日本の人事部・アメリカの人事部―日本企業のコーポレート・ガバナンスと雇用関係日本の人事部・アメリカの人事部―日本企業のコーポレート・ガバナンスと雇用関係
サンフォード・M. ジャコービィ Sanford M. Jacoby

東洋経済新報社 2005-10

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 平均的に見れば、日本企業は相対的に組織志向的であった。つまり、雇用は可能な限り長く維持され、離職率は低かった。広範な教育訓練、平等、年功といった組織内の配慮が、賃金や採用・昇進・異動の決定に大きな影響を与えていた。ステークホルダー型ガバナンスと企業別組合は企業の組織志向性を支えた。これらすべてが日本企業の人事職能の高いステータスと集権的性格を補強する役割を果たしていた。
 アメリカでは、雇用慣行はより市場志向的になる傾向があった。雇用期間はより短く、離職率はより高く、教育訓練投資は少なく、賃金や採用・昇進・異動は市場水準やその他の外部基準に基づいて決まった。コーポレート・ガバナンスは株主を特権的に扱い、組合は産業レベルを志向するか、もしくはより一般的に言えば組合自体が存在しなかった。(中略)人事職能は、日本の人事部のような集権性と影響力を欠いていた。
 本書は日米の人事部の機能・役割を比較した一冊である。分析対象が大企業中心であるため、私のような中小企業診断士にはちょっとフィットしない本であるが、一応私は人事や人材育成を専門とうたっている以上、読んでおくべきだろうと思い通読した。日米の人事部の違いを一言で言えば、引用文にあるように、日本が「組織志向」であるのに対し、アメリカは「市場志向」ということになる。

 組織志向の日本企業の人事部は、社員を競争力の源泉と見なし、長期雇用と中長期的な教育投資を通じて、その企業に固有の能力を習得させる。人事部は全社員の能力を把握しており、自社の戦略に照らし合わせて、彼らをどの役職、部門に配置するべきかを決定する非常に強い権限を持っている。日本の人事部は、競争戦略論で言うところの「資源ベース理論」に基づいて行動する。

 一方、アメリカの人事部は市場志向である。アメリカの場合、人材は労働市場からいつでも自由に調達できるという前提に立っている。戦略がめまぐるしく変化するアメリカ企業の場合、本社の人事部がいちいち採用や配置転換を行っていては間に合わない。そこで、現場の事情を最もよく知るそれぞれの事業部に人事部が置かれ、必要に応じて採用・配置・評価・賃金の決定などを行う裁量を与えている。中には、ラインマネジャーに人事権を与えているところもある。

 アメリカ企業の本社にも人事部はあるが、日本の人事部に比べるとはるかに権限が弱い。全社共通の基礎的な研修を実施したり、経営陣がビジョンや理念を浸透させるのを支援したりする程度である。アメリカの本社で最も力を持っているのは財務部である。CFOはCEOの直属の部下となり、経営チームの一員となっている。これに対して、人事部から経営チームのメンバーを出しているケースは少ない。日本では人事部が経営陣への登竜門となっているのとは対照的である。

 アメリカの財務部は、自社の事業をポートフォリオ管理し、全体の収益を最大化するために、どの事業を売却し、またどの事業を外部から買収するかを決定する。そのため、経営チームの中で強い力を発揮する。この状況で人事部にできることがあるとすれば、売却やM&Aの際に、人材の価値を算定し、適切な売買金額を算定する「ビジネスパートナー」となることである。

 とはいえ、アメリカの人事部も歴史をたどると、色々と変遷があったようだ。経済の落ち込みによって労働不安が高まった時や、政府が労働・雇用に関する規制を強化した時には、本社人事部の権限がむしろ高まった。具体的には、第2次世界大戦前後や1960年代の本社人事部は、日本の「資源ベース理論」と似たような考え方を採用していた。特に1960年代には、いわゆる「人間関係学派」が生まれており、社員を単なるコストではなく資源と見なす傾向が強まった。

 ただ、面白いことに、ほぼ時期を同じくして、企業では多角化が進んだ。多角化が進むと、前述のように財務部が力を持つようになる。本書には明確に書かれていなかったが、1960年代以降は、「資源ベース理論」に基づく人事部と、「ビジネスパートナー」としての人事部が勢力争いを繰り広げていたと推測される。

 しかし、次第に企業が株主重視の姿勢に傾くにつれて、人事部の市場志向が高まった。1980年代には、日本企業の後塵を拝したアメリカ企業が成果主義を採用し始めた。アメリカは、20世紀初頭に「科学的管理法」で知られるフレデリック・テイラーが成果給を提唱した後、特に人間関係学派が中心となり成果給の欠陥を克服しようと努めてきたのに、結局はまた成果給に戻ってしまったわけだ。

 日本では、以前ほど成果主義を支持する声は聞かれなくなったが、アメリカの市場志向に倣うべきだという意見は根強い。だが、アメリカ企業だけに注目するのではなく、アメリカ社会全体に注目しないと、判断を間違える。アメリカでは、企業は経済的ニーズを満たす存在である。企業が生み出す価値は全て金額換算される。しかし、人生の価値は可算的なものばかりではなく、不可算の価値もある。こうした社会的なニーズは、アメリカ企業が苦手とするところである。そこで、企業に代わって、非営利組織が社会的ニーズを充足する。企業と非営利組織が両輪となって、人間のニーズ全般を満たすのがアメリカである。

 これに対して、日本企業は経済的ニーズと同時に、社会的ニーズを満たす存在である。具体的には、自社の社員を一市民としても扱い、福利厚生を充実させて社員=市民の社会的ニーズを満たす。また、アメリカ企業ならば相手にしないような低所得者層や障害者などに対しても、日常生活で必要となる製品・サービスを広く提供する。採算は二の次で、顧客満足度を最優先させる。

 これ以外にも、日本企業は下請・取引先との長期的な協力関係を重視し、共存共栄を図る。また、地域社会の一員として、地域活動にも積極的に参加する。以上が日本企業の特徴である。企業がそこまでやるため、日本では非営利組織がアメリカよりずっと少ない(とはいえ、最近は日本企業の社会的機能が随分と薄れてきた)。この状態で、日本企業がアメリカのように市場志向になると、社会的ニーズを満たす機関が消える。だから、安易なアメリカの模倣は危険である。

 競争戦略論で有名なマイケル・ポーターは、近年CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)というコンセプトを提唱している。企業は経済的価値と同時に社会的価値も創造するべきだというわけである。私は、ポーターの論文を読んだ時、「何を今さら」という感想を持った。なぜならば、日本企業は昔から経済的価値と社会的価値の両立を目指していたからである。