世界十五大哲学 (PHP文庫)世界十五大哲学 (PHP文庫)
大井 正 寺沢 恒信

PHP研究所 2014-02-05

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 作家の佐藤優氏が本書のことを激賞していたが、確かに非常に解りやすい哲学の入門書である。特に、唯物論に関しては理解がしやすい。ブログ本館では、「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで、政治哲学についての知識が乏しいまま、全体主義などについて好き放題書いてきた。本書を読んでみると、私の全体主義についての理解は、ヘーゲル左派に近いのではないかと感じた。

 私の全体主義観を改めて簡単に整理すると、以下のようになる。

 ・唯一絶対の神が世界を創造した。
 ・世界には神の設計図が完璧に反映されており、合理的である。
 ・人間は神に似せて創造され、神の性質を継承している(以上、理神論)。
 ・人間は生まれた時点で完全であり、現在という一点において永遠である(過去や未来は存在せず、時間の流れもない)。
 ・神が無限であるのと同様に、人間も物質的には無限である。
 ・どの人間も神と等しく、自己と他者の区別はない。別の言い方をすれば、一(個人)は全体(神)に等しい。
 ・よって、所有権については、私有であると同時に共有であり、政治については、民主主義と独裁が両立する。
 ・人間は神と同じく絶対的であるから、絶対的に自由である。つまり、その自由を制約する法は存在しない。
 ・ところで、現実の人間は、生まれた時の能力が未熟である。しかし、全体主義においてはその能力を完成形と見る。人間が教育を受けずともできることとは、農業である。これと前述の共有財産が相まって、農業共産制が生まれる。
 ・また、現実の人間は死ぬ。全体主義においては、生まれた時点で能力が完成していると見るから、下手に教育を施すことは害である。教育を受けるぐらいなら、完成した能力を持ったまま早く死んだ方がよい。全体主義には現在しか存在しないため、死んだ人間の精神は再び現在に舞い戻って、新たな生として噴出する。こうして、人間は農業共産制を基礎とする革命を永遠に続ける。

 やや長くなるが、本書からヘーゲル左派に関する記述を引用する。
 すなわち、1つは、ヘーゲル哲学から神学的な衣裳をひきはがして、現実を唯物論的にとらえなおす方法である。ヘーゲルでは、現実は、本質としての神が、その創造した世界としての存在(existentia)と合一しているところのものとして神秘的に説明されてあが、この説明はいまや神秘の衣をはがれて、現象(existentia)のなかにその本質をさぐることにより、現実をそのいきたすがたで把握しようとする科学的な方法に変質させられる。

 そうすることによって、ヘーゲルの「現実的なものはすべて合理的である」という命題は、現象的に現実とみえているものがかならずしも真に現実的であるのではなく、日々に合理性をうしないつつあるものは、一見いかに現実的に強大にみえようとも、じつは日々に現実性をうしなってゆきつつあるものであって、反対に、いまは一見いかに力よわく非現実的にみえようとも、真に合理的であるものは、かならず勝利し、現実となる、という革命的な命題に転化させられる。現実は、神とか絶対的精神とかいうようなフィルターをとおすことなしに、そのもの自身にその具体的な諸条件において、とらえられる。―これは、シュトラウスやフォイエルバッハら「ヘーゲル左派」(青年ヘーゲル派)をつうじてマルクス、エンゲルスにいたる方向であった。
 上記のように、私なりに全体主義のことを何とか理解してきたが、実際には上記の内容では説明できないことがたくさんある。一部を挙げると次のようになる。これらの問いに答えていくことが、今後の私の課題である。

 ・実際の全体主義国家は、資本主義国家と同様に、いや資本主義国家以上の熱意を持って、科学的な発展を追求していた。ドイツのヒトラーや旧ソ連を見れば明らかである。人間が科学的に発展するということは、人間の能力が最初は制限されており、かつそれが時間の流れとともに向上することを前提としている。科学的発展の妥当性を全体主義の中でどのように説明すればよいのか?

 ・上記の説明では、全体主義と共産主義・社会主義を区別することができない。しかし、実際には両者は完全には一致しないはずである。両者が異なるからこそ、第2次世界大戦では全体主義のドイツと共産主義のソ連が対立した。両者を厳密に区別するには、どのような説明をすればよいか?また、第2次世界大戦において、ドイツとソ連はなぜ対立したのか?

 ・私の全体主義観では、民主主義と独裁が両立する。1人の政治的意思決定は全体のそれに等しく、全体の政治的意思決定は1人のそれに等しい。よって、意思決定の階層を想定する必要がない。ところが、実際の全体主義国家においては、独裁主義者がヒエラルキーの頂点に立って、権威主義的な政治を展開する。現在の中国がその典型である。全体主義と組織構造の関係、さらには全体主義における意思決定のプロセスをどのように説明すればよいか?

 ・私の全体主義観では、絶対的な人間の自由を制約する法は存在しない。ところが、全体主義が科学的な発展を追求する一方で、科学がもたらす弊害を左派は批判し、人間の諸活動を法によって制約しようとする。この矛盾をどう説明すればよいか?全体主義において、法とはいかなる意味を持つのか?