こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。1,500字程度の読書記録の集まり。

全体主義

櫻井よしこ、呉善花『赤い韓国―危機を招く半島の真実』―全体主義的な韓国は「悪」を徹底的に叩くことでしか「善」を定義できない


赤い韓国 危機を招く半島の真実 (産経セレクト)赤い韓国 危機を招く半島の真実 (産経セレクト)
櫻井よしこ 呉善花

産経新聞出版 2017-05-02

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 韓国は儒教社会であるが、我々日本人が理解する儒教とは大分異なる。
 呉:儒教では、自然界を秩序づけている自然法則が、そのまま人間界をも貫いていると考えます。この普遍的な自然法則が朱子学でいう「理」です。それに対して物質的・現実的なものが「気」となります。そうした理解のうえで、「理=法」が「気=物」に秩序を与えるとされます。そのように、「理=法」を「気=物」に作用する超越的な実体とみなすところに、朱子学の最大の特徴があります。
 『論語』を読むと「天」という言葉が頻繁に出てくるが、これを普遍的な「理」としたのが朱子学である。こうした傾向は全体主義に陥る可能性があることを、私は以前ブログ本館の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」で指摘したことがある。
 呉:唯一の観点の共有ということは、全体主義の価値観が根強く残っていることを意味します。反対意見を持つことは悪になります。このような考えが作られたのは、約500年にわたって続いた李氏朝鮮王朝時代で、それがいまだに残っているのです。
 全体主義的な儒教において唯一絶対的に正しいものとは「仁」である。ところが、この仁というものは、『論語』を何回繰り返し読んでも、何となく理解できるようでなかなか理解できない難物である。
 仲弓、仁を問う。子曰わく、門を出ては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に承(つか)えまつるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。
 樊遅、仁を問う。子曰わく、居処は恭に、事を執りて敬に、人に交わりて忠なること、夷狄に之くと雖ども、棄つべからざるなり。
 顔淵、仁を問う。子曰わく、己を克(せ)めて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。而して人に由らんや。顔淵曰わく、請う、其の目を問わん。子曰わく、礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。(いずれも顔淵第十二)
論語 (岩波文庫 青202-1)論語 (岩波文庫 青202-1)
金谷 治訳注

岩波書店 1999-11-16

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 孔子は終始こんな具合である。仁とはつまり、自己を律し、他者に対して敬意を表し、自分より地位が低い者であっても大切に扱い、礼(規律)に基づいて物事を進めることだと言えそうである。だが、こんなに簡単に仁を要約してしまっては、2000年以上にわたり読み継がれてきた『論語』の深みが失われてしまうような気がしてならない。仁の意味するところを明らかにすることは非常に難しい。

 その難しさを韓国人も感じていることだろう。仁=唯一絶対的に正しいもの=善を定義できないならば、善でないもの=悪を明確にすればよい。そして、韓国にとっての悪とは、日本そのものである。東アジアを西洋の帝国主義から解放するどころか、朝鮮半島を併合して植民地にした日本、朝鮮半島の人々を軍艦島に強制連行して劣悪な条件の下で働かせた日本、太平洋戦争時には女性を慰安婦として働かせ、女性の尊厳を著しく傷つけた日本、韓国固有の領土である独島を竹島と呼んで日本の領土だと主張する日本、これらの全てが韓国人にとって悪である。だから、韓国人は徹底的に悪=日本を叩く。そうすることで、自らの全体主義を達成しようとしているのである。

 1981年生まれの私は、てっきり韓国が昔から民主主義国家だと思い込んでいたのだが、韓国は1948年の建国以来、軍事政権の歴史の方が長く、民主主義国家になったのは盧泰愚大統領が6・29民主化宣言を出した1987年以降のことにすぎない。軍事政権の下では、国民の感情は基本的に「反軍事」であった。「反軍事」は「反米」につながる。ところで、朝鮮半島の北側を見てみると、自分と同じ民族が反米を掲げて戦っている。ここで、「反米」から「民族主義」が生まれる。

 民族主義とは、自民族が他民族よりも優れているとする見方である。民族主義の攻撃対象は当初アメリカであったが、やがて攻撃対象が日本に移っていった。というのも、歴史を振り返れば、朝鮮半島は中国の中華思想にがっちりと組み込まれており、中国から離れれば離れるほど、民族のレベルが下がると考えているからだ。こうした歪んだ民族主義も、日本バッシングに輪をかけている。

大山顕、東浩紀『ショッピングモールから考える―ユートピア・バックヤード・未来都市』―消費を全体主義化するショッピングモールに怖さを感じる


ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市 (幻冬舎新書)ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市 (幻冬舎新書)
東 浩紀 大山 顕

幻冬舎 2016-01-29

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 作家・思想家の東浩紀氏とフォトグラファー・ライターの大山顕氏の対談本。ショッピングモールに未来都市の理想を見るというショッピングモール礼賛本であり、正直なところ私は「怖い」と感じた。

 東氏の理想はこうである。まず、雨が降っていても自宅から濡れずに、また外がカンカン照りの日でも凍えるような寒さの日でも快適な温度に設定された屋根つきの通路を通って電車の駅まで行くことができる(東氏は自動車を運転しない)。電車に乗ってショッピングモールの最寄り駅まで行くと、改札口から同じく屋根つきの通路をくぐってショッピングモールに入る。ショッピングモールの動線は、まるでその設計者が来場者に対して順番に回るべき店舗を示唆するかのようになっていて、来場者は次々と設計者の意図通りに製品やサービスを購入していく。こうして丸1日を快適に過ごすことができるというものである。

 こうしたショッピングモールの理想を、現在最も近い形で実現しているのが、ディズニーワールドであると言う。ディズニーワールドは、大人から子どもまで誰もが1日中楽しめるように、アトラクションやショップ、内観のコンセプトや配置、動線などが心理学や人間工学などに基づき緻密に計算されている。
 東:でもまじめな話、今後ショッピングモールやテーマパークを考えていくためには、ディズニーワールドの達成を前提にしないと、大事なところを間違えてしまうと思うんです。テーマパークはいい意味でも悪い意味でもここまで行くんだぞ、と。

製品・サービスの4分類(大まかな分類)

製品・サービスの4分類(各象限の具体例)

 私はしばしば本ブログやブログ本館で上図を用いている。図の詳細な説明は、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴」をご参照いただきたい。ディズニーワールドは、上図の分類に従えば、左上の<象限③>に該当する。そして、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」、「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」でも書いたが、<象限③>は全体主義をアメリカなりに修正した結果出現した象限である。つまり、裏を返せば、<象限③>は全体主義に逆戻りするリスクをはらんでいる。

 今のところ、ディズニーワールドには競合他社が存在するから、顧客のレジャーは全体主義化されていない。ところが、仮にディズニーワールド一強の時代が到来したら、顧客はレジャーとしてディズニーワールドしか選択できず、そこではディズニーワールドの設計者の意のままに顧客がレジャーを消費する(いや、消費させられるという表現が正しいだろう)。つまり、消費が全体主義化することを意味する。ディズニーワールドには、生活水準がそれほど高くない人も訪れるというが、全体主義化された<象限③>は全世界中の人々をターゲットとするマスマーケティングを実施するため、必然的にこういう人たちも包摂することになる。

 ショッピングモールは上図では左下の<象限①>に該当し、本来であれば文化の違いなどに根差した多様性が追求される。ところが、著者らはこれを<象限③>へ移行させ、さらに全体主義化しようとしているようである。そこでは、気候、文化、言語、宗教、民族などの違いを超えたショッピングモールの普遍性というものが実現される。これがユートピアとしてのショッピングモールである。
 大山:モール性気候のみならず、モール性文化、モール性教国、モール性宗教・・・。
 石川(※ランドスケープ・アーキテクトの石川初氏):このシーンをぼくは「モールスケープ」と呼ぼうと思います。気温35度湿度80パーセントの熱帯都市に、人工的に気温27度、湿度55%の場所をつくり、ヤシの鉢植えを置いた広場に、北ヨーロッパの冬のジオラマを設置して、キリスト教由来のイベントを演出し、そこで防寒服を着用したヨーロッパ系の老人の人形と写真を撮る、ムスリムの親子。
 だが、別の箇所では、ショッピングセンターは土地の文脈を無視してはいけないと書かれていており、「ふくしまゲートヴィレッジ」を批判している箇所がある。
 大山:違和感というか、趣味の問題ですけど。土地の文脈をどう捉えるか、という点にぼくはすごく興味があるので。(中略)ショッピングモールをつくるひとは、たんなる商業施設ではなく街をつくろうとする。だから、その地域がもともと持っている文脈を強く意識して、それをなんとか活用しようとする。
 この点を踏まえれば、ショッピングモールを<象限①>から<象限③>へと移行させ、さらに普遍性を追求する=全体主義化する試みは無謀であると言わざるを得ないように感じる。土地の文脈を追うということは、その土地の上に成り立っている人々の生活・風習・価値観の物語を追うことを意味する。そして、土地の数だけ物語は存在するわけであり、したがって、ショッピングモールもその物語を反映させた固有のものでなければならない。それを無理やり普遍化=全体主義化しようとしているところに、本書の「怖さ」を感じる。

重田園江『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』―近代の「規律」は啓蒙主義を介して全体主義と隣り合わせ


ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)
重田 園江

筑摩書房 2011-09-05

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 日本で言えば磔や引き回し、海外で言えばギロチンなどの刑は、現代からすると人間性を無視した非道な刑罰だと思われがちだが、フーコーはそのように考えない。刑罰は時代や社会の事情を反映したものであり、そのあり方を決めるのは政治である。だから、現代の自由刑と過去の身体刑を比べて、どちらがより残酷であるとか、どちらがより人道的であるといったことを決めることはできない。

 フーコーが「古典主義時代」と呼ぶフランス絶対王政の時代には、主権、つまり法を与える権能は王にあった。王こそが全ての法源である。よって、犯罪というのは王の正統性に対する侵害である。その侵害の程度が重大であればあるほど、王は犯罪者をあらん限りの力で消滅させるのが当然であった。人々に犯罪に対する抑止力を働かせるため、犯罪者は大衆の面前で罰せられた。こうした王の権力は、剣による権力、王による至上権、王による生殺与奪権、法的・主権的権力などと呼ばれる。別の言い方をすれば、王の権力とは、人々を「死なせるか、生きたままに放っておくか」という権力である。

 近代に入ると、主権が王の手から国民の手に移った。国民主権においては、国民が民主主義によって法を作っていく。それから、近代になるともう1つ重大な変化が生じた。それは、経済の発展により、窃盗などの経済化した犯罪が増加し、しかも、その犯罪を実行するのはプロの小集団であったということである。こうした状況に対して、当時勃興した啓蒙主義は2つの方向性を目指した。1つは、犯罪者であっても自立的で判断力に長け、物事の善悪を自分で決められる、つまりは良識を持った人間へと改良するというものである。もう1つは、人々が罪と罰とを頭の中で即座に結びつけられるようにすることである。例えば、窃盗を犯すとこういう罰を受けるから、窃盗をするのは止めよう、と人々に思わせることである。よって、犯罪が多様化すれば、自ずと刑罰も多様化することが想定される。

 ところが、実際には増加する犯罪者を効率的に処罰するために用いられたのは、「監獄における規律」という自由刑(犯罪者から自由を奪う刑)であった。どんな犯罪を犯した者でもまずは監獄に収監され、彼らは監獄のルールの下で、決まりきった1日のスケジュールに従って生活し、労働する。啓蒙主義は人間の可能性に光を当てるものであったが、現実的には効率性の方が優先された。

 フーコーの指摘が面白いのは、規律は近代になって発明されたわけではなく、古代からあった様々な手口の組み合わせであるとしている点である。加えて、規律は監獄を超えて我々の日常生活にも浸透するようになった。犯罪を取り締まるために、都市にはポリス(行政警察に近い)が張り巡らされた。さらに、規律は学校や工場などでも用いられるようになった。

 王の権力は、「人々を死なせるか、生きたままに放っておくか」という権力であったが、逆に規律型権力は「人々を生かす権力」である。なぜそこまでして人々を生かす必要があるのか、ここでフーコーは国家理性に注目する。従来の国家は、国家を超越する神や自然の法に従うものとされていた。ところが、フーコーは、国家は存続そのものが自己目的化していると指摘する。そして、国家の存続には国家の力が必要である。国家の力を構成する要素は数多く存在するのだが、その中でも「人々の数」は大きなウェイトを占めている。だから、権力によって人々を生きさせることが極めて重要である。この権力は「生の権力」とも呼ばれる。

 ところで、啓蒙主義の観点からすると、監獄における規律、規律的権力は明らかに失敗である。人間の多様性に着目するどころか、効率性を優先し、人間を画一的に扱っている。ここでフーコーは、なぜ監獄は失敗なのかとは問わない。失敗している監獄は何かの役に立っているのかという問いを立てる。

 近代に入って急速に力をつけてきたのはブルジョワジーである。彼らにとっての敵は、従来型の王と下層民であった。特に、下層民を敵視していた。ブルジョワジーは、下層民の犯罪行為(労働忌避、機械の打ちこわし、商店の襲撃など)と政治的行為が結びついて秩序転覆を図る危険を最小限に抑え、犯罪者集団を一般人から区別する必要があった。そのために監獄は利用された。犯罪が既存の秩序を脅かすどころか、秩序に組み込まれ、ブルジョワジーに役立つ形で存続するなら、ないよりもあった方がましなのであった。

 先ほど、監獄による規律は啓蒙主義の目指した方向性と異なると書いたが、個人的には、啓蒙主義と監獄による規律は容易に結びつくものではないかと感じる。啓蒙主義とは、人間理性の至上性を強調し、理想の人間を追求する試みである。ただ、啓蒙主義は全体主義に転ずる可能性と常に隣り合わせである(以前の記事「大井正、寺沢恒信『世界十五大哲学』―私の「全体主義」観は「ヘーゲル左派」に近いと解った」を参照)。啓蒙主義が人間理性の至上性を説く時、それはややもすると人間理性の唯一絶対性と完全無欠性を説くことになる。これらは全体主義の特徴である。啓蒙主義的―絶対主義的目的を達成するためには、画一的な規律はまさにうってつけの手段となる。

陳破空『米中激突―戦争か取引か』―台湾を独立させれば中国共産党は崩壊する


米中激突 戦争か取引か (文春新書)米中激突 戦争か取引か (文春新書)
陳 破空

文藝春秋 2017-07-20

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 さらに重要なポイントは、ここで言う「我々の」とは、「アメリカの『一つの中国』政策」という意味であり、「中国の『一つの中国』政策」ではない、という点である。言いかえれば、「一つの中国」政策について、北京には北京の、ワシントンにはワシントンの見解がそれぞれあり、2つは別物である、ということだ。

 北京の見解とは、「世界には一つの中国があるだけで、大陸と台湾は、共に一つの中国に属し、中華人民共和国政府こそが中国を代表する唯一の合法政府である」というもので、ワシントンの見解とは、「アメリカの『一つの中国』政策とは『米中間の3つのコミュニケ(上海コミュニケとも言われる、1972年2月のニクソン大統領の訪中に関する米中共同声明など)』、アメリカの『台湾関係法』、アメリカ議会の『台湾に対する6つの保証』などの法案に基づくもの」というものである。
 ブログ本館で、現代の大国であるアメリカ、ドイツ、中国、ロシアはいずれも二項対立的な発想で動くという特徴があると書いてきた。こうした伝統は、少なくとも「正」に対しては「反」が存在すると主張したヘーゲルにまで遡ることができる。私の二項対立論はまだ非常に軟弱なのだが、改めて整理すると次のようになる。

 今、A国とB国という2つの大国が二項対立的な関係にあるとする。実はA国とB国の国内も二項対立になっており、A国内には反B派(A国政府派)と親B派(A国反政府派)が、B国内には反A派(B国政府派)と親A派(B国反政府派)が存在する。最前線で観察できるのは、A国の反B派とB国の反A派の激しい対立である。だが、もう少し詳しく見ていくと、そこには複雑な関係がある。まず、A国の反B派はB国の親A派を、B国の反A派はA国の親B派を支援している。さらに、A国の親B派とB国の親A派は裏でつながっている。これによって、A国内の反B派と親B派、B国内の反A派と親A派も対立する。これが大国同士の二項対立の構造である。この構造の利点は、A国・B国ともに、国内の対立の処理に配慮せざるを得ず、両国が全面的に対立しなくても済むという点である。

 二項対立のもう1つの利点は、一方が誤りだと判明した場合、すぐさまもう一方が正として前面に出てくるということである。仮に、上記の例で、A国内の反B派が誤りであることが判明したとしよう。すると、反B派と親B派の立場が逆転する(親B派がA国政府派になり、反B派がA国反政府派になる)。そして、A国の動きに呼応して、B国でも同様の逆転が生じる。その結果、表面的にはA国の親B派とB国の親A派が手を結ぶようになる。しかし、両国は完全に同じ船に乗っているわけではない。依然としてA国内には反B派が、B国内には反A派がいる。A国の親B派はB国の反A派と、B国の親A派はA国の反B派と対立する。さらに、A国内では親B派と反B派が、B国内では親A派と反A派が対立する。

 日本人的発想に立つと、せっかくA国の親B派とB国の親A派が仲良くしているのだから、その関係を保てばよいのにと思うところだが、この複雑な関係にもメリットがある。それは、大国同士が完全に融合して、超大国が誕生するのを防ぐことができるということである。二項対立の関係にある大国は、右手で殴り合いながら左手で握手をしているようなものであり、状況に応じて殴る右手の方が強いか、握手をする左手の方が強いかという違いが生じるにすぎない。こうした関係を通じて、大国は勢力均衡を保っている。

 仮に、A国内で二項対立が消えたとしよう。A国は国全体が反B派になるか、親B派になる。つまり、A国が全体主義になったケースである。A国全体が反B派になった場合、A国はB国を潰しにかかる。親B派になった場合、A国はB国を吞み込もうとする。いずれにしても、A国の全体主義の目的は、B国を完全に消滅させることである。全体主義の場合、国内対立がもはや見られないため、B国に向かうエネルギーを抑制する要素がない。A国は全力でB国に向かってくる。

 全体主義は、人間の理性が完全無欠であることを前提としている(以前の記事「大井正、寺沢恒信『世界十五大哲学』―私の「全体主義」観は「ヘーゲル左派」に近いと解った」を参照)。だが、歴史が証明しているように、人間の理性が無謬であることはあり得ない。国の方向性が間違っていることに気づいた国民は、やがて国家に対して反旗を翻す。二項対立的な発想をしていれば、反対派を国内の二項対立の構造に押し込めて対処することもできるが、全体主義国にはそうした装置がない。したがって、全体主義国は反対派を抹殺するしかない。だが、国家による暴力は国民のさらなる反発を招き、やがては自壊に至る。

 前置きが長くなってしまったが、米中関係を二項対立の構図でとらえてみたいと思う。まず、中国は内部に中華人民共和国(=反米派)と台湾(=親米派)という二項対立を抱えている。一方のアメリカは、反中派(=親台湾派)と親中派(=反台湾派)という二項対立を抱えている。表面的にまず観察されるのは、中華人民共和国とアメリカの反中派の対立である。加えて、中華人民共和国はアメリカの親中派を支援し、アメリカの反中派は台湾を支援する。これによって、アメリカ国内の反中派と親中派、中国内の中華人民共和国と台湾の対立が激化する。

 中国の場合、中華人民共和国と台湾の関係が入れ替わることがないというのが難点だが、形式上は一応、大国同士の二項対立の構図に収まっている。中華人民共和国が共産党の一党独裁でありながら崩壊しないのは、逆説的だが台湾という対立項を内部に抱えているからだと私は考えている。

 だから、逆に言えば、中華人民共和国、正確には中国共産党を崩壊させようとするのであれば、アメリカは台湾を独立させてしまえばよい。そうすると中国は全体主義に陥る。中国は、中華人民共和国と台湾の関係が固定的であるため、国内で反乱分子が生じた際にそれを国内の二項対立の構図で処理する術を持たない(反乱分子を台湾に押し込めるわけにはいかない)。簡単に言えば、反乱分子の取り扱いに慣れていない。そのため、現時点で既に、年間約18万回の暴動が起き、約10万人の共産党関係者が逮捕・検挙され、約100万人の国民が取り締まりを受けているという。この国家が全体主義に陥った時、内乱が拡大し、自ずと崩壊の道をたどるであろう(ただし、崩壊するのは中国共産党であって、中国自体は二項対立的な発想に従って新たな国家を建設するに違いない)。

大井正、寺沢恒信『世界十五大哲学』―私の「全体主義」観は「ヘーゲル左派」に近いと解った


世界十五大哲学 (PHP文庫)世界十五大哲学 (PHP文庫)
大井 正 寺沢 恒信

PHP研究所 2014-02-05

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 作家の佐藤優氏が本書のことを激賞していたが、確かに非常に解りやすい哲学の入門書である。特に、唯物論に関しては理解がしやすい。ブログ本館では、「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで、政治哲学についての知識が乏しいまま、全体主義などについて好き放題書いてきた。本書を読んでみると、私の全体主義についての理解は、ヘーゲル左派に近いのではないかと感じた。

 私の全体主義観を改めて簡単に整理すると、以下のようになる。

 ・唯一絶対の神が世界を創造した。
 ・世界には神の設計図が完璧に反映されており、合理的である。
 ・人間は神に似せて創造され、神の性質を継承している(以上、理神論)。
 ・人間は生まれた時点で完全であり、現在という一点において永遠である(過去や未来は存在せず、時間の流れもない)。
 ・神が無限であるのと同様に、人間も物質的には無限である。
 ・どの人間も神と等しく、自己と他者の区別はない。別の言い方をすれば、一(個人)は全体(神)に等しい。
 ・よって、所有権については、私有であると同時に共有であり、政治については、民主主義と独裁が両立する。
 ・人間は神と同じく絶対的であるから、絶対的に自由である。つまり、その自由を制約する法は存在しない。
 ・ところで、現実の人間は、生まれた時の能力が未熟である。しかし、全体主義においてはその能力を完成形と見る。人間が教育を受けずともできることとは、農業である。これと前述の共有財産が相まって、農業共産制が生まれる。
 ・また、現実の人間は死ぬ。全体主義においては、生まれた時点で能力が完成していると見るから、下手に教育を施すことは害である。教育を受けるぐらいなら、完成した能力を持ったまま早く死んだ方がよい。全体主義には現在しか存在しないため、死んだ人間の精神は再び現在に舞い戻って、新たな生として噴出する。こうして、人間は農業共産制を基礎とする革命を永遠に続ける。

 やや長くなるが、本書からヘーゲル左派に関する記述を引用する。
 すなわち、1つは、ヘーゲル哲学から神学的な衣裳をひきはがして、現実を唯物論的にとらえなおす方法である。ヘーゲルでは、現実は、本質としての神が、その創造した世界としての存在(existentia)と合一しているところのものとして神秘的に説明されてあが、この説明はいまや神秘の衣をはがれて、現象(existentia)のなかにその本質をさぐることにより、現実をそのいきたすがたで把握しようとする科学的な方法に変質させられる。

 そうすることによって、ヘーゲルの「現実的なものはすべて合理的である」という命題は、現象的に現実とみえているものがかならずしも真に現実的であるのではなく、日々に合理性をうしないつつあるものは、一見いかに現実的に強大にみえようとも、じつは日々に現実性をうしなってゆきつつあるものであって、反対に、いまは一見いかに力よわく非現実的にみえようとも、真に合理的であるものは、かならず勝利し、現実となる、という革命的な命題に転化させられる。現実は、神とか絶対的精神とかいうようなフィルターをとおすことなしに、そのもの自身にその具体的な諸条件において、とらえられる。―これは、シュトラウスやフォイエルバッハら「ヘーゲル左派」(青年ヘーゲル派)をつうじてマルクス、エンゲルスにいたる方向であった。
 上記のように、私なりに全体主義のことを何とか理解してきたが、実際には上記の内容では説明できないことがたくさんある。一部を挙げると次のようになる。これらの問いに答えていくことが、今後の私の課題である。

 ・実際の全体主義国家は、資本主義国家と同様に、いや資本主義国家以上の熱意を持って、科学的な発展を追求していた。ドイツのヒトラーや旧ソ連を見れば明らかである。人間が科学的に発展するということは、人間の能力が最初は制限されており、かつそれが時間の流れとともに向上することを前提としている。科学的発展の妥当性を全体主義の中でどのように説明すればよいのか?

 ・上記の説明では、全体主義と共産主義・社会主義を区別することができない。しかし、実際には両者は完全には一致しないはずである。両者が異なるからこそ、第2次世界大戦では全体主義のドイツと共産主義のソ連が対立した。両者を厳密に区別するには、どのような説明をすればよいか?また、第2次世界大戦において、ドイツとソ連はなぜ対立したのか?

 ・私の全体主義観では、民主主義と独裁が両立する。1人の政治的意思決定は全体のそれに等しく、全体の政治的意思決定は1人のそれに等しい。よって、意思決定の階層を想定する必要がない。ところが、実際の全体主義国家においては、独裁主義者がヒエラルキーの頂点に立って、権威主義的な政治を展開する。現在の中国がその典型である。全体主義と組織構造の関係、さらには全体主義における意思決定のプロセスをどのように説明すればよいか?

 ・私の全体主義観では、絶対的な人間の自由を制約する法は存在しない。ところが、全体主義が科学的な発展を追求する一方で、科学がもたらす弊害を左派は批判し、人間の諸活動を法によって制約しようとする。この矛盾をどう説明すればよいか?全体主義において、法とはいかなる意味を持つのか?
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、1,500字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

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(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)
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