国家と神とマルクス  「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)
佐藤 優

角川グループパブリッシング 2008-11-22

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 それで、情熱の特殊的な関心と普遍的なものの実現とは不可分のものである。というのは、普遍的なものは特殊的な、特定の関心とそれの否定との結果として生ずるものだからである。特殊的なものは、互に闘争して、一方が没落して行くものにほかならない。対立と闘争に巻き込まれ、危険にさらされるのは普遍的理念ではない。普遍的理念は侵されることなく、害われることなく、闘争の背後にちゃんと控えている。そしてこの理性が情熱を勝手に働かせながら、その際に損害を蒙り、痛手を受けるのは〔理性ではなくて〕この情熱によって作り出されるそのものだということを、われわれは理性の狡知(List der Vernunft)と呼ぶ。というのは、それは一面では空しいもの〔否定的〕でありながら、他面では〔それがそのまま〕肯定的であるという現象にほかならないからである。特殊的なものは大抵の場合、普遍に比べると極めて価値の低いものである。だから、個人は犠牲に供され、捨て去られる。つまり、理念はこの生存と無常との貢物を自分で納めることをしないで、個人の情熱に納めさせるのである。
(ヘーゲル『歴史哲学』上巻、『ヘーゲル全集』第10巻a〔岩波書店、1954年〕より)
ヘーゲル全集 (10-〔上巻〕)ヘーゲル全集 (10-〔上巻〕)
ヘーゲル

岩波書店 1954-06

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 孫引きをご容赦いただきたい。ヘーゲルのこの文章を読んで、私は下図のことを思い浮かべていた(図の説明については、ブログ本館の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。

神・人間の完全性・不完全性

 詳細は上記の記事に譲るが、右上の象限、つまり神も人間も絶対であり完全であるとする象限からは、全体主義や社会主義が導かれる(これらは無神論が基本であるが、ブログ本館の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」で書いたように、「あちら側のメシアニズム」が「こちら側のメシアニズム」に手繰り寄せられると、神が介在する余地が生じると考える)。

 フランス革命を手本にしたアメリカは、右上の象限を採用する可能性があった。ところが、実際には右下の象限に移行し、人間の不完全性を認めた。その際に導入したのが「二項対立」の考え方である。二項対立である限り、人間は絶対的な解に到達することがない。ここに、人間の不完全性があると考えるわけである。二項対立の双方の項は、ヘーゲルが言うところの「特殊的なもの」である。だから、「互に闘争して、一方が没落して行くもの」であり、「対立と闘争に巻き込まれ、危険にさらされる」。アメリカはこれでよしとしている。

 ところが、ヘーゲルの言説を見ると、「特殊的なもの」は「普遍的なもの」に劣ると書いてある。「普遍的なもの」は「特殊的なもの」に「侵されることなく、害われることなく、闘争の背後にちゃんと控えて」おり、「特定の関心とそれの否定との結果として生ずる」。つまり、「一面では空しいもの〔否定的〕でありながら、他面では〔それがそのまま〕肯定的であるという現象」のことである。これは完全なる絶対性であり、上図の右上の象限に該当するものであり、全体主義の根源である。

 ここで私は、ドラッカーの次の言葉を思い出さずにはいられない。
 基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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