社会学の名著30 (ちくま新書)社会学の名著30 (ちくま新書)
竹内 洋

筑摩書房 2008-04

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 『社会学の名著30』というタイトルがついているが、社会学というのは基本的に社会現象を取り上げれば何でもOKという学問であり、研究対象が非常に幅広い。よって、「この研究だけは押さえておきたい」というコンセンサスを形成するのが難しいようだ。Amazonのレビューを見ても、「○○という本/社会学者が紹介されていないのはおかしい」という意見があるし、知り合いの研究者に聞いても似たような声が返ってくる。そう言われてみると確かに、竹内洋氏が個人的に思い入れのある研究者を取り上げているように見える箇所もある。

 私がブログを始めてちょうど10年になるが、最初の7~8年は経営・マネジメントを中心に比較的オーソドックスな内容を書いてきた。ただ、それは悪く言えば教科書的であり、個性のない文章が大半であったとも言える。ようやく自分らしさが出せるようになったと思うのはここ2~3年のことだ。今まで追い求めてきたアメリカ的な経営に対して、日本的経営とは何かを少しずつ提示できるようになった。例えば、次のようなことである

 (a)トップは社員に対して明確な経営ビジョンを示さなければならない。
 ⇔日本企業には、必ずしも明確な経営ビジョンは必要ないのではないか?
 (「果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)(補足)」を参照)

 (b)意思決定のスピードアップを図るために、組織をフラット化する必要がある。
 ⇔日本の組織は、階層が多い方がむしろ安定するのではないか?
 (「相澤理『東大のディープな日本史』―権力の多重構造がシステムを安定化させる不思議(1)(2)」、「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」、「渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ」を参照)

 (c)((b)とも関連するが)組織内の権力を減らせば減らすほど減らすほど(トップから現場に権限を委譲するほど)、現場の社員は自由に振る舞える。
 ⇔日本人は、上からの権力を受けることによって、かえって自由になるのではないか?自由とは権力からの自由ではなく、権力の中での自由ではないか?
 (「加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―「全体主義」と「民主主義」の間の「権威主義」ももっと評価すべきではないか?」、「山本七平『危機の日本人』―「日本は課題先進国になる」は幻想だと思う、他」を参照)

 (d)ピーター・ドラッカーがGEのジャック・ウェルチに「市場シェアが1位か2位以外の事業からは撤退すべきだ」と助言したように、市場では常にトップを目指さなければならない。トップ以外には意味がない。そして、トップになるためには、競合他社を直接攻撃することもいとわない。
 ⇔市場には多様な企業による多様な製品・サービスがあってしかるべきではないか?また、競合他社は攻撃の対象ではなく、ともに研鑽し市場を拡大するための運命共同体ではないか?
 (「日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考」、「新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』―競合他社を法律で排除した商店街は、競争力を鍛える機会を自ら潰した」、「山本七平『「孫子」の読み方』―日本企業は競争戦略で競合を倒すより、競合との共存を目指すべきでは?」を参照)

 これらのことは、一般的な考え方=アメリカ的な考え方とはあまりに異なるため、本当に正しいかどうか自分でも懐疑的になることがある。しかし、社会学というのは、一見おかしいと思うことであっても、よくよく論理を詰めていくと、実は正しいと言えるようなことを発見するのが仕事である。ピーター・バーガーの『社会学への招待』がそのことを教えてくれた。
 公式的見解や表明の背後にある構造が見通され、「ものごとはみかけどおりではない」として現実感が一変する知的興奮である、という。社会学は遠い国の奇妙な習俗を発見する文化人類学のような、まったく見知らぬものに出会う時の興奮ではない。