複雑適応系リーダーシップ―変革モデルとケース分析複雑適応系リーダーシップ―変革モデルとケース分析
河合 忠彦

有斐閣 1999-05

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 先日の記事「河合忠彦『戦略的組織革新―シャープ・ソニー・松下電器の比較』―3社のその後の命運を分けた要因に関する一考察」の続き。本書は続編にあたるのだが、複雑系の理論を強引に取り入れたせいで、かえって論理展開がカオス(複雑系におけるカオス〔決定論的カオス〕の意味ではなく、文字通りのカオス)になってしまった印象である。

 前回の記事では、市場が構造的不確実性に直面している場合にはトップによる「包括的戦略」が、競争的不確実性に直面している場合にはミドルによる「創発的戦略」が有効であると書いた。本書ではこの点が拡張されている。私なりに本書の内容を簡単にまとめたものが下図である。

複雑系適応リーダーシップ

 まず、イノベーションにおいては、市場を一から創造する、あるいは既存市場の構造を抜本的に破壊するため、構造的不確実性に直面する。この場合、トップによる包括的戦略が出発点となる。イノベーションにおいては、まだ市場が存在しない、または顧客ニーズの変化が予測できないことから、客観的な市場調査は不可能である。代わりに、トップが内なる声に耳を傾けたり、市場で観察される限定的な事実を個人的な価値観に従って解釈し、潜在顧客の潜在ニーズを先取りしたりして、画期的な新製品・サービスを考案する(本書では、「会社代表として」ではなく、「一構成主体として」戦略を構想するという表現が使われている)。簡単に言えば、主観的な情報を中心にイノベーション戦略を組み立てる。

 前書はここまでであったが、本書ではこれにミドルによる戦略が加わる。ミドルは、トップの包括的戦略を唯々諾々と受け止めるだけでなく、ミドルなりの内なる声や価値観に基づいて創発的戦略を形成する。創発的戦略は、包括的戦略の不足を補い、また抽象的な包括的戦略を具体化する役割を担う。こうして、全社一丸となってイノベーションが実行される。

 一方、マーケティングとは、既存市場のパイを奪い合う行為である。市場は成熟しており、競合他社が多数存在する。よって、競争的不確実性に直面する。この場合、イノベーションの場合とは逆に、ミドルによる創発的戦略が出発点となる。市場の成熟段階では、事業構造やビジネスモデルがある程度確立され、トップからミドルへと権限移譲が進む。ミドルは日常業務の中で個別の顧客や競合他社と対峙しており、具体的な市場ニーズや競合他社情報を客観的に収集することができる。ミドルはこの情報を中心としてマーケティング戦略を構築する。

 ただし、マーケティング戦略は創発的戦略だけで終わるわけではない。その創発的戦略をトップが吸い上げ、大局的な視点から事業環境を眺め、マーケティング戦略を洗練する。これが包括的戦略である。これによって、イノベーションの場合と同様に、全社一丸となった戦略展開が可能となる。

 もちろん、イノベーションにおいては包括的戦略から創発的戦略へ、マーケティングにおいては創発的戦略から包括的戦略へと単に直線的に進むわけではない。包括的戦略と創発的戦略は相互に作用しながら、戦略の質を高めていく。ここで言いたいのは、イノベーションにおいては包括的戦略が、マーケティングにおいては創発的戦略が出発点になることが多いということである。

 本書は私にとって解らないことだらけである。マーケティングにおいて創発的戦略と包括的戦略が上手くかみ合った例としては、前書でアサヒビールが挙げられていた。一方、イノベーションにおいて包括的戦略と創発的戦略がかみ合った例としては、本書でNECが挙げられているが、前述の整理とは逆に、創発的戦略が包括的戦略に先行している。NECでは90年代に一部のミドルがNTサーバの導入を試みた。NTサーバとはIBM互換機であり、互換性のない自社規格サーバばかりか、長いことNECのドル箱であったPC-98を否定する代替品であった。NTサーバを導入すれば、サーバのビジネスモデルが完全に変化するという意味で、NTサーバはイノベーションであった。

 ミドルからの提案を受けたトップは、NTサーバと自社規格製品との共存戦略を案出した。NTサーバ、SV-98、ワークステーションなどのプラットフォームを共通化し、パソコンの世界標準部材を使ってコストダウンを図り、既存製品の採算性を向上するとともに、NTサーバ市場を開拓してシェアトップを狙うというものであった。トップは共通化加速資金として10億円を投資した。これにより創発的戦略と包括的戦略が、単なる妥協に終わらず、より優れたイノベーションとして結実した。だが、イノベーションにおいて創発的戦略が包括的戦略に先行する(例を代表として挙げている)ならば、日本企業のトップは戦略の形成において能動的な働きをほとんどしていないことになってしまうのではないかと感じる。

 本書ではソニーが80年代にワークステーション事業に参入した事例も紹介されている。当時ワークステーションはほとんど普及しておらず、その意味でイノベーションであった。このイノベーションを主導したのも、やはり一部のミドルの創発的戦略である。ソニーの場合は、トップが「コンピュータなんて海のものとも山のものとも解らない」と述べており、包括的戦略の構築を事実上放棄している。こうなると、いよいよ日本企業のトップの役割は一体何なのかと思えてくる。

 一応、日本企業のトップが包括的戦略を掲げたという例も掲載されている。日産の川本信彦社長は、オデッセイを投入するにあたって、販売台数80万台という主観的な目標を設定し、同時に目標達成のために、クリエイティブ・ムーバー・シリーズ4車種を連続して投入して、進行しつつあるRVへの需要のシフトを加速させると表明した。だが、これは戦略というよりも単なる販売計画である。

 90年代にIBMを復活させたルイス・ガースナーは、自身が前職でIBMのシステムを使っていた時の不満や、IT業界のトレンドの変化に関する個人的な読みに基づいて、ハードウェアの箱売りからトータルソリューションビジネスへの転換を決意した。これは、顧客のニーズを先読みした具体的なサービスコンセプトであった。そして、自社以外の製品・サービスを取り揃え、開発・販売部隊を再構築し、社員に新しい価値観、ビジネスモデル、仕事のやり方を教え、業績評価制度もがらりと変えた。元来、戦略とはこういう具体性を持ったものではないだろうか?

 本書では、複雑系の理論から「ゆらぎ」の概念を借用しているが、これもまた非常に解りにくい。複雑系におけるゆらぎとは、初期状態のわずかな違いが結果的に大きな差となって現れることを意味する。「バタフライ効果」が有名である。本書では、まず、包括的戦略と創発的戦略の間でゆらぎがあると説明される。別の言い方をすれば、既に見てきたように、両戦略の間で相互作用があることを表す。だが、複雑系におけるゆらぎとは、ある環境の下で包括的戦略と創発的戦略のどちらを選択するかによって、結果(企業の業績)に大きな差が生じるという意味であると思う。両方の戦略の間を行ったり来たりするというのは、企業経営の実態としては正しいものの、複雑系のゆらぎを誤解しているように感じる。

 また、戦略の形成においては、「分析的か非分析的か?」、「適応的かプロアクティブか?」、「会社代表としてか一構成主体としてか?」との間でゆらぎが生じるという。「分析的&適応的&会社代表として」という組み合わせは客観性が高く、マーケティング戦略と親和性がある。逆に、「非分析的&プロアクティブ&一構成主体として」という組み合わせは主観性が高く、イノベーション戦略と親和性がある。ただし、マーケティング戦略だからと言って完全に客観的だとは限らず、ゆらぎが生じて主観性が顔を出すことがある。だから、前掲の図では「客観的情報『中心』」と書いた。同じことはイノベーション戦略にもあてはまる。

 ここでも、「分析的か非分析的か?」、「適応的かプロアクティブか?」、「会社代表としてか一構成主体としてか?」という2択の間で揺れ動くことは、現実の戦略としては大いにあり得ることだが、複雑系のゆらぎの概念にはそぐわないと思う。例えば、ある環境の下で、トップが会社代表として振る舞うか、一構成主体として振る舞うかによって、結果(企業の業績)に大きな差が生じるというのが、複雑系のゆらぎに従った解釈であるはずである。

 最後にもう1点。本書は、創発的戦略の担い手として、一部のミドルにしか注目していない点が問題である。本書が新聞・雑誌の記事に大きく依拠していることによる限界と言える。新聞・雑誌は、目立つミドルしか取り上げないからだ。

 複雑系の理論には「自己組織化」という考え方がある。これは、ニュートン以来の機械論的な組織観とは全く異なる。機械論的な組織においては、組織の要素は各コンポーネントに完全に分解される。組織自体は機械であり意思を持たないから、組織=機械を動かすにはトップによる強い命令が必要となる。これに対して、自己組織化における組織は、コンポーネントに還元不可能な「関係」を重視する。組織を取り巻く環境が変化すると、環境からのインプットを基に、局所的な変化が関係を通じて組織システムに伝播し、さらにその変化が相互作用を伴って、結果的に組織全体が意思を持つように自律的に変化する。

 本書も、創発的戦略に着目するのであれば、一部のミドルの局所的な戦略的変化が他のミドルや現場社員にどのように影響を及ぼし、加えて彼らが他のミドルや現場社員からどんなフィードバックを受けて、結果的に組織全体としてどのような変化が実現されたのかを掘り下げるべきであった。