ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか:質を高めるメカニズムドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか:質を高めるメカニズム
高松 平藏

学芸出版社 2016-08-28

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 ブログ本館でしばしば、日本の多重階層構造を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という形でラフにスケッチしてきたが、「行政府⇒市場/社会」の部分、すなわち、行政府が市場や社会に対して何かしらを命じるとはどういうことかと疑問に思われた方もいらっしゃるだろう。自由主義に従えば、行政府による介入は必要最低限に抑えるべきだというのが一般的である。しかし私は、行政府が法律や規制を通じて、市場や社会に積極的に関与していくのが日本の理想ではないかと考えている。

 具体的には、行政府が「日本人としてどう生きるべきか?」を示し、市場や社会に対して、その生き方を実現するための製品やサービスを効果的に配分する、別の角度から言えば、人々がそのような製品・サービスを欲するように要求する。これらの製品・サービスは、①衣食住など健康的な生活を送るのに十分な量・質であること、②精神面、文化面を豊かにするものであること、③倫理観、道徳観にかなったものであること、④限られた地球資源を有効に活用するものであること、という4つの条件を満たす必要がある。個人の欲望に任せて資源を浪費するのではなく、日本国、日本人として見た場合に最適な資源分配を実現すべく、行政府が市場や社会に干渉する。この点で、一般的な自由主義とは異なる。

 ドイツでは、「社会的市場経済」というシステムが戦後から構築されており、日本の理想の一歩先を行っているような気がした。
 まず経済について、戦後ドイツは「社会的市場経済」という体制をとる。後に首相となるルートヴィヒ・エアハルトが連邦政府の経済大臣時代(1949~1963年)に推進し、社会が経済システムをコントロールし、富の再分配と社会的公正を実現しようというものだ。需要と供給に任せておけばよいという自由市場経済とは一線を画す。富の再分配に関連させていえば、貧困対策、年金・失業保険などの社会保障といった分野も入ってくる。そして、そういった分野に関するシステム、法律、組織、取り組みといったものが「社会的」という概念と重ねられる。
 冒頭のラフなスケッチでは十分に表現されていないのだが、日本の多重階層社会にはもう1つ重要な特徴がある。それは、階層が下に行けば行くほど、多様性が増していくということである。多様性が増すということは、それだけ分権化も進むことになる。日本は明治維新と第2次世界大戦後に中央集権的な国家運営で急激な成長を遂げたため、中央集権制の方が親和性が高いように思われている。しかし、中央集権制は、開国後と戦後という国難の時期における臨時の手法である。現代でも中央集権制を引きずっているのは、アメリカのトップダウン型のリーダーシップの影響であると考える。本来は、江戸時代の幕藩体制のように、分権制の方が日本は上手く回るはずだというのが私の仮説である。

 ドイツは多数の連邦(それ自体が1つの国と言ってもよい)をかき集めて1つの国家にまとめ上げたという歴史的背景があるため、現在でも各連邦の権限が非常に強い。日本のように中央官庁が作成した政策を地方自治体が裏書きしてそのまま実行するということはない。ドイツの州や市は、中央からの指示に対して(時には中央の指示を待たずに)、地元の事情を踏まえた独自の案を構想する。こうした動きは、まちづくりやクラスター形成の場面で如実に表れる。
 日本でも2000年代に産業クラスター政策が全国で推進された。ただ日本の場合、各クラスターの範囲が地理的に広く、さらに政府によってつくられたという傾向がなきにしもあらずだ。それに対して、エアランゲン市では自らのまちのポテンシャルを見極め、経済戦略として打ち立てた。
 現在、日本では地方創生という題目を掲げて全国各地に魅力ある地域を構築することを目指している。ここはドイツに倣うと同時に、本来日本人の中に眠っているはずの分権制を呼び覚ますことが重要ではないかと考える。

 ブログ本館の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」でも書いたが、日本社会では、各プレイヤーが多重階層構造の一角に閉じ込められるのではなく、垂直方向には「下剋上」と「下問」、水平方向には「コラボレーション」を通じて移動する自由がある。この点で私は日本社会を自由主義的であると言う。

 企業を例に取ると、単に顧客のニーズに応えるだけでなく、顧客に対して「もっとこうした方が(中長期的に見て)生活の質が上がるのではないか?」と(時に顧客のニーズに反する厳しいことを)提案する「下剋上」、さらに顧客(市場)の上に位置する行政府に対して、「もっとこういう法律や規制にした方が、市場や社会の効果が上がるのではないか?」と提案する「下剋上」がある。一方、下の階層に関しては、企業に知識労働者を供給する学校に対して、「学校がもっと高い成果を上げるために、企業としてどんな支援ができるか?」と問う「下問」、企業に毎日社員を送り込む家庭に対して、「家庭生活がもっと上手くいくようにするために、企業としてどんな支援ができるか?」と問う「下問」がある。

 水平方向の「コラボレーション」は、自社の強み、組織能力、アイデンティティ、価値観に対する理解を深めるため、異質との出会いを通じて学習を重ねることを狙いとしている。コラボレーションの相手は競合他社かもしれないし、異業種のプレイヤーかもしれない。あるいは、社会的ニーズを満たすNPOかもしれない。NPOとの協業を通じて社会的価値を創造し、それを経済的価値と両立させる、つまり企業としても一定の業績を上げることができれば、マイケル・ポーターの言うCSV(Creating Shared Value)を実現したことになる。私は、日本企業にはこうしたコラボレーションを実施する素地が十分に備わっていると思っている。

 本書によると、ドイツ企業は地元に密着しており、地元の「フェライン(NPOに該当する)」と緊密な連携を取っているという。フェラインは地域の福祉のために仕事をしたり、地域で行われる様々なイベントの担い手になったりしている。ドイツ企業はフェラインに対する資金的援助を惜しまない。ただ、CSVの観点から言えば、単に企業が非営利組織に資金を供給するだけでは十分とは言いがたい。企業と非営利組織の活動を統合して、経済的価値と社会的価値の両方を創出することが、ドイツ企業にとっての課題であると言えそうだ。