民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)
塩川 伸明

岩波書店 2008-11-20

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 「国民」とはある国家の正統な構成員の総体と定義される。近代社会における国民主権論と民主主義観念の広まりを前提すれば、国民とはその国の政治の基礎的な担い手ということになる。(中略)

 このようなものとして「国民」を考えるとき、1つの国の中にはさまざまな出自・文化的伝統をもつ人々がいるから、「国民」は必ずしもエスニックな同質性をもつとは限らない。この点を重視するなら、「国民」と「民族」「エスニシティ」はまったく違う概念であり、次元を異にすると考えられる。
 民族とは、非常に狭く定義すれば、祖先を同じくする血縁で結ばれた同じ人種ということになるだろう。彼らが共同で生活するうちに、言語、宗教、生活様式といった、非常にプリミティブな部分も共有できるようになり、民族が強化される。

 民族の範囲が広がると、その民族単独では生き残ることが難しくなり、他の民族と交易関係を結ぶようになる。すると、「あの民族とは経済的なルールが共有できそうだ」と思える民族と、そうは思えない民族とに分かれる。前者とは交易関係を強化する反面、後者は交易関係から排除するようになる。

 また、経済的な結びつきが強くなれば、モノや貨幣の流れに乗って、他の民族の文化や情報も流入してくる。ここでも再び、ある民族の文化や情報には共感し、別の民族の文化や情報は敬遠する、ということが起こる。こうして、ある民族は特定の民族と経済・情報・文化面で強いつながりを持つことになる。一言で言えば、「我々は仲間である」という意識が、民族を超えて成立する。

 民族を超えた集団が、自己防衛のために国家を希求する時、その集団はネイション(国民)となる。近代国家は国民国家が前提とされているが、これは国家の範囲とネイションの範囲を一致させることが理想であることを表している。そして、国家とネイションを一致させる運動が、ナショナリズムである。

 国家は国土と結びついているため、ナショナリズムは国境の変更を要請することがある。国境の変更を理論的に類型化すれば、以下のようになるだろう。

 (1)1国の中から特定のネイションが独立する。
 《例》カナダのケベック州独立運動、イギリスのスコットランド独立運動など。

 (2)国境変更が2国以上に及ぶ。
  (2)-1.ある国が、別の国の特定のネイションを吸収する。
  《例》ロシアのクリミア編入など。
  (2)-2.ある国の特定のネイションが、別の国を吸収する。
  (《例》理論的には考えられるが、小が大を飲み込むような国境変更は現実にあるのだろうか?)
  (2)-3.ある国が、別の国を吸収する。
  《例》東西ドイツ統一など。
  (2)-4.ある国の特定のネイションが、別の国の特定のネイションを吸収する。
  《例》イスラム国など。

 問題は、現代において国境の変更手続きに関する国際的なルールが何も確立されていないことである。帝国主義の時代には、戦争によって植民地を獲得し、国境を変更することが可能であった。ところが、20世紀の2つの世界大戦を経て、戦争による領土獲得は違法とされた。しかし、議論はそこで止まってしまっていて、戦争の代わりとなる手段は何なのか?あるいは国境変更はもはや認められないのか?といった点については、今のところ非常に不透明である。

 だから、イスラム国のような過激派組織が生まれてしまう。彼らにとっては、ネイションを国家に結びつける合法的手段がない。そのため、近代的な戦争という手段をとるしかない。だが、彼らの戦争は近代の戦争に比べて全く異質である。近代の戦争は軍隊同士の戦いであり、軍隊が壊滅すれば戦争は終わりであった。民衆は戦争に巻き込まれることはあっても、基本的に戦争とは無関係であった。

 これに対して、イスラム国の場合は、国民全員が民衆であると同時に戦闘員でもある。よって、イスラム国を倒すには、国民全員を倒さなければならない。しかも、世界中に散らばっている全国民を、である。だが、イスラム国との戦いのように、どこからともなく敵が現れて、ずるずると紛争が長期化するのは、アメリカが最も苦手とするパターンである。ベトナム戦争では結局ゲリラを倒せなかったし、イラク戦争も局地的なテロに随分と手を焼いた。

 欧米諸国は現在、フランス同時多発テロに対する報復として、イスラム国の中枢部への空爆を行っている。しかし、軍の中心部を攻撃するというのは近代戦争の発想であり、これではイスラム国を倒せない。