現代倫理学入門 (講談社学術文庫)現代倫理学入門 (講談社学術文庫)
加藤 尚武

講談社 1997-02-07

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 《参考記事》
 (メモ書き)人間の根源的な価値観に関する整理―『異文化トレーニング』(1)(2)(旧ブログ)
 人間の根源的な価値観とマネジメントの関係をまとめてみた―『異文化トレーニング』(旧ブログ)
 年明けということで、改めて自分の価値観を棚卸ししてみた(旧ブログ)
 私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)(ブログ本館)
 エリン・メイヤー『異文化理解力―相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養』

 私は上記の記事でしばしば「価値観」について取り上げてきた。価値観とは、重要な意思決定の場面において判断の基準となる規範であり、「これだけはどうしても譲れないというルール」である。このルールが個人だけでなく、集団や社会全体に共有されると、それは「倫理」となるだろう。倫理学は、倫理とは何なのかを問うと同時に、なぜそれが倫理と言えるのかを突き詰める学問でもある。

 私が上記の記事で挙げたいくつかの価値観は、私の経験から導かれたものである。つまり、「ア・ポステオリ(認識論上、経験的事実に基づいて定められる概念または原則。後天的)」な原則である。ア・ポステオリな原則は、あくまでもその人本人(もしくはその組織の一部の人間)の固有の経験に基づくものであるため、他の人や組織の他のメンバーとすぐさま共有できるとは限らない。他者をその原則に従わせるためには、あの手この手で説明を加える必要がある。逆に、お互いが一歩も譲らずに価値観が対立することもある。

 倫理学では、「ア・プリオリ(経験によって得られたのでなく、かえって経験が成り立つ基礎になるような概念または原理。先天的)」な原則が成立するのかが問題となる。ア・プリオリな原則は、万人に適用される普遍的なものである。ア・プリオリな原則を数学のように厳格に定義しようとする立場を「厳密主義」と呼ぶ。
 近代の思想家には、「精神世界のニュートン力学」を築き上げたいという夢があった。そして善とか悪とか正義とかの問題に対しても、ユークリッドの幾何学のような厳密な証明をしてみたいと思っていた。この立場は「厳密主義」と呼ばれる。「倫理的な命題もまた厳密に証明できる」という立場である。
 厳密主義の代表としてカントを挙げることができる。カントは「定言命法」という形式を用いて、倫理をア・プリオリに証明しようとした。
 カントによれば、個々の格律について、この定言命法の形にはまるかどうかテストすれば、それが本当の道徳法則かどうかが分かるはずである。たとえば、「私が嘘をつかない」という格律を立てるとする。「あなたも嘘をつかない」、「誰も嘘をつかない」というようにして、「嘘をつかない」を普遍的な法則にしても矛盾が出ない。だから「嘘をつかない」は道徳法則である。(中略)カントは、普遍化できる=矛盾を含まない→道徳法則であるという筋道を考えていた。
 しかし、そのようなア・プリオリな原則が果たして本当に存在するのであろうか?ムーアは、「善は定義できない」とあっさり述べている。
 「善とは何か(What is good?)と訊かれたら、私の答えは善は善だ、それでおしまいだ(My answer is that good is good, and that is the end of the matter.)というものである。善は、どのように定義されるかと訊かれたならば、私の答えは、善は定義できない、これが善について私が言うべきすべてなのである」
 人間は自然状態のままでは自由や財産を守ることができないため、一定のルールを作って国家を建設することにした。ここで言う一定のルールが倫理に該当する。カントは、そのルールがア・プリオリかつ普遍的に定まると主張した。だから、「世界共和国」なる発想が出てくる。しかし、現実の世界では、世界共和国に向けて収斂するどころか、ますます国家の数(特に小国)が増えている。

 これらの新しい国家のルールは、そこに住む人々の伝統や歴史的背景に根差したア・ポステオリなものであろう。国家の数が増えているのは、「自分は他者と違っていたい」という欲求と、「自分は他者と違っていたいという欲求を誰かと共有したい」という矛盾する欲求を我々が持っていることに起因する。この2つの欲求を両立させようとすると、国家は細分化していく。だから、我々が倫理を語る時には、普遍化を目指すのではなく、相互主義の立場に立つべきだと思う。