こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

読書


池田嘉郎『ロシア革命―破局の8か月』―政治的自由は「分離」によって、経済的自由は「統合」によって達成される


ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)
池田 嘉郎

岩波書店 2017-01-21

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 本書は、労働者の蜂起によってロマノフ王朝が倒れ、臨時政府が成立した1917年の2月革命(当時のロシアではロシア暦が用いられていたが、現在の太陽暦では3月にあたるので、3月革命とも言う)から、ペトログラード・ソヴィエト(以下、単に「ソヴィエト」)のレーニンが武装蜂起を促し、臨時政権からソヴィエトへと全権を移行させた10月革命(現在の暦に従えば11月革命)までの8か月間を描写したものである。興味深いのは、左派のソヴィエトではなく、臨時政府の中心的存在であった右派の自由主義者に焦点を当てている点である。

 ただ、自由主義者と言っても、彼らはロシアの全国民の代表ではなかった。当時のロシアは身分、宗教、資産、職業などによって複雑に区切られていたが、巨視的に見れば、社会の上層と下層を分かつ巨大な太い線が走っていた。自由主義者は「公衆」という言葉を用い、政府や官僚団と対峙して、社会改革を目指す自分たちのことを指した。だが、社会の上層部にいる人々という意味では、彼らはエリートであった。これに対して、社会主義者は、労働者、農民、兵士といった、社会の下層に押し込められている「民主勢力」を取り込んでいった。

 臨時政府は、政府という名前がついていながら、立法権と執行権(行政権)を併せ持つ特異な存在であった。強大な権力を持つ臨時政府は、王朝を倒して新しい国家を作ろうとしたのだから、早期に憲法制定会議を招集するべきであったのに、それをしなかった。この点で、革命議会を持っていたフランス革命とは大きく異なる。著者は本書の冒頭で、「なぜ臨時政府は挫折したのか?」という問いを立てているが、これに対してはあとがきで次のように答えている。
 「公衆」とは異質な民衆が、一挙的転換の希望を抱いたまま、「街頭の政治」(※先ほど述べたように、ロシアでは「上層」対「下層」といった具合に、物事を対立構造でとらえる傾向がある。臨時政治からこぼれ落ちた人々、主に「民主勢力」は、街中で臨時政府などを敵視した政治的議論・活動を展開した。これを「街頭の政治」と呼ぶ)へと雪崩れ込んだのである。このとき、民衆を政治制度に組み込むことができないでいた革命前のロシアの歴史的構造が、臨時政府の足元で暗い口を開けていたのであった。そうした歴史的構造は、革命議会の不在、それに臨時政府への権力の集中志向としても、1917年の帰趨に濃い影を落とした。
 とはいえ、臨時政府の自由主義者たちは、いつもエリート層の方ばかりを向いていたわけではない。8月には「モスクワ国家会議」が開かれ、ドゥーマ(※帝政ロシアの議会。2月革命後も存続していた)、ソヴィエト、農民同盟、ゼムストヴォ(※帝政ロシアから続く地方自治機関)、都市自治体、商工業団体、銀行、陸海軍、宗教団体、民族組織、協同組合、労働組合の関係者が参加した。

 9月には「民主主義会議」という、「民主勢力」だけの代表会議を開いた。これは、その直前にソヴィエトのボリシェヴィキが「プロレタリアートと農民の代表からなる権力」を立ち上げたことに対抗する意味合いもあった(この時期のロシアは、臨時政府とソヴィエトという二重権力構造であった)。憲法制定会議の開催に向けてようやく重い腰を上げた臨時政府は、10月に「予備会議」を開いた。「公衆」側は156人、「民主勢力」側は367人と、後者の方が優勢であった。

 問題は、いずれの会議も臨時政府の諮問機関として位置づけられ、立法権は持たず、臨時政府はこれらの会議に対して一切の責任を持たないとされたことであった。臨時政府にとっては、2月革命によって全権すなわち立法権と執行権を引き継いだのは自分たちであり、明確な根拠や正統性もないままに立法権をこれらの会議に渡すことはクーデターに等しかった。そうこうしているうちに、臨時政府は台頭するボリシェヴィキを押さえることができなくなり、レーニンが指揮する10月革命によって、その全権をソヴィエトの政府「人民委員会議」に委譲した。人民委員会議は「ソヴィエト大会」に対して責任を負うものとされた。

 ここで、政治的自由が成立する要件を自分なりに考えてみたいと思う。政治学的には、政治的自由は「権力への自由」と「権力からの自由」から構成され、権力への自由は参政権として、権力からの自由は言論・出版・結社などの自由として現れると説明される。だが、個人的にはあまり納得のいく説明ではない。参政権は、国民が選挙を通じて政治に参加することを意味するが、この時点で、主権者(国民)と立法者(議員)の分離を前提としている。

 政治的自由とは、端的に言えば国民が国家の命運を決定する自由である。ここで、非常に逆説的ではあるが、主権者(国民)と立法者(議員)を分離させることが、主権者の政治的自由を確保する第一要件であると考える。両者の分離を政治的自由の前提として当たり前のように受け入れるのではなく、政治的自由を実現するための厳格な一要件として明確に認識しなければならない。

 国家の命運を決めるのは大仕事である。一方で、国民には「命運に従って国民として生きる」というもう1つの大仕事がある。もし、全ての国民が国家の命運を決めるという大仕事にかかりっきりになると、もう1つの「生きる」という仕事が置き去りにされる。すると、国民の生活はじり貧になり、やがては政治を行う国民そのものが衰退する。全国民が政治を行えば、かえって政治の死を招いてしまうのである。よって、主権者と立法者を分離し、立法者に政治を委ねることで、政治に専念する立法者の裁量的な活動を通じ、主権者は政治的自由を獲得する。

 第二の要件は、立法府における民主主義である。立法者は主権者の政治的自由を代表している。だが、自由は往々にして衝突する。これは必ずしも、主権者の求める自由が利己的であるために生じるとは限らない。公の利益を思い利他的に行っていることが衝突することもある。例えば、ダム建設は安定的な電力供給によって広く経済発展に寄与する。一方で、ダム建設反対派は美しい自然を守ろうとする。経済発展も国土の保全も公の利益にかなうことであり、単純に金銭的にどちらが優れているかを決定することはできない。

 こうした自由を調整する仕組みとして、民主主義が要請される。とりわけ、仮に国民が直接政治を行う形態が採用されていたら政治の場に居合わせることが難しかったであろうマイノリティや社会的弱者の政治的自由を反映させなければならない。さらに、国家が将来も存続・繁栄することを目指すのであれば、まだ存在していない将来世代の政治的自由を汲み取る想像力も必要になる。民主主義は多数決原理とイコールではない。最終的に多数決によって決定するとしても、その多数決が重要なのではなく、そこに至るまでの過程において、多様な政治的自由をきめ細かく擦り合わせることの方に意義がある。

 第三の要件は、立法と行政を分離させることである。換言すれば、企画と実行を分離させることである。多様な政治的自由を多大な労力によって調整した結果でき上がった企画は、いざ実行しようとする段階になって改めて客観的に見てみると、色々な穴が見つかる可能性がある。あるいは企画が理想論すぎて、現実社会への適用が難しい点があるかもしれない。こうした問題を1つずつ埋めながら、立法府の企画を国家に定着させるのが行政府の役割である。

 普通に考えると、立法と執行を分離しない方が実行力が高まりそうなものである。仮に執行の段階で立法の誤りが判明しても、立法と執行が一体なのだから、素早く修正すればよいはずである。しかし、立法と執行の両方の権限を持っていながら、憲法制定会議すらいつまでも開くことができず、ついにはソヴィエトによって乗っ取られてしまった臨時政府のことを忘れてはならない。

 第四の要件は、行政が責任を取ることである。立法者は主権者を代表しているのに対し、行政府の人間は主権者を代表していない。よって、行政府の行為が、主権者の政治的自由を侵害してしまう可能性もある。だから、アメリカの大統領制では、大統領が国民に対して直接責任を負っている。議院内閣制においては、行政を代表する内閣が議会に対して責任を負う。これにより、行政は議員を選出した国民に対して、遠回りではあるが責任を負うという形になる。

 興味深いことに、政治的自由は「分離」を繰り返すことによって達成されるのに対し、経済的自由は「統合」によって特徴づけられる。経済的自由とは、働く人が成果を追求する自由である。この自由を本格的に体系化したのがピーター・ドラッカーであり、「マネジメント」と名づけられた。マネジメントが体系化される以前のアメリカ企業では、計画を立てて指揮命令を下す管理職層と、命令に従って働く労働者層が分断されていた。だが、ドラッカーは、計画と実行を統合した。今後増加が見込まれる知識労働者は、自ら計画を策定し、自ら実行し、自らその成果を検証し、成果に対して説明責任を負うべきだと説いた。今年注目を集めた「ティール組織」では、その傾向がさらに加速している。知識労働者だけでなく、一般労働者も皆、経営者のように考え、働くことが推奨されている。

 《ブログ本館の記事》
 フレデリック・ラルー『ティール組織―マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』―ティール組織をめぐる5つの論点(1)(2)

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現
フレデリック・ラルー 嘉村賢州

英治出版 2018-01-24

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 なぜ政治的自由は「分離」によって、経済的自由は「統合」によって特徴づけられるのかという問題は非常に興味深い。この点をよく理解しない人、特に企業経営でちょっと成功した人は、政治の世界も企業経営と同じだと信じて政治家に転身するが、私はもう少しよく考えた方がよいのではないかと感じてしまう。

 政治はあらゆる利害を調整する必要があり、さらに国民を誰1人として殺してはならないのに対し、経済的自由はそれが自由市場経済と結びついている限り、類似の利害・価値観を持った集団を構成する人々に与えられるものであって、自由競争の結果ある集団が消滅し、集団を構成する人々が行き場を失っても、むしろそれは歓迎すべきこととされる点が関係していると思われる。ただ、この点と政治的自由の「分離」の原則、経済的自由の「統合」の原則を結びつけて説明する力は、残念ながら今の私にはない。今後の課題である。

佐々木卓也『冷戦―アメリカの民主主義的生活様式を守る戦い』―レーガンとトランプという行動が全く読めない2人の大統領の共通性


冷戦 -- アメリカの民主主義的生活様式を守る戦い (有斐閣Insight) 冷戦 -- アメリカの民主主義的生活様式を守る戦い (有斐閣Insight)
佐々木 卓也

有斐閣 2011-11-14

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 冷戦はアメリカの「生活様式」をかけた戦いだったという。冷戦とは、端的に言えば自由主義と全体主義の戦いである。トルーマンは、自由主義的な生活様式とは、「多数の意志に基づき、自由な諸制度、代議政体、自由選挙、個人の自由の保障、言論・信仰の自由、政治的抑圧からの自由」によって特徴づけられる一方、全体主義的な生活様式は「多数者に対して強制される少数者の意志に基づく。それは恐怖と圧制、出版と放送の統制、形だけの選挙、そして個人の自由の抑圧に依存している」と述べた。

 ここでは、生活様式=政治となっている点が興味深い。以前の記事「丸山俊一『欲望の民主主義―分断を越える哲学』―民主主義の実現のために国民は政治に直接参加した方がよいのか?」で、アメリカ人は間接民主主義を採用しているが、心のどこかで政治に直接参加することを望んでいるようだと書いた。また、全体主義は、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」で書いたように、個人が全体に等しく、民主主義が独裁と両立するため、個人が全体であり、全体が政治であるという関係が成立する。個人は政治に参加するというよりも、個人が政治そのものとなる。政治と距離を置きたがる日本人には、なかなか理解が難しい点である。

 ピーター・ドラッカーは著書『産業人の未来』の中で、第2次世界大戦は、自由を全体主義から守る戦いだと述べた。だとすると、共産主義によって全体主義化していた当時のソ連が連合国側に立っているのはおかしな話になる。4年ほど前に、ブログ本館の記事「高橋史朗『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』―戦後の日本人に「自由」を教えるため米ソは共謀した」という記事を書いたが、考えが浅かったと反省している。

ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 民主主義も全体主義も、啓蒙主義にルーツを持つ自由を内包している。全体主義においては、全ての人間が絶対的な理性を等しく有しているから、完全に自由に振る舞うことができる。その振る舞いは皆同じであるため、自由が衝突することがない。だが、概念上はそうであっても、実際に完全に自由に振る舞えるのは独裁者だけであり、独裁者の自由な意思が全てとされる社会では、人々の現実的な多様性は圧殺される。よって、全体主義は、理念的には自由を掲げながら、現実には大多数の自由を犠牲にするという矛盾を露呈する。

 他方、民主主義の場合は完全な理性を前提としない。理性には欠陥がある。それゆえ、ある人が自由に振る舞うと、別の人の自由を害する恐れがある。そうした利害を調整するためのメカニズムとして民主主義が採用されている。ソ連の自由とアメリカの自由は中身がまるで違うから、両国が日本に自由を教えるために結託したなどというのはちゃんちゃらおかしな話である。

 本書によると、アメリカがソ連と一緒に戦っているのは「偶然の一致」(ジョージ・ケナン)だったそうだ。何ともあっさりとした理由である。トルーマンは大統領になる前の1941年に、「我々としてはドイツが勝っているようであればソ連を助け、ソ連が勝っているようであればドイツを助けるべきである。そうすることでドイツとソ連ができるだけ多く殺し合うことになるであろう。ただし私はいかなる状況であれ、ヒトラー・ドイツの勝利を望まない」と、品性に欠く発言をしたそうだ。つまり、共産主義のソ連もナチスのドイツも恐るべき全体主義であるが、ドイツの方がより脅威であるから、ソ連は味方にしておこうというわけである。

 だが、1917年にレーニンが共産主義的な国際秩序を提唱した時、ウィルソンはこれに対抗する形で自由主義的な国際秩序を提唱している(後の国際連盟につながった)。ということは、1917年の時点で、既にアメリカはソ連の共産主義を警戒していたのであり、なぜそれ以降約20年にわたってその脅威に対処しなかったのかという疑問は生じる。また、共産主義という明確なイデオロギーを持つソ連よりも、1930年代に突然表舞台に登場し、アーリア人至上主義と徹底的なユダヤ人排斥以外にこれといった思想を持たないナチス・ドイツの方を恐れた理由が何であったのかもはっきりしない。今後も考察を続けたい論点である。

 さて、ブログ本館では度々、大国は二項対立的な発想をすると書いてきた。米ソ関係が最も解りやすいため、米ソ関係で説明する。矛盾するようだが、大国は自国の存続のために敵国を必要とする。アメリカは別の大国ソ連を敵として設定する。これが第一段階の二項対立である。ただ、大国も一枚岩で敵国に向かうわけではなく、国内は分裂する。これが第二段階の二項対立である。アメリカ国内は反ソ派と親ソ派に分かれる。同様に、ソ連国内は反米派と親米派に分かれる。アメリカで反ソ派が、ソ連で反米派が主流になる時、両国の緊張は最大となる。ただし、お互いに戦意が高まりすぎており、本当に武力衝突が起きると破滅的な結果が予想されるから、実はこのパターンでは戦争に発展しにくい。

 一方、政権交代などによってアメリカで親ソ派が、ソ連で親米派が台頭すると、対話ムードが生まれ、軍縮へと向かいやすい。戦争リスクが高まるのは、アメリカで親ソ派が、ソ連で反米派が主流になるといった具合に、均衡が崩れる時である。アメリカはソ連と融和したいが、ソ連はアメリカと戦いたくて仕方がない。ソ連からの圧力を受けたアメリカでは、非主流派である反ソ派の声がだんだんと大きくなり、主流派の親ソ派を戦争へと傾かせる。親ソ派はやむなくソ連と戦火を交えるものの、根が親ソであるからソ連に勝つ気はなく、ソ連の前に屈する。アメリカで反ソ派が、ソ連で親米派が主流になった時には、逆の現象が起きる。

 本書を読むと、

 ・第2次世界大戦ではソ連と一緒に戦いながら、内心では反ソであったフランクリン・ルーズベルト
 ・口先ではソ連を全体主義と批判しつつも、限定的な封じ込め作戦にとどまると同時に、中国をソ連に渡した点でソ連寄りであったトルーマン
 ・軍事費削減とソフト・パワーによる外交を掲げてソ連寄りであったアイゼンハワー(ただし、軍事費は減ったが核兵器は増えた)
 ・キューバ危機を経験し、反ソであったケネディ
 ・ソ連との外交樹立(1933年)以来アメリカがソ連と締結した協定数を上回る協定を在任期間中に締結しソ連寄りであったジョンソン
 ・デタント(雪解け)の象徴でソ連寄りであったニクソン
 ・逆に、反デタントを掲げ、反ソであったジャクソン
 ・ヘルシンキ宣言(1975年)という、一見するとソ連の外交の勝利に見える取り決めを結びながら、実は東欧で人権問題を監視するグループを発足させて、後の東欧諸国の共産体制崩壊を招く一因を作るなど、反ソであったフォード
 ・最初はデタントの再活性化に取り組んだが、ソ連のアフガニスタン侵攻を受けて軍事的封じ込めを復活させ、反ソであったカーター

と、アメリカでは政権交代を機に、ソ連に対する態度が変化している。本書は冷戦をアメリカ側から考察したものであるため、ソ連側の視点が少ないのだが、アメリカの政権交代と連動して、ソ連国内でどんな動きがあったのか分析してみたいものだ(ソ連のトップは共産党書記長であるが、アメリカの大統領よりもはるかに任期が長い。特定の書記長の態度が任期途中で変化することは、後に述べるゴルバチョフを除いてほとんどないと思われ、アメリカの政権交代を契機に、反米派と親米派のどちらかが書記長の近くで主流派の椅子を固めることにより、ソ連全体としての態度を形成していたという仮説を持っている)。

 アメリカ大統領で注目すべきは、カーターの次のレーガンである。彼はソ連を激しく批判し、NATOにINF(中距離弾道ミサイル)を配備させるなど、かなりの反ソであった。ところが、ヨーロッパでINF配備に対する強い反対運動が起き、国内でも核凍結運動が広がると、いわゆるレーガノミクスで経済が好調だったにもかかわらず、軍事費の増大により財政赤字が拡大している点を問題視するようになった。また、1983年のNATOの大規模軍事演習がソ連に相当な心理的ダメージを与えたこともあって、ソ連に対する態度を一転させ、ソ連に接近し始めた。

 当時のソ連の書記長はゴルバチョフであった。ペレストロイカ、グラスノスチを掲げて改革路線を進めたゴルバチョフであるが、最初は反米であり、アメリカの軍拡に対抗して軍事費を増やし続けていた。しかしながら、国内経済が不振を極め、アフガニスタン支援の見直しなど軍事費削減の必要に迫られるようになると、アメリカに対する態度を一転させ、アメリカに接近し始めた。そして、核実験の停止を提案し、核保有国の核兵器廃棄を求めた。両国の外交は、INF条約の締結(1987年)という形で具体的な成果に結びついた。

 レーガンの後に大統領となったブッシュ(父)は反ソであり、冷戦終結の前提としてポーランドとハンガリーの自由化・民主化、すなわち共産党体制からの脱却を挙げた。また、ブッシュの時代にはオーストリアの国境開放が実現し、東ドイツ国民が大量に流出した。これがベルリンの壁の崩壊(1989年)につながり、事実上冷戦は終結した。ヨーロッパにおける一連の動きに対して、ゴルバチョフはもはやソ連軍を送らなかった。アメリカは反ソ派(ブッシュ)が、ソ連は親米派(ゴルバチョフ)が主流となり、均衡が崩れて戦争リスクが高まったわけだが、冷戦は文字通り戦火を交えない戦争であったから、アメリカがソ連を押し切って、ベルリンの壁の崩壊という非軍事的要因をもって戦争を終結させたと言える。

 実は、冷戦の終結時期については、世界で見ても統一的な見解がない。通常の戦争と異なり、終戦宣言もなければ当事国間の条約もないからだ。本書の著者は、ベルリンの壁の崩壊とそれに続く東西ドイツ統一によって冷戦が終結したという立場である。ソ連崩壊は冷戦終結とは直接関係のない事象だとしている。しかし、そもそも冷戦とは冒頭で述べたように自由主義と全体主義の戦いであるから、どちらかを完全に打ち砕いたという事実をもって終結とするべきではないかという気がする。この点が非常に曖昧であるから、現在、中国というもう1つのモンスター共産主義国家の台頭を許してしまっているように思える。

 平成という時代が来年4月末で終わることから、「平成とはどういう時代であったか?」という問いがしばしば投げかけられる。「平成」という区切りは日本国内の事情によるものであるから、世界情勢と結びつけるのは不適切だろうと思いながら敢えてこの問いに答えるならば、「平成とは、冷戦が終わったと思っていたのに、実は終わっていなかった時代」と位置づける。

 その中国に対し、20世紀に熱心にアプローチしたのがニクソンとキッシンジャーである。一般に、フルシチョフによる毛沢東批判に端を発する中ソ対立につけ込んで、中国をアメリカの味方にすることで、ソ連を封じ込めるのが目的だったと言われる。しかし、本書によれば、ニクソンは米ソデタントに非常に熱心であった。ニクソンが中国との関係を改善させると、ソ連はまるで中国をアメリカに取られたことに嫉妬したかのようにアメリカに接近し、米ソ関係も改善した。

 個人的には、このデタントを仕掛けたのは、親ソ派ではなく、実は反ソ派であったのではないかと考える。デタントは東西交流の活性化を目指していたが、特にアメリカからソ連に対して、文化、芸術、思想、技術などを伝達することを目的としていた。ソ連は閉鎖的な国家であったため、自国の文化などを輸出することができなかったのに対し、アメリカは自由主義国家であるから、それを行うのは容易であった(旧ブログの記事「旧ソ連の共産主義が敗れたのは大衆文化を輸出しなかったせい?―『ソフト・パワー』(1)(2)」を参照)。アメリカの自由な文化や思想に触れたソ連の国民は、自国の政治体制に不信感を抱くようになり、体制を転覆させる―これが反ソ派の狙いであった。

 反ソ派は、デタントによって長期的にはソ連が崩壊すると読んでいた。だが、そうすると大国アメリカの敵がいなくなってしまう。そこで、ソ連と同じ共産主義国家である中国に目をつけ、中国を大国に育て上げて、将来の敵国にしようと目論んだ。そんな反ソ派の思惑を知らない親ソ派は、反ソ派の口車に乗せられて米ソデタントに走った。その勢いで、親ソ派は親中派となり、中国を積極的に支援するようになった。当時の中国は共産主義国とはいえ、経済的にも軍事的にもひ弱であった。親中派は、過去にアメリカが第三世界に介入して親米政権を樹立させたのと同様に、中国を親米国家に転換するつもりだった。

 半世紀近く前の中国は軟弱であり、反米派と親米派が未分離であった。誰が反米で、誰が親米か解らない、そもそも反米―親米という区分があるのかさえ解らなかったため、アメリカの親中派は手当たり次第に中国人を支援した。その結果、中国はあれよあれよと大国の地位まで上り詰めた。そして、大国の流儀に倣って、国内に反米派対親米派という二項対立を確立した。支援した中国人から多くの反米派が生まれるのを見て、『China 2049』を著したマイケル・ピルズベリーのような親中派は「騙された」と思った。一方、反ソ派は反中派に転じて、当初の狙い通り、大国となった中国の反米派と対峙することになった。

 だが、アメリカの親中派と中国の親米派は、意外と国内で力を持っているように思える。ピルズベリーが中国の「100年戦略」をすっぱ抜いても、アメリカの民間シンクタンク「プロジェクト2049研究所」が中国による台湾侵攻や尖閣諸島奪取の時期をリークしても、中国側は彼らを潰そうとしない。仮に中国の反米派が強ければ、どんな手段を使ってでも彼らを消し去るだろう(ブログ本館の記事「『世界』2018年10月号『安全神話、ふたたび/沖縄 持続する意志』―辺野古基地が米中のプロレスで対中戦略から外れたら沖縄は「他国の紛争に加担しない権利」を主張してよい」を参照)。そして、中国の本当の戦略を特定されないように、高度な情報戦を仕掛けるはずだ。中国がそうした情報戦にあまり積極的でないところを見ると、反米派は思ったほどの力を持っていない可能性がある。

 現在、米中では熾烈な貿易戦争が繰り広げられている。トランプがレーガンに憧れていることは有名だ。レーガンは元々俳優で政治経験がなく、就任当初は知性がないと散々非難されていた。ところが、実際には素晴らしい政治手腕を発揮し、前述のように冷戦終結への道筋をつけるという偉業を成し遂げた。レーガンは、大国の指導者としては珍しく、自分自身を二項対立させ、一方の項から他方の項へと、具体的には反ソからソ連寄りへと途中で態度を転換させた。

 トランプも実業家上がりで政治に疎く、レーガン以上に粗野である。仮にトランプがレーガンを見習うならば、レーガノミクスを真似たトランポノミクスの実現だけでなく、レーガン流の転向を見せるかもしれない。反中から突然中国寄りへと態度を変える可能性である。ここで、中国の習近平が反米を貫けば戦争のリスクが高まり、中国が勝利する確率も上がる。しかし、国内の親米派が一定の力を持っていることから、習近平はゴルバチョフのように、反米からアメリカ寄りへと態度を改める可能性の方が高い。お互いに歩み寄った米中が、ともに日本と協調するのか、逆に日本のはしごを外すのかはよく注視しておかなければならない。

『一橋ビジネスレビュー』2018年AUT.66巻2号『EVの未来』―EV&自動運転は本当に顧客のニーズに応えているのか?


『一橋ビジネスレビュー』2018年AUT.66巻2号一橋ビジネスレビュー 2018年AUT.66巻2号: EVの将来
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2018-09-14

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 ブログ本館の記事「『一橋ビジネスレビュー』2018年AUT.66巻2号『EVの未来』―トヨタに搾り取られるかもしれないパナソニックの未来」では書ききれなかったことを別館で書きたいと思う。

 EVは不思議な技術革新である。通常、技術革新は急速に進行し、古い技術は一瞬のうちに新しい技術に取って代わられるのだが、EVをめぐる技術革新は非常にゆっくりとしている。『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2017年6月号の論文「『正しいタイミング』が価値創造の成否を分ける 技術戦略はエコシステムで見極める」(ロン・アドナー 、ラフル・カプール)は、「新規技術のエコシステムの課題の大小」と「既存技術のエコシステムの事業機会の大小」という2軸でマトリクスを作成し、将来的な変化のパターンを整理している。

ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 06 月号 [雑誌] (ビジネスエコシステム 協働と競争の戦略)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 06 月号 [雑誌] (ビジネスエコシステム 協働と競争の戦略)

ダイヤモンド社 2017-05-10

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 新規技術のエコシステムの課題が小さく(=新規技術を包摂する新しいビジネスエコシステムが完成しており)、既存技術のエコシステムの事業機会には拡大の余地がないのが普通であり、この場合は新規技術が一気に既存技術を駆逐する。だが、EVに関しては、まだまだ新規技術のエコシステムの課題が大きい(EV自体の技術に課題がある上、充電スポットをどのように整備するかといった社会的課題もある)。一方で、世界的には自動車市場は順調に成長している。そのため、既存技術のエコシステムに事業拡大の余地がある。ここで言う既存技術とはエンジン車のことであるが、厳密に言えばエンジン車は各国で規制の対象となっているため、実際に拡大しているのはハイブリッドカーなどである。こういう状況では、技術の交代は極めて緩やかになると著者は教えてくれる。

 EVが不思議な技術革新であるもう1つの理由は、自動運転という別の技術革新が同時に進行しているからである。同じ製品・サービスに関して、複数の技術革新が同時並行で起きている事例は、私は他に思いつかない。個人的には、EVと自動運転の相互作用、すなわち、EVが自動運転の価値を、また自動運転がEVの価値をどのように高めるかに関心がある。また、EVが自動運転の技術を制約する場合、逆に自動運転がEVの技術を制約する場合、その制約を取り払うために両方の技術の間でいかなる調整がなされるのかも興味深い。

 ここで1つ問題になるのが、EVや自動運転という技術革新が、本当に顧客のニーズを満たすのかという点である。延岡健太郎、松岡完「自動車の顧客価値」という論文はこの点を掘り下げている。まず、自動車には商品起点の価値として「走る喜び」、ユーザー起点の価値として「使う楽しみ」、商品&ユーザー起点の価値として「持つときめき」という3つの大きな価値があるとする。一方、現在進行している技術革新は、EV、自動運転、さらにカーシェアリングである。その上で、3つの技術革新が3つの顧客価値に与える影響を考察している。

 まず、EVは、加速性能やレスポンスのよさ、モーターのスムーズさや静粛性、回生ブレーキなどを特徴とし、新たな「走る喜び」を提供する。一方で、精緻な機械と高効率な燃費から生まれるエンジンサウンドや、ダイナミックなトルク特性を操るといった、エンジン車特有の楽しみはない。よって、EVは「走る喜び」に対して(+)と(-)の両方の影響を及ぼす。「使う楽しみ」に関しては、航続距離と充電時間を考えると、電池を多く消費する暖房が冬場に使えない可能性がある。また、皆でレジャーを楽しむ時に、充電の心配はしたくないものである。したがって、「使う楽しみ」に対して(-)の影響を及ぼす。

 次に、自動運転は、ユーザーから運転するという行為を奪うから、「走る喜び」に対して明らかに(-)である。一方で、「使う楽しみ」を重視するユーザーにとっては、自動車の走りよりも空間としての自動車が重要であるから、自動運転に対する期待は大きいだろう。例えば、家族での自動車を使ったレジャーにおいても、ドライバーも運転に集中する必要がなく、車内で一緒に楽しむことができる。したがって、自動運転は「使う楽しみ」に対して(+)の影響を及ぼす。

 最後にカーシェアリングである。論文の著者が行った調査によると、多くのユーザーは自動車に機能性・合理性を超えた価値を見出しており、「持つときめき」の重要性が高まっているという。カーシェアリングはこの傾向に逆行するものであり、「持つときめき」に対して(-)の影響を及ぼす。

 こうして見てみると、3つの大きな技術革新は、必ずしも顧客ニーズと合致していないことになる。もっとも、論文という紙面の制約上、顧客ニーズをたったの3つに集約している点(一口に「走る喜び」や「使う楽しみ」と言っても、その意味するところは顧客によって千差万別である)や、カーシェアリングを望む顧客が一定数存在するのは確かであり、ニッチ戦略として展開できる可能性が無視されてしまっている点など、色々と問題は多い。ただ、顧客ニーズが技術に先行しなければならないという、経営の基本を改めて認識させられる。

 ここまで私は、「イノベーション」という言葉を使わずに、「技術革新」と書いてきた。昔に比べると最近はこの両者が混同されることは少なくなったと思う。「イノベーション(技術革新)」といった誤った表記は見かけなくなった。イノベーションは、マーケティングと対比される概念である。マーケティングが単純に既存市場のシェアを奪い合うことであるとするならば、イノベーションは、①新しい市場を創造すること、②既存市場の構造を破壊し、競争のルールを転換して、既存企業から一気に顧客を”強奪”すること、である。多くのイノベーションは技術革新を伴うが、それは必須条件ではない。クレイトン・クリステンセンが発見した破壊的イノベーションでは、高度な技術ではなく、むしろ単純化・小型化を実現する技術が多く見られる。定義上は、技術革新を全く伴わないイノベーションもあり得る。

 ①はさらに、①-1.非顧客に着目し、非顧客を顧客として取り込む工夫を製品・サービスに施すことで市場を拡大すること、①-2.全くの新しい市場をゼロから創出すること、に分けられる。また、②はさらに、②-1.ある顧客価値を提供するビジネスエコシステムの中身を抜本的に刷新すること、②-2.ある顧客価値を提供する既存の製品・サービスに対して、別の手段でその顧客価値を実現する製品・サービスを投入すること、に分けられる。ブログ本館の記事「【戦略的思考】事業機会の抽出方法(「アンゾフの成長ベクトル」を拡張して)」で書いた7つの戦略と対応させると、①-1が「新市場開拓戦略」、①-2が「完全なるイノベーション戦略」、②-1と②-2が「代替品開発戦略」に該当する。

 また、ブログ本館の記事「『一橋ビジネスレビュー』2018年SPR.65巻4号『次世代産業としての航空機産業』―「製品・サービスの4分類」修正版(ただし、まだ仮説に穴あり)」で用いたマトリクス図について、私は今まで、左上の<象限③>がイノベーションの世界であり、下段の<象限①><象限②>がマーケティングの世界であると簡単に切り分けることが多かった。しかし、この図はもう少し丁寧に説明しなければならないと思うようになった。

 まず、<象限③>でもマーケティングは必要である。ただし、<象限③>はイノベーションのタイプ①-2と相性がよく、アメリカ企業が強いことはこれまで何度か述べてきた通りである。さらに、①-2に関しては、ニーズのないところにニーズを生み出すわけだから、例外的に技術が顧客ニーズに先行する。

 一方、<象限①><象限②>でもイノベーションは起きる。特に、①-1、②-1、②-2のタイプのイノベーションが発生しやすい。私が<象限③>のイノベーションに関して、「顧客がまだ存在せず、市場調査ができないから、イノベーター自身が自らを最初の顧客に見立て、自分が心の底からほしいと思う製品・サービスを形にする」などと書いたことから、イノベーターは市場や顧客の声を聞かなくてもよいのだという誤ったメッセージを送ってしまったかもしれない。

 だが、②-1、②-2のタイプのイノベーション、つまり「代替品開発戦略」では、既存市場の構造や競争ルールひっくり返して、既存企業からごっそり顧客を奪うことを狙っているから、市場の声によく耳を傾けなければならない。①-1のタイプは非顧客を対象とするものであるが、非顧客は将来的な潜在顧客であると考えれば、これもまた広い意味で、顧客の声に耳を傾けることが要請されていると言える。EVは非連続的な技術革新により、産業・市場構造を抜本的に変化させる点で②-1に該当し、自動運転は運転免許を持っていない人をターゲット顧客に含めることが可能になる点で①-1に該当する。よって、自動車メーカーは市場や顧客の声を丁寧に拾い上げ、技術と擦り合わせをしなければならない。
 寺師(※トヨタ取締役副社長):電動車の使い方は多様です。街中であれば、それほど高速で長く走らないので電池もそれほど要りません。少ない電池量でそれほど航続距離も長くない小型EVで間に合います。あるいは、山間部の過疎地では、軽トラックや軽自動車を電動車にして、一晩家で充電して、翌日に20~30km走れれば十分だというご老人の足代わりをするといったことも可能です。

 どこでも使えるEVというよりは、各地域に合ったEV規格が出てきて、それに長い距離を走る場合に備えてレンジエクステンダーをつけておく。これはPHVだから駄目だ、エンジンがないからEVだと、ようかんを切るがごとく、明確に分け方を議論することには意味がないのです。
(寺師茂樹、米倉誠一郎、延岡健太郎、藤本隆宏「利用シーンに適した電動車で多様なモビリティサービスを展開する」)
 取締役副社長がここまでおっしゃるトヨタが、どこまで本気を出して、市場や顧客に密着したイノベーションを起こせるか、注目してみたいと思う。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

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