生前退位だけが課題ではなく、天皇と国民の関係、そして国民のあり方についても今一度熟考を迫るものであったと言えそうだ。

『日本人なら知っておきたい 皇室/巨額買収のカラクリ ソフトバンク3.3兆円の梃子(『週刊ダイヤモンド』2016年9月17日号)』


週刊ダイヤモンド 2016年 9/17 号 [雑誌] (日本人なら知っておきたい 皇室)週刊ダイヤモンド 2016年 9/17 号 [雑誌] (日本人なら知っておきたい 皇室)

ダイヤモンド社 2016-09-12

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 ブログ本館の記事「北川東子『ハイデガー―存在の謎について考える』―安直な私はハイデガーの存在論に日本的思想との親和性を見出す」でも書いたが、日本では大雑把に言うと「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という上下関係、階層社会が成立している。当然のことながら、下の階層は上の階層の命令によって動く。ここで問題になるのは、頂点に君臨する天皇は誰の命令を聞いているのかということである。

 「(神?)⇒天皇」と書いたように、天皇は日本の神の命令を聞いていると考えられる。そのために、天皇は私的行為として神道にのっとった祭祀を行う。では、神は誰の命令を聞いているのだろうか?ブログ本館の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」でも書いたように、八百万の神の世界では、神々の間にも上下関係がある。だから、下位の神は上位の神の命令に従う。ここでさらに踏み込むと、神々の世界の頂点に立つ神は一体誰の命令を聞いているのだろうか?

 西欧の神学論で言えば、万物にはそれを生み出す原因が必ず存在する。その原因を順番にたどると、最後は神に行き着く。ただし、神だけは神を生み出した原因を持たず、自ら有を生んだことになる。よって、神は絶対性・無限性を有すると説明される。その神の絶対性・無限性が人間にも転写され、あちら側のメシアニズムがこちら側のメシアニズムに手繰り寄せられたのが近代の啓蒙主義であり、それが結果的に全体主義、共産主義をもたらした(ブログ本館の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 ブログ本館の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1/2)」等でも書いたが、人間は生まれながらにして絶対であるため、完全なる自由を有する。また、生まれた時点で人間として完成しているわけだから、教育によって人間を育成するという発想は消える(よって、全体主義や共産主義の下では、しばしば知識人・教育者が迫害される)。技術進歩に対しては極めて懐疑的であり(人間の改悪とされる)、人間が生まれながらの能力でできる仕事、すなわち農業が重視される。多くの社会主義国家が農業の振興に注力するのはそのためだ。

 (余談だが、宇宙飛行士が退職後に就く職業の第1位は農家であるという話を聞いた。宇宙の深遠さに触れると、技術革新よりも自然の方が大切であることに気づくらしい。ただし、私は次のように解釈する。宇宙とは神の世界である。神の世界に触れた人間は、神のようになって帰って来る、というわけである)

 さらに、人間の無限性は、人間が1人でありながら人類全体そのものであることを意味する。この関係においては、人間は皆平等であり、あらゆる階層は否定される。加えて、1人の財産は人類全体の財産でもあり、共有財産制が敷かれる。逆に、全体の意思は1人の意思と同一視できるため、民主主義と独裁が両立する。人間の無限性は、時間の流れを否定する。過去や未来を想定することは、時間の始まりや終わりを想定することに等しく、時間が有限であることを前提としているからだ。時間の流れを否定するとは、言い換えれば、現在というこの一瞬が時間軸全体を覆いつくしていることである。だから、全体主義者や共産主義者は歴史を否定する。さらに、革命は”世界同時”でなければならないと説く。

 話を日本に戻そう。日本の神々の頂点に立つ神は誰の命令を聞いているのかという問いであった。ここで、話をぶち壊してしまうようだが、日本の神々には頂点は存在しない。上には上があり、それがどこまでも続くかのように見える。”かのように見える”と書いたのは、本当は頂点があるのかもしれないけれども、神にはその頂点がぼんやりとしていてよく見えないのである。

 西欧人であれば、見えないその頂点を何とか明らかにしようと試みるだろう。しかし、日本人は、頂点の曖昧さをそのまま受け入れる。わざわざ頂点の正体を暴こうとするのは、野暮な行為である。究極の本質はよく解らないが、それでよしとする。だからこそ、日本人は絶対性・無限性に陥ることがない(ただし、天皇を絶対神扱いした昭和の一時期だけは、日本が全体主義に陥ったことをここで思い出す必要がある)。冒頭で紹介したブログ本館の記事中の引用文を再掲する。
 むしろ、ハイデガーは、「投げ込まれたこと」を存在論的な基礎概念として捉えるべきだと言います。自分がいるかぎり、私たちは、自分を「投げ込まれた存在」として受け止めるしかない。「誰が」や「どのようにして」というような「投げ込まれた」ことの根拠を明らかにすることはできない。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
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