大和民族はユダヤ人だった―イスラエルの失われた十部族 (たまの新書)大和民族はユダヤ人だった―イスラエルの失われた十部族 (たまの新書)
ヨセフ アイデルバーグ Joseph Eidelberg

たま出版 1995-07-01

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 今から2700年前、サマリアを首都とする古代イスラエル王国はアッシリア軍の攻撃を受けて滅亡し、イスラエルの領土はアッシリア帝国の一地方区となった。この時、「帰らざる十部族」として知られる、サマリアを追われた人々は東方の霧深い山のかなたに消え失せ、その後の運命を知り得る有力な証拠は残っていないとされる。だが、本書の著者を含む一部の人々は、十部族は日本にたどり着いて日本民族になったと主張する。現に、ヘブライ文化と日本文化を比較してみると、驚くほどに共通点が多いことが本書では示されている。

 ①日本語で天皇を示す「スメラミコト」、古代の王朝を表す「ヤマト」、そして現在の国名である「二ホン」には、語源らしい語源がない。しかし、これらの言葉はヘブライ語ではそれぞれ、「サマリアの臣下」、「神の民(「ヤマト」を「ヤ・ムマト」と読む)」、「聖書の信奉者」という意味になる。神武天皇の称号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト(神倭伊波礼昆古命)」も、日本語的には意味不明だが、ヘブライ語では「サマリアの皇帝、神のヘブライ民族の高尚な創始者」となる。

 ②旧約聖書には、エジプトで奴隷として働かされていたイスラエル人が、神の啓示を受けたモーセに導かれれて約束の地カナンに旅立ってから40年後、モーセが山に登り、神が子孫に与えた国を見渡したという話がある。一方、日本では、日本人が葦原へ旅立ってから37年、神武天皇が山に登り、神が子孫に与えた国を見渡したという神話が残されている。この「葦原」が現在の日本のどこを指すのかは解っていない。ただ、「カナン」という名は、ヘブライ2文字の合成語「カヌ・ナー(CNNE-NAA)」で、「葦原」を指すと解釈することができる。

 ③神武天皇が葦原にヤマトを建国して以降、ヤマトは周辺民族からの攻撃に苦しめられることとなった。この歴史はちょうど、古代ヘブライ人がカナンに定着して以降、蛮族の攻撃に苦しめられた歴史と重なる。

 ④旧約聖書では、モーセの死後約500年間の記述が極端に少ない。そして、モーセの死から約500年後に突如、古代イスラエル王国の王であるダビデが登場する。同様に、日本書紀でも、神武天皇の死後約500年間の記述がほとんど見られない。そして、神武天皇の死から約500年後に登場する崇神天皇から、記述量が増える。よって、ダビデ=崇神天皇ではないかと考えられる。

 ⑤ダビデが崇神天皇であると推定されるのと同様、ダビデの次の王であるソロモンは、崇神天皇の次の天皇である垂仁天皇だと推定される。ソロモンは巨大神殿を築き、垂仁天皇は伊勢神宮を建造したという共通点がある。古代ヘブライ人には太陽に馬を捧げる習慣があるが、日本では、伊勢神宮に祀られている天照大御神に馬を捧げる風習がある。天照大御神とは太陽神である。

 ⑥景行天皇の時代、国は絶えず蛮族からの襲撃に悩まされていた。蛮族の1つである熊襲を平定すべく名乗り出たのが日本武尊である。日本武尊は、衣の下に剣を隠し熊襲の首領を刺したが、実はこの話は、士師エホデが衣の下に剣を隠し、ケモシ(モアブ)人の首領を殺したという聖書の話と同じである。さらに言えば、日本武尊は熊襲の首領を殺害した後、残忍な神々を探して伊吹の山に向かい、ノボの荒野で亡くなったとされる。この話を旧約聖書と照らし合わせてみると、伊吹とはヤボクの近辺の高い山々であり、またノボの荒野はネボの荒野であると見られる。それぞれの場所はケモシ人の古代王国にあり、ネボの近辺は紀元前850年にヘブライ人とケモシ人が戦った由緒ある戦跡である。

 ⑦大化の律令とヘブライ律法には多くの類似点がある。ヘブライ律法では土地は国有とされたのと同様に、班田収授法でも土地は公有とされた。律令では6年間土地を耕作し、7年目は休息の年としたのに対し、班田収授法では7年目は土地の再分配の年とされた。また、通説では都市行政は当時の唐に倣ったとされるが、実は律法の中に、区画整備や警察に関して極めて類似した記述がある。そもそも、「大化」という言葉には明確な語源がなく、ヘブライ語の「TIKWA」=「希望」から取ったのではないかと考えられる。

 ⑧カタカナはヘブライ文字の楷書に、ひらがなはヘブライ文字の草書に近い。ヘブライ語と発音が近い日本語は約3,000もある。日本は大陸から漢字が持ち込まれるまで文盲の時代が続いたとされるが、実際には、古代の祭司はヘブライ文字を知っていた可能性がある。三種の神器の1つである鏡の裏には"I am that I am."(私は有って有る者である)という、カナンで主がモーセに言った言葉が記されているらしい。祭司はヘブライ文字を神の宝として守ってきたものの、仏教が日本に定着した理由の1つが漢字にあったことに気づいて、ヘブライ文字を隠し場所から取り出し、宗教外の使用に用いることに決めた。

 これだけ共通点があると、確かに十部族は東方へと逃れ逃れていった結果、日本民族になったという説を信じたくもなる。だが、その反面、疑問点もある。

 まず、イスラエル王国の首都サマリアが陥落したのは、アッシリア王サルゴン2世の猛攻を受けた紀元前722年である。本書では、ヘブライ人(十部族の末裔)が日本にやってきたのは弥生時代中期の紀元前60年頃であるとされている。つまり、日本に到着するまでに約660年かかっている。1代30年とすると、約22代かかる計算である。さらに、イスラエルから日本までは直線距離で約9,000kmもある。約660年間=約22代もの時間をかけて、9,000km以上もの距離を、民族の記憶を保ちながら移動することが果たして可能なのだろうか?

 仮にそれが可能だとして、旧約聖書の記述と日本神話(日本書紀)の内容に多くの一致点を認めるならば、十部族は東方への移動時に、旧約聖書の一部(イスラエル王国滅亡までの部分)を完成させていたはずである。もし口伝に頼っていれば、約22代もの世代交代が行われる中で、間違いなく物語が変質してしまい、日本に伝わり日本書紀に反映された物語と、現存する旧約聖書の内容に齟齬が生じるからである。だから、十部族は、文書化された旧約聖書の一部を持ち歩きながら移動したと考えるのが自然であろう。だとすると、移動ルートのどこかで、その旧約聖書が発見されていなければおかしい。しかし、移動ルートの途中はおろか、日本でもそのような旧約聖書は1冊も見つかっていない。

 本書では、崇神天皇をダビデ、垂仁天皇をソロモンに推定している。他方、他の天皇についてはどのような推定が行われたのか/行われなかったのかが不明である。日本書紀は、神代から持統天皇(第41代)にかけての史書である。仮に旧約聖書の内容に忠実であるならば、日本書紀が扱う時代は、モーセとイスラエル王国の王をつなぐ血縁、ならびにイスラエル王国19代の王と忠実に対応しているはずである。しかし、本書を読む限り、この点は判然としなかった。インターネット上では、モーセ=神武天皇説も見られるものの、本書は上記②の共通点を指摘するのみで、モーセが神武天皇であるとは書いていない。

 前述の通り、十部族の末裔が日本に来たのは紀元前60年頃である。当時、既に日本列島には弥生人が住んでいた。十部族の末裔がどの程度の規模で日本に流入したのかは定かではないが、彼らがすんなりと弥生人の社会に融合したとは考えられず、一定の軋轢を生んだであろうことは容易に想像できる。その軋轢から融和に至る過程がどのようなもので、それは日本書紀の記述にどんな形で反映されているのか、あるいは十部族の末裔にとって不都合であるなどの理由から、意図的に日本書紀から外されているのかどうかも解らない。

 最大の疑問点は、旧約聖書が一神教であるのに対し、日本神話が多神教であるという違いをどう理解すればよいかという点である。日本で最初に誕生した神は伊邪那岐と伊佐奈美であり、そこから天照大御神、月読、素戔嗚が誕生し、さらに様々な神々が生まれた。これらの神々(天つ神)に対して、旧約聖書がどう対応しているのかは本書から読み取れない。

 これは、日本の土着の多神教に、十部族の末裔が持ち込んだ物語が融合した結果だと見ることもできるであろう。しかし、ヘブライ人にとって、唯一神とは絶対的で完全無欠な存在であり、弥生人が多神教、しかもどこか人間臭い神々を信仰しているからという理由だけで、簡単に唯一神を捨て去ることができたのかどうかは疑問である。もし、十部族の末裔が一神教を捨てて自らの物語を多神教に接合した場合、そこには何らかの歪みや葛藤が生じるはずであり、それが日本書紀のどこかに発露していないかどうかを考察してほしかった。

 最後にもう1つ。紀元前60年頃に日本に到着した十部族の末裔は、弥生人と融合した後、なぜすぐに自らの文字を使わなかったのかという問題である。本書では、上記⑧の通り、十部族の末裔はヘブライ文字を神の宝と見なしていたから長期間に渡って使用しなかったとある。だが、もしそうだとすれば、旧約聖書自体は(諸説あるものの)紀元前の相当古い時期から断続的に書き記されていることと矛盾する。また、日本書紀は、天武天皇が編纂を命じ、元正天皇の720年に完成した。日本書紀が旧約聖書を大いに参照しているのであれば、このタイミングでひらがな・カタカナが用いられなかったことも不思議である。

 さらに、上記⑧で書いたように、ひらがな・カタカナの使用が漢字による仏教の布教に刺激されたとすれば、古代において最も仏教が盛んだった時期、すなわち、鎮護国家の思想を掲げ、東大寺に廬舎那仏を建立した聖武天皇(701~756年)の頃から、ひらがな・カタカナが使われ始めたと考えても不自然ではないだろう。これもまた諸説あるのだが、カタカナは天平勝宝年間(749~756年)に吉備真備ら多くの学者によって作成されたという説がある。一方、ひらがなに関しては、10世紀前半に完成したと考えられていたが、最近になって9世紀の文字が発見されたという。仮に、ひらがな・カタカナがヘブライ文字に基づいているならば、両者の使用時期に100年ほどの差がある理由を説明できない。