法を通してみたロシア国家法を通してみたロシア国家
渋谷謙次郎

ウェッジ 2015-10-06

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 本書には「ロシアは法治国家なのか」という副題がついている。著者の評価によれば、ロシアは「かろうじて立憲主義」だという。ロシアでは旧ソ連時代も含めて、何度もクーデターや憲法体制の停止が起きたが、93年憲法以降はそのようなことは発生していない。だから、立憲主義は守られている。

 ところで、立憲主義とは、①人権を認めることと、②権力分立によって国家権力に歯止めをかけることの2つが要件である。93年憲法は欧州人権条約の内容を踏まえており、人権についての規定を持つ。ただし、死刑についてはロシアは廃止していない。三権分立は建前上維持されているものの、三権の上に強大な大統領が立っている。これらの点で、ロシアは「かろうじて」立憲主義なのだという。

 ロシアでは、一般的な法治国家とは異なり、法が権力を規制するのではなく、権力が時の政治情勢に合わせて法を作り出す。大統領はしばしば、議会の承認を得ずに大統領令を発布する。ただ、通常の法律の法源(法に拘束力を与える根拠)が国民主権=国民の意思にあるのに対し、大統領令は大統領の権力に法源があると言ってしまえば、ロシアも立派な法治国家なのかもしれない。

 とはいえ、本書によれば、そもそもロシアは法というものをあまり信用していないようである。多くのロシア人は、裁判所に信頼を寄せていない。また、公式の法には理論的限界があると感じている。そうしたロシア人の心情を、小説家ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』などで巧みに表現して見せた。

 ロシアは元共産主義国である。共産主義は、究極的には国家も法も存在しない世界を目指していた。ブログ本館の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」でも書いたが、神も人間も完全/無限とする世界において、神の下での平等を目指す人間がお互いに自由を確保するためには、連帯するのではなく、逆に孤立しなければならない。孤立した人間の間には、法は不要である。人間同士の関係に意味はない。意味があるのは、神と人間の間の関係のみである。

 ただ、この記述はやや正確性を欠いていると反省した。本書によると、キリスト教は本来、反法、反訴訟の宗教だそうだ(そこからどのようにして法の支配という概念が生じたのかについては、別の機会に譲る)。「全てを赦せ」がキリストの教えである。仮に、自由を求める人間が、自由を求めすぎるあまり他人の自由を侵害したとしても、「赦せ」と言うのである。このような世界では、法は意味を持たない。だから、ロシアでは「法ニヒリズム」なる現象が見られるという。

 しかし、ロシアが法ニヒリズムだからと言って、無法状態をよしとしているかというと、必ずしもそうとは言い切れない。共産主義は連帯を掲げながら、実質的には人間が疎外された社会をもたらした。だが、ロシアの歴史を紐解くと、本来的には共同体社会である。人間を放っておいても、ホッブズの言う「自然状態」に陥らないのは、慈悲や相互扶助の精神が息づいているからだと著者は分析する。