ギリシア哲学入門 (ちくま新書)ギリシア哲学入門 (ちくま新書)
岩田 靖夫

筑摩書房 2011-04-07

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 (1)ソクラテス
 古代ギリシアの宗教は、日本と同じく多神教である。「万物の根源(アルケー)は水である」と主張したタレスは、「万物は神々に満ちている」とも言った。神は超人間的な力を持つ不死の存在であるが、人間とは全く異質の存在というわけでもなく、むしろ人間の本性でもある自然の力を表している。だから、ギリシアには天地万物の創造主は存在しない。神々も人間も、原初の混沌から生まれた生成物であり、それゆえに共通点を持っている。

 こうしたギリシアの伝統的な神の概念を、善の尺度で浄化しようとしたのがソクラテスである。ソクラテスは、「神々が互いに争ったり敵意を抱いたりするというような物語は神々にふさわしくない」などと言い、ギリシアの神々を理性によって整理しようと試みた。しかし一方で、ソクラテスの理性的な活動は、超理性的なもの(デルフォイの神託、オルフィズムの神話など)との格闘でもあった。この点で、理性一辺倒のソフィストとは大きく異なる。ソフィストは、ひたすら合理性のみを尺度にして、宗教、道徳、伝統、慣習、国制を批判し、その破壊的批判を制御する何の超理性的な制約も持たなかった。

 (2)プラトン
 プラトンにとって正義とは、「自分のことをなすこと」である。ここでプラトンは、分業という考え方を導入する。すなわち、一人で全てのことを行うよりも、分業した方が効率的というわけである。ここに、役割分担された国家(ポリス)が誕生する。国家の構成員は、自らがなすべきことに集中することで正義を実現する。

 プラトンは、人々が生活するのに必要な物品を生産する労働者、国家を周囲の外敵から守る防衛者、国家を統治する支配者という3階級からなる国家を想定した。プラトンの国家観は表面的には階級社会であるが、本質的には能力社会である。つまり、労働者に向いている人は労働者に、防衛者に向いている人は防衛者に、支配者に向いている人は支配者になる。

 プラトンの問題点は、哲人王という考え方に現れている。プラトンは、支配者のみが理性に基づく政治を行うことができると主張し、そうした支配者を哲人王と呼んだ。逆に言えば、労働者や防衛者は理性を発揮することができない。それどころか、彼らからは理性が奪われなければならないとまでプラトンは言っている。実際には労働者や防衛者にも理性は存在する。ここにプラトンの限界がある。

 (3)アリストテレス
 アリストテレスは、人間は理性的な動物であると述べている。この点で、理性を支配者に限定したプラトンとは異なる。また、アリストテレスは、人々が等しく支配者であると同時に、被支配者になるとも述べた。支配者=被支配者は、1人よりも2人、2人よりも3人、・・・、n人よりも多数集まった方が、間違った判断を下す可能性が低くなる。これをアリストテレスは「エンドクサ(多くの人の合意)」と呼んだ。現代のデモクラシーにつながる考え方である。

 ところが、アリストテレスはプラトンと同じような誤りを犯してしまう。国家を機能させるには、全員が政治に関与するというわけにはいかない。誰かが農業や商業に携わる必要がある。しかし、農業や商業に従事する人は、自分の仕事で手一杯であり、政治的活動に参加する余裕がない。よって、せっかく理性を持っているにもかかわらず、それを発揮する機会を奪われる。最初にたまたま農業や商業に従事したというただそれだけの理由で、理性への道を断たれてしまう。結局のところ、現実の国家で理性を発揮し、自由で平等なのは、最初から政治に関わった一部の市民のみである。その他の人は、理性を持て余す結果となる。