こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

2016年12月


加藤尚武『現代倫理学入門』


現代倫理学入門 (講談社学術文庫)現代倫理学入門 (講談社学術文庫)
加藤 尚武

講談社 1997-02-07

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 《参考記事》
 (メモ書き)人間の根源的な価値観に関する整理―『異文化トレーニング』(1)(2)(旧ブログ)
 人間の根源的な価値観とマネジメントの関係をまとめてみた―『異文化トレーニング』(旧ブログ)
 年明けということで、改めて自分の価値観を棚卸ししてみた(旧ブログ)
 私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)(ブログ本館)
 エリン・メイヤー『異文化理解力―相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養』

 私は上記の記事でしばしば「価値観」について取り上げてきた。価値観とは、重要な意思決定の場面において判断の基準となる規範であり、「これだけはどうしても譲れないというルール」である。このルールが個人だけでなく、集団や社会全体に共有されると、それは「倫理」となるだろう。倫理学は、倫理とは何なのかを問うと同時に、なぜそれが倫理と言えるのかを突き詰める学問でもある。

 私が上記の記事で挙げたいくつかの価値観は、私の経験から導かれたものである。つまり、「ア・ポステオリ(認識論上、経験的事実に基づいて定められる概念または原則。後天的)」な原則である。ア・ポステオリな原則は、あくまでもその人本人(もしくはその組織の一部の人間)の固有の経験に基づくものであるため、他の人や組織の他のメンバーとすぐさま共有できるとは限らない。他者をその原則に従わせるためには、あの手この手で説明を加える必要がある。逆に、お互いが一歩も譲らずに価値観が対立することもある。

 倫理学では、「ア・プリオリ(経験によって得られたのでなく、かえって経験が成り立つ基礎になるような概念または原理。先天的)」な原則が成立するのかが問題となる。ア・プリオリな原則は、万人に適用される普遍的なものである。ア・プリオリな原則を数学のように厳格に定義しようとする立場を「厳密主義」と呼ぶ。
 近代の思想家には、「精神世界のニュートン力学」を築き上げたいという夢があった。そして善とか悪とか正義とかの問題に対しても、ユークリッドの幾何学のような厳密な証明をしてみたいと思っていた。この立場は「厳密主義」と呼ばれる。「倫理的な命題もまた厳密に証明できる」という立場である。
 厳密主義の代表としてカントを挙げることができる。カントは「定言命法」という形式を用いて、倫理をア・プリオリに証明しようとした。
 カントによれば、個々の格律について、この定言命法の形にはまるかどうかテストすれば、それが本当の道徳法則かどうかが分かるはずである。たとえば、「私が嘘をつかない」という格律を立てるとする。「あなたも嘘をつかない」、「誰も嘘をつかない」というようにして、「嘘をつかない」を普遍的な法則にしても矛盾が出ない。だから「嘘をつかない」は道徳法則である。(中略)カントは、普遍化できる=矛盾を含まない→道徳法則であるという筋道を考えていた。
 しかし、そのようなア・プリオリな原則が果たして本当に存在するのであろうか?ムーアは、「善は定義できない」とあっさり述べている。
 「善とは何か(What is good?)と訊かれたら、私の答えは善は善だ、それでおしまいだ(My answer is that good is good, and that is the end of the matter.)というものである。善は、どのように定義されるかと訊かれたならば、私の答えは、善は定義できない、これが善について私が言うべきすべてなのである」
 人間は自然状態のままでは自由や財産を守ることができないため、一定のルールを作って国家を建設することにした。ここで言う一定のルールが倫理に該当する。カントは、そのルールがア・プリオリかつ普遍的に定まると主張した。だから、「世界共和国」なる発想が出てくる。しかし、現実の世界では、世界共和国に向けて収斂するどころか、ますます国家の数(特に小国)が増えている。

 これらの新しい国家のルールは、そこに住む人々の伝統や歴史的背景に根差したア・ポステオリなものであろう。国家の数が増えているのは、「自分は他者と違っていたい」という欲求と、「自分は他者と違っていたいという欲求を誰かと共有したい」という矛盾する欲求を我々が持っていることに起因する。この2つの欲求を両立させようとすると、国家は細分化していく。だから、我々が倫理を語る時には、普遍化を目指すのではなく、相互主義の立場に立つべきだと思う。

岩田靖夫『ギリシア哲学入門』


ギリシア哲学入門 (ちくま新書)ギリシア哲学入門 (ちくま新書)
岩田 靖夫

筑摩書房 2011-04-07

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 (1)ソクラテス
 古代ギリシアの宗教は、日本と同じく多神教である。「万物の根源(アルケー)は水である」と主張したタレスは、「万物は神々に満ちている」とも言った。神は超人間的な力を持つ不死の存在であるが、人間とは全く異質の存在というわけでもなく、むしろ人間の本性でもある自然の力を表している。だから、ギリシアには天地万物の創造主は存在しない。神々も人間も、原初の混沌から生まれた生成物であり、それゆえに共通点を持っている。

 こうしたギリシアの伝統的な神の概念を、善の尺度で浄化しようとしたのがソクラテスである。ソクラテスは、「神々が互いに争ったり敵意を抱いたりするというような物語は神々にふさわしくない」などと言い、ギリシアの神々を理性によって整理しようと試みた。しかし一方で、ソクラテスの理性的な活動は、超理性的なもの(デルフォイの神託、オルフィズムの神話など)との格闘でもあった。この点で、理性一辺倒のソフィストとは大きく異なる。ソフィストは、ひたすら合理性のみを尺度にして、宗教、道徳、伝統、慣習、国制を批判し、その破壊的批判を制御する何の超理性的な制約も持たなかった。

 (2)プラトン
 プラトンにとって正義とは、「自分のことをなすこと」である。ここでプラトンは、分業という考え方を導入する。すなわち、一人で全てのことを行うよりも、分業した方が効率的というわけである。ここに、役割分担された国家(ポリス)が誕生する。国家の構成員は、自らがなすべきことに集中することで正義を実現する。

 プラトンは、人々が生活するのに必要な物品を生産する労働者、国家を周囲の外敵から守る防衛者、国家を統治する支配者という3階級からなる国家を想定した。プラトンの国家観は表面的には階級社会であるが、本質的には能力社会である。つまり、労働者に向いている人は労働者に、防衛者に向いている人は防衛者に、支配者に向いている人は支配者になる。

 プラトンの問題点は、哲人王という考え方に現れている。プラトンは、支配者のみが理性に基づく政治を行うことができると主張し、そうした支配者を哲人王と呼んだ。逆に言えば、労働者や防衛者は理性を発揮することができない。それどころか、彼らからは理性が奪われなければならないとまでプラトンは言っている。実際には労働者や防衛者にも理性は存在する。ここにプラトンの限界がある。

 (3)アリストテレス
 アリストテレスは、人間は理性的な動物であると述べている。この点で、理性を支配者に限定したプラトンとは異なる。また、アリストテレスは、人々が等しく支配者であると同時に、被支配者になるとも述べた。支配者=被支配者は、1人よりも2人、2人よりも3人、・・・、n人よりも多数集まった方が、間違った判断を下す可能性が低くなる。これをアリストテレスは「エンドクサ(多くの人の合意)」と呼んだ。現代のデモクラシーにつながる考え方である。

 ところが、アリストテレスはプラトンと同じような誤りを犯してしまう。国家を機能させるには、全員が政治に関与するというわけにはいかない。誰かが農業や商業に携わる必要がある。しかし、農業や商業に従事する人は、自分の仕事で手一杯であり、政治的活動に参加する余裕がない。よって、せっかく理性を持っているにもかかわらず、それを発揮する機会を奪われる。最初にたまたま農業や商業に従事したというただそれだけの理由で、理性への道を断たれてしまう。結局のところ、現実の国家で理性を発揮し、自由で平等なのは、最初から政治に関わった一部の市民のみである。その他の人は、理性を持て余す結果となる。

塩野和夫、今井尚生編『神(ゴッド)と近代日本―キリスト教の受容と変容』


神(ゴッド)と近代日本―キリスト教の受容と変容神(ゴッド)と近代日本―キリスト教の受容と変容
塩野 和夫

九州大学出版会 2005-03

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 日本は海外から様々な技術、制度、文化、風習などを輸入し、自由自在に接合することに長けている、いやそうすることでしか生き長らえることができない国である。私はこれを小国なりの「ちゃんぽん戦略」と呼んでいる。こういう自由度の源泉がどこにあるのかというと、私は「天皇」という存在だと思うのだが、この点についてはまだ十分にロジックを積み上げることができていない。

 本書の副題は「キリスト教の受容と変容」となっているから、近代日本においてキリスト教はどのように摂取され、従来の神道、仏教、儒教にどんな影響を与えたのか、逆に神道、仏教、儒教からどんな影響を受けて日本流のキリスト教に変質したのかという内容を期待していたのだが、やや期待外れであった。

 明治時代になると、日本は西洋国家に倣って国民国家(nation-state)を急造する必要に迫られた。国民の精神を統合する中心として選ばれたのが神道であった。ところが、国家が神道を国民に強要すると、政教分離の原則(これも西洋から輸入された)に反してしまう。そこで、明治政府が考えたのは、「神道は宗教ではない」という、一見すると珍妙な論理であった。

 神道は宗教ではないから、天皇が神の子孫として現人神化し、祭祀をつかさどる存在であっても問題ない。非宗教化された神道の下で、仏教やキリスト教などの信仰の自由(これも西洋から輸入された)を許容するという形式をとった。一見相反する「政教分離」と「祭政一致」を両立させるという、日本流の「二項混合」である(ブログ本館の記事「島薗進『国家神道と日本人』―「祭政一致」と「政教分離」を両立させた国家神道」を参照)。

 こうして、キリスト教は仏教など他の宗教と併存することになったのだが、私が最も知りたかったのは、キリスト教が仏教など他の宗教に及ぼした影響、およびその逆の影響であった。古代において仏教が日本に輸入された時、最初は神道側と激しい軋轢を生んだものの、その後は社会に受け入れられ、「神仏習合」という日本が得意とする「二項混合」を実現した。古事記や日本書紀に書かれている神々は、実は仏であったとして、記紀の書き換えまで行われた。

 ところが、キリスト教に関しては、他の宗教との相互浸透性があったのかどうかよく解らない。本書には、「キリスト教と日本風土の接点―和と間の概念を中心として―」(宮平望)という論文が収められており、日本の「和」と「間」という概念が、実はキリスト教にも存在すると分析し、「三位一体論」は「三間一和論」であるという結論に至っている。しかし、それでも論文の著者は、日本では人と人との間(区別)が人と人との和(一致)によって過度に区別されているのに対し、西洋では人と人との間が人と人との和よりも優勢であるという違いを認めざるを得ない。

 もちろん、神道と仏教はともに多神教的な宗教である一方で、キリスト教は厳格な一神教であるから、神仏習合のような融合が容易には進まないという点は理解できる。しかし、日本が外来種のいいところどりを得意とするのであれば、キリスト教から何かを学んだはずである。それと同時に、神道や仏教などの側からキリスト教に対して変質を迫る場面もあったはずである。私が知りたいのはまさにこのことであり、本書に期待した内容もこの点であった。

 仮にキリスト教と他の宗教との相互影響が十分でないとすれば、日本人はキリスト教をそれほど有益だと見なさなかったということになる。それならば今度は、日本人はキリスト教のどの点をどういう理由で却下したのかを考察しなければならない。新井白石が「子はあくまでも親を天とすべきで、親を飛び越えて子が天と直結したら、その子は、『親と天』という二つの天につながるから、心の内に『二尊』ができる」と説いたこと以上の理由が必要である。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
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