こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

二項混合


宮田律『イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか』―カネで外国から尊敬を買える時代はとっくに終わっている


イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか (新潮新書)イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか (新潮新書)
宮田 律

新潮社 2013-09-14

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 この本も、一種の「日本礼賛本」であろう。著者によれば、日本とムスリム社会には、正義の遂行、言行一致、勇敢さ、忍耐、誠実、人情、ウェットな人間関係、面倒見のよさ、集団主義といった共通のメンタリティがあるという。ムスリムは日本の精神をもっと学ぶべきだという風潮があるそうだ。だが、私にはこうしたメンタリティの退廃が日本では著しい速さで進んでいるような気がしてならない。

 明治時代に日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一は、『論語と算盤』という著書の中で、「経済と道徳は両立できる」と説いた。実際には、「『論語』を持って経営をしてみせる」と言っていたぐらいだから、経済よりも道徳の方が優先されると考えていたのだろう。ところが、最近の日本企業では、経済と道徳の優先順位が逆転してしまっているように思える。

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)論語と算盤 (角川ソフィア文庫)
渋沢 栄一

角川学芸出版 2008-10-25

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 企業がそれなりの規模になると、今の成熟社会においてさらに成長するためには、より大きな案件やプロジェクトを取ってこなければならない。そこに、アメリカ式の個人主義、明確な職務定義書、成果主義といった考え方が流入すれば、社員個人の仕事の範囲は限定され、顧客とじかに接する機会が減少することはもちろんのこと、隣の部署、さらには隣の社員が何をやっているかも解らないという状態に陥る。つまり、仕事を通じた人間関係が恐ろしいほどに希薄になる。だから、自分1人ぐらい仕事でミスをごまかしてもバレないだろうと考える輩が出てくる。後から案件やプロジェクトの不正が発覚しても、内部では個々の細分化された仕事が複雑に影響し合っているから、原因の特定が困難になる。

 大きな案件で大変な思いをしたくないという企業は、金融経済に参入する。実体経済は成長が見込めないが、金融経済ではあたかも無尽蔵にマネーを増大させることができるような幻想に浸っている。実際、金融経済は「期待」によって動く世界である。ある対象物の価値が将来的に上がると期待して、その対象物に投資する。実体経済の需要は人口によって制限されるのに対し、期待はあくまでも気持ちであるから、いくらでも膨らませることができる。しかし、膨らみすぎた期待はやがて破裂する、つまりバブルがはじける。すると、金融経済は、次に期待できるものをすぐさま用意する。サブプライムローンが破綻したのならば、次は仮想通貨だといった具合にである。そこには人間関係を差し挟む余地はないし、その経営姿勢の根底には、およそ道徳と呼ぶべきものは見当たらない。

 このようにして崩れた人間関係を取り戻そうと、我々はSNSに飛びついたが、匿名を基本とするtwitterは常に誰かを炎上させようと狙っている意地悪なツールになってしまったし、実名公開を基本とするFacebookも、自分がいかに充実した日常生活を送っているかを自慢する自己本位な場を超えないと感じる。インターネットの世界では、匿名だから罵詈雑言が飛び交うのであって、実名ならばそんなことはないと信じられていたのに、ほぼ実名公開に近いLINEでは、子どものいじめが問題になっている。匿名か実名かは関係ないのである。

 SNSは人間関係を取り戻すには不十分である。真の人間関係とは、何よりもまず生身の他者と直接対峙することである。そして、自らの透明度を高めて、自分が何者であるかを極限まで開示する。すると、相手が自分を信頼してくれるようになる。同時に、「相手が自分のことを十分に知っている以上、それとは矛盾する行動や、相手を裏切るような行為は絶対にできない」という緊張感が生まれる。相手からの信頼を資源として、相手が何を必要としているのか、どのような価値を求めているのかをくまなく読み取る。それを受けて、相手との間にある緊張感で身を律しながら、相手の要求の端々にまで厳格な姿勢で応えていく。これが正義、勇敢さ、誠実といったメンタリティではないかと思う。
 日本には政治的野心がなく、日本が主に望むのは経済交流だということを(※ウズベキスタンの)大統領も知っていて、日本に対して何か政治的役割を果たしてほしいという発言は聞かれなかった。
 これが本書の中で最も私を悲しくさせた一文である。イスラームの国々が日本を尊敬しているといっても、結局は経済支援がその理由なのである。要するに、イスラームの国々からの尊敬は、カネで買ったものにすぎない。だが、カネしか出さない国は、国際社会から本当の意味では評価されないことを我々は湾岸戦争で学んだはずである。1991年の湾岸戦争の時、日本は総額130億ドル(約1兆5,500億円)もの巨額の資金を多国籍軍に提供した。クウェート政府はアメリカの主要な新聞に感謝広告を掲載したが、「クウェート解放のために努力してくれた国々」の中に日本の名前はなかった。これが国際社会の現実である。

 アメリカやロシアのように、中東の国々の政治・経済体制を自国にとって有利なように強制変更させるような政治的野心は持つ必要はない。しかし、小国である中東の国々が紛争を減らすことができるような国家作りの支援ならば、同じ小国である日本にもできるはず、いや日本がすべきであると考える。ブログ本館の記事「『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)」でも書いたように、大国であるアメリカとロシアは、二項対立関係にある双方が直接衝突するとあまりにも大規模な戦争に発展してしまうため、自国にとって味方となる小国を集め、その小国に代理戦争をさせている。その典型が中東である。

 小国は大国の思惑通りに代理戦争に巻き込まれるのを防ぐため、対立する両大国の政治、経済、社会、軍事制度などの諸要素を”二項混合”的に吸収し、自国の歴史、伝統、文化の上に独自の国家体制を構築する。さらに、独自の国家体制のメリットや価値を両大国に訴求する。これによって、小国は独立性を保ちつつ、スパイ活動という危険を冒さなくとも、アメリカの情報がその小国を通じてロシアに、ロシアの情報がその小国を通じてアメリカに渡るという状況を作り出すことができ、双方ともその小国には簡単に手出しができなくなる。同時に、代理戦争によって対立していた近隣の小国にも同様のアプローチを取るように促し、代理戦争そのものを無効化する。これを「ちゃんぽん戦略」と呼んでいる。

 中東で紛争が絶えない原因は、もちろんアメリカとロシアの過剰な介入にも原因があるのだが、ムスリムは基本的に二項対立的な世界観に生きているからでもある。セム系のムスリムは二項対立的な発想をすると指摘したのは山本七平であった。大国同士は、二項対立的発想が深刻な紛争を招くのを防ぐ仕組みを自国の中に持っている。ところが、中東の小国が二項対立的な発想をすると、自国=正義、他国=敵という構図を生み出しやすく、紛争の温床になる。

 本書で紹介されている例で言えば、ハワーリジュ派は、この世界を「信仰」と「不信心」、「ムスリム(神への追従者)」と「非ムスリム(神の敵)」、「平和」と「戦争」に分けて考える。サウジアラビアのワッハーブ派も、全てのムスリムは不信心者と戦う義務があると考えている。エジプトのサイイド・クトゥブは、世界は善の力と悪の力、神の支配に服従する者とそれに敵対する者、神の党派と悪魔の党派に分かれると主張した。基本的に、彼らにとっての敵とは欧米諸国のことなのだが、矛先が中東の近隣諸国に向けられると紛争が勃発する。

 セム系の二項対立的な発想は彼らの本質であるから、その思考回路を変えるのは容易ではないだろう。日本は神仏習合に見られるように、歴史的に見れば二項混合的な発想をすることに抵抗のない国であるものの、本格的に二項混合を行うようになったのは明治維新以降と考えてよい。歴史の浅さというハンディキャップを乗り越え、イスラームの本質を十分に理解した上で、中東のそれぞれの小国がそれぞれの国のやり方で二項混合的な国家建設を行うのを支援することが、日本にできる政治的貢献であると考える。

 「イスラームの本質を十分に理解した上で」と書いたが、中東を政治的に支援するにあたって難題となるのがコーラン(クルアーン)の扱いである。西欧諸国にとっては、法治国家は宗教から切り離されたものというのが当然のこととされている。しかし、中東においては、コーランとそれを法源とするイスラム法という宗教が共同体や人々の生活を規定する法律として立派に機能している。

 そもそも、何が宗教で何が法律なのか、厳格に線引きをすることは非常に難しい。西欧諸国は、近代法は啓蒙主義の洗礼を受けた合理的なものであり、宗教は前近代的であると批判する。しかし、例えば、「殺人を犯した者は懲役15年以下に処する」という法律があった場合、「懲役15年以下」という量刑にどれほどの合理性があるか説明できる人は皆無に等しいだろう。他の刑罰の選択肢もあるのに(中世には様々な刑罰の種類があった)、なぜ懲役が選ばれたのか、15年以下という長さがなぜ妥当なのか、これらの問いに対する合理的な答えはない。人々が何となくそういう刑罰、そのぐらいの刑罰に処すれば、社会的制裁として十分であろうと「信じている」からにすぎない。

 やや話が逸れるが、西欧諸国、もっと範囲を広げて、日本を含む資本主義国は、見方を変えると皆宗教国家である。資本主義国家が崇めているのは貨幣である。貨幣など、物質的にはただのコインや紙切れである。しかし、そのコインや紙切れに価値があり、モノやサービスの価値を可視化することができ、さらにモノやサービスと交換可能であると広く人々が信じているのが資本主義国家である。資本主義とは、貨幣礼賛教のことだと言い換えてもよいだろう。

 貨幣も、その価値や使途に関するルールを内包している存在であると広くとらえれば、宗教と法律とを厳密に区分することはいよいよ難しくなる。ブログ本館の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『中学生でもわかるアラブ史教科書』―アラブ世界に西欧の「国民国家」は馴染まないのではないか?」で書いたように、中東においては、宗教国家という方向性を真面目に検討してもよいと思う。日本は明治時代に神道を国教として宗教国家を目指し、太平洋戦争によって大きな痛手を被った経験がある。日本は、自らの歴史を踏まえながら、健全に機能する宗教国家の条件を提示することができるのではないかと考える。

 法律も宗教も、「共同体や社会の中で、他者に迷惑をかけずに生きるにはどうすればよいのか?」、「他者に対してより積極的に貢献するには何をすればよいのか?」といった問いに対する答えを示している。法律は国家の権力をバックに、宗教は神の存在をバックに、これらのルールを明確にしたものである。そして、法律や宗教にルールを供給しているのが、道徳である。安岡正篤によれば、道徳の存在なくして法律も宗教も生まれない。道徳、法律、宗教は密接な関係にある(『「人間」としての生き方』〔PHP研究所、2008年〕)。

「人間」としての生き方 (PHP文庫)「人間」としての生き方 (PHP文庫)
安岡 正篤 安岡 正泰

PHP研究所 2008-03-03

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 今、日本が中東各国を支援するには、本記事の前半で述べた「道徳の喪失」という問題を解決しなければならない。道徳を取り戻した日本がちゃんぽん戦略の実行と宗教国家の構築という、言わばソフトとハードの両面からサポートをする時、日本は本当に中東から尊敬される国になるであろう。著者は、中東では日本のポップカルチャーが人気だから、日本は中東から尊敬されていると言う。しかし、ポップカルチャーは流行に左右されやすいものであり、ムスリムがそれに飽きれば日本は簡単にポイ捨てにされる。国際貢献の何たるかを理解していれば、こんな軽薄な発言は出てこないはずである。

由良弥生『「神」と「仏」の物語』


「神」と「仏」の物語 (ベスト新書)「神」と「仏」の物語 (ベスト新書)
由良 弥生

ベストセラーズ 2016-05-10

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 ブログ本館の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」、「島薗進『国家神道と日本人』―「祭政一致」と「政教分離」を両立させた国家神道」で「神仏習合」について書いた。日本は元々八百万の神であるが、6世紀に百済から仏教が伝えられた後、奈良時代に入ると神道と仏教の融合が図られた。神社の中には「神宮寺」という寺院が建てられ、僧侶が住みついた。そして鎌倉時代中期には「本地垂迹説」が生まれた。これは、仏・菩薩を本地とし、神は衆生救済のためにこの世に姿を現した垂迹とする考え方である。

 これによって、各神社に祀られている神の本地が定められることになった。例えば、天照大神の本地は大日如来、八幡神(応神天皇)の本地は阿弥陀如来といった具合である。古事記や日本書紀にあった神々の名前も、仏の名前へと書き換えられた。本書では「仏教の方が優位であった」といった記述が目立つ。

 しかし、ここで1つ素朴な疑問が生じる。仏教の方が優勢であったのならば、なぜ仏教は神道を駆逐しなかったのであろうか?影響力の点では仏教の方が上であるが、神々の子孫である天皇を日本社会の頂点にいただいている限り、関係としては神道の方が仏教より上に立つ。だから、実際には仏教が神道の下に潜り込み、下から神道を突き動かした(変質させた)と表現するのが適切である。この関係は、明治時代に神道が仏教を徹底攻撃した廃仏毀釈とは対照的である。

 ブログ本館において、日本では「二項対立」ではなく、しばしば「二項混合」が起きると書いた。つまり、ある事柄Aに対して、それと対立する事柄Bが生じると、BはAを排斥するのではなく、Aの下に入り込んでAと融合するのである。Aに対してBが強い力を及ぼすことを、山本七平は「下剋上」と呼んだ。一般的な下剋上では、下の階層が上の階層を打ち倒すが、山本の言う下剋上とは、上の階層を生かしながら、下の階層が自由に影響力を発揮することを意味する。

 日本で長らく続いた朝廷と幕府の二元体制はこの文脈で理解することができる。近現代で言えば、経営者と労働者、資本主義と共産主義も二項混合の関係にある。このような二項混合は、結果的に社会構造を多層化・複雑化させることになる。しかし、逆説的であるが、日本社会は階層が多重化した方が安定するという特徴を持つ(ブログ本館の記事「渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ」を参照)。

 日本は、アメリカのように階層を減らして、トップに強烈なカリスマを持つリーダーを据える社会とは異なる。どういう理由か解らないが、日本では傑出した能力を持つリーダーが生まれにくいようである。だから、カリスマに満ちたリーダーがトップダウンで社会を動かすことは期待できない。凡人が幾重にも重なってああでもない、こうでもないと検討を繰り返した結果、少しずつ社会を動かす方が、時間と手間はかかるけれども結果的にリスクを回避できる可能性が高まる。これが、日本がしぶとく2000年以上も国家を継続させてきた秘訣である。だから、日本には諸外国のような緊急事態条項は不要である。

 私は以前、神仏習合は日本人の二項混合的な発想の好例であると書いたが、本書を読んで少し考えるところがあった。そもそも、何をもって日本人に固有の発想と呼ぶのかという問題がある。換言すると、①当時の支配層に主流の考え方ならば日本人に固有の発想と言えるのか、それとも、②一般庶民にまで広く行き渡らなければ日本人に固有の発想とは言えないのか、という問題である。

 本書によれば、奈良時代から平安時代にかけて、神仏習合はあくまでも貴族などの支配層に限定された思想であったという。一般市民にとって、仏教は縁遠い存在であり、相変わらず土着の神道を頼っていた。鎌倉時代には鎌倉仏教が生まれたが、それが広まったのは武士階級までであった。武士は人を殺めたことに対する罪悪感を感じており、悪人でも地獄ではなく極楽浄土に行けるという仏教の思想に惹かれていった。逆に言えば、この時点でもまだ、仏教は一般市民と無縁であった。仏教が一般市民にまで広まるのは、江戸時代に入ってからである。幕府が定めた寺請制度によって、仏教は一般市民の身近な存在となった。

 前述の①に従えば、神仏習合は奈良時代から見られる日本古来の思想と言えるだろう。しかし、逆に②に従うと、神仏習合はせいぜい江戸時代に入ってから定着したにすぎない。しかも、江戸時代の一般庶民は、寺院を単なる葬儀業者のように見なしていたから、神仏習合なるものをどこまで理解していたのか不明である。この辺りをもっと掘り下げることが、私の今後の課題である。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

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