異文化コミュニケーション・ワークブック異文化コミュニケーション・ワークブック
八代 京子 樋口 容視子 コミサロフ 喜美 荒木 晶子 山本 志都

三修社 2001-09-01

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 相手を完全に理解するということは、「相手は完全に理解できるはずの存在である」という前提のもとに成立することであり、それはすなわち「相手が自分と同じである」という信念を持つことにほかなりません。他者との関わりを完全な理解をもとに実現しようとしている人のアプローチを奥村は2つ挙げています。

 1つめは、自分が持っている類型で相手を判断して理解し、よくわからない部分はそれ以上見ずに存在しないことにして、「わかるところとだけつきあう」という方法。2つめは、理解する努力を重ねても相手のことがわからないのであれば、一緒にいることができないから「わからないところとつきあわない」方法。前者は「差別」の現象に近く、後者は「別れ」であり、時に「暴力」の形態をとることもあるだろうと述べられています。
 「自分は他者と同じ」という考えが、「人間は神に似せて創られた(神と人間は契約を結んだ)」という考えと結びつくと、あらゆる人間は神と同じく万能な理性を有し、その理性は他者とも共通するという究極の平等社会になる。そして、それがファシズムにつながることは、ブログ本館の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」でも書いた。ファシズムでは、同質の人間を共同体に強く引き込む一方、異質の人間は神との契約がない人間として、暴力的に排除する。

 『新約聖書』には「己の欲する所を人に施せ」、『論語』には「己の欲せざるところ人に施す勿れ」という有名な一説がある。自分がしてほしいことを他人にもせよ、あるいは自分がしてほしくないことは他人にもするな、という考えは、いずれも自分と他者が同じ考えの持ち主であるという前提がある。私は今まで、『新約聖書』も『論語』の教えも素晴らしいものと盲目的に信じていたのだが、この教えが行きすぎると全体主義に帰着することに気づかされた。確かに、ヨーロッパではドイツやイタリアがファシズムに陥ったし、現在の中国共産党も全体主義的である。

 ナチス・ドイツはアーリア人の優位性を主張し、アーリア人の間では共産主義的な民主主義を目指した(民主主義と言っても、アーリア人は皆同じ理性を持つはずだから、ヒトラーの意思=ドイツ国民の意思であり、民主主義と独裁は両立する)。一方で、アーリア人以外、とりわけユダヤ人は人間扱いせず、暴力的に抹殺した。中国では、中国共産党と同じ考えを持つ者だけが人間と見なされ、反対派や異端児は社会から消される。中国共産党は日本のファシズムに勝利して中国を建国したのに、今や自分が全体主義的な存在となっている。

 本書によれば、異文化理解で重要なのは、相手を完全に理解しようとしないことだという。完全に理解できないことを認めつつも、それでもなお一緒にいることを目指すべきである。ここで重要なのは、「シンパシー(sympathy: feeling with)」ではなく「エンパシー(empathy: feeling (in)side)」である。
 シンパシーは自分の過去の体験や価値観と照らしあわせて相手の体験がどんなものなのか、自分の物の見方の範囲内で想像することになります。(中略)エンパシーは内側で感じるという表現の通り、相手の物の見方を共有し、相手の物の見方で現実を再構成することで「相手の体験に知的かつ情動的に参加」します。