こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

全体主義

佐々木卓也『冷戦―アメリカの民主主義的生活様式を守る戦い』―レーガンとトランプという行動が全く読めない2人の大統領の共通性


冷戦 -- アメリカの民主主義的生活様式を守る戦い (有斐閣Insight) 冷戦 -- アメリカの民主主義的生活様式を守る戦い (有斐閣Insight)
佐々木 卓也

有斐閣 2011-11-14

Amazonで詳しく見る

 冷戦はアメリカの「生活様式」をかけた戦いだったという。冷戦とは、端的に言えば自由主義と全体主義の戦いである。トルーマンは、自由主義的な生活様式とは、「多数の意志に基づき、自由な諸制度、代議政体、自由選挙、個人の自由の保障、言論・信仰の自由、政治的抑圧からの自由」によって特徴づけられる一方、全体主義的な生活様式は「多数者に対して強制される少数者の意志に基づく。それは恐怖と圧制、出版と放送の統制、形だけの選挙、そして個人の自由の抑圧に依存している」と述べた。

 ここでは、生活様式=政治となっている点が興味深い。以前の記事「丸山俊一『欲望の民主主義―分断を越える哲学』―民主主義の実現のために国民は政治に直接参加した方がよいのか?」で、アメリカ人は間接民主主義を採用しているが、心のどこかで政治に直接参加することを望んでいるようだと書いた。また、全体主義は、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」で書いたように、個人が全体に等しく、民主主義が独裁と両立するため、個人が全体であり、全体が政治であるという関係が成立する。個人は政治に参加するというよりも、個人が政治そのものとなる。政治と距離を置きたがる日本人には、なかなか理解が難しい点である。

 ピーター・ドラッカーは著書『産業人の未来』の中で、第2次世界大戦は、自由を全体主義から守る戦いだと述べた。だとすると、共産主義によって全体主義化していた当時のソ連が連合国側に立っているのはおかしな話になる。4年ほど前に、ブログ本館の記事「高橋史朗『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』―戦後の日本人に「自由」を教えるため米ソは共謀した」という記事を書いたが、考えが浅かったと反省している。

ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

Amazonで詳しく見る

 民主主義も全体主義も、啓蒙主義にルーツを持つ自由を内包している。全体主義においては、全ての人間が絶対的な理性を等しく有しているから、完全に自由に振る舞うことができる。その振る舞いは皆同じであるため、自由が衝突することがない。だが、概念上はそうであっても、実際に完全に自由に振る舞えるのは独裁者だけであり、独裁者の自由な意思が全てとされる社会では、人々の現実的な多様性は圧殺される。よって、全体主義は、理念的には自由を掲げながら、現実には大多数の自由を犠牲にするという矛盾を露呈する。

 他方、民主主義の場合は完全な理性を前提としない。理性には欠陥がある。それゆえ、ある人が自由に振る舞うと、別の人の自由を害する恐れがある。そうした利害を調整するためのメカニズムとして民主主義が採用されている。ソ連の自由とアメリカの自由は中身がまるで違うから、両国が日本に自由を教えるために結託したなどというのはちゃんちゃらおかしな話である。

 本書によると、アメリカがソ連と一緒に戦っているのは「偶然の一致」(ジョージ・ケナン)だったそうだ。何ともあっさりとした理由である。トルーマンは大統領になる前の1941年に、「我々としてはドイツが勝っているようであればソ連を助け、ソ連が勝っているようであればドイツを助けるべきである。そうすることでドイツとソ連ができるだけ多く殺し合うことになるであろう。ただし私はいかなる状況であれ、ヒトラー・ドイツの勝利を望まない」と、品性に欠く発言をしたそうだ。つまり、共産主義のソ連もナチスのドイツも恐るべき全体主義であるが、ドイツの方がより脅威であるから、ソ連は味方にしておこうというわけである。

 だが、1917年にレーニンが共産主義的な国際秩序を提唱した時、ウィルソンはこれに対抗する形で自由主義的な国際秩序を提唱している(後の国際連盟につながった)。ということは、1917年の時点で、既にアメリカはソ連の共産主義を警戒していたのであり、なぜそれ以降約20年にわたってその脅威に対処しなかったのかという疑問は生じる。また、共産主義という明確なイデオロギーを持つソ連よりも、1930年代に突然表舞台に登場し、アーリア人至上主義と徹底的なユダヤ人排斥以外にこれといった思想を持たないナチス・ドイツの方を恐れた理由が何であったのかもはっきりしない。今後も考察を続けたい論点である。

 さて、ブログ本館では度々、大国は二項対立的な発想をすると書いてきた。米ソ関係が最も解りやすいため、米ソ関係で説明する。矛盾するようだが、大国は自国の存続のために敵国を必要とする。アメリカは別の大国ソ連を敵として設定する。これが第一段階の二項対立である。ただ、大国も一枚岩で敵国に向かうわけではなく、国内は分裂する。これが第二段階の二項対立である。アメリカ国内は反ソ派と親ソ派に分かれる。同様に、ソ連国内は反米派と親米派に分かれる。アメリカで反ソ派が、ソ連で反米派が主流になる時、両国の緊張は最大となる。ただし、お互いに戦意が高まりすぎており、本当に武力衝突が起きると破滅的な結果が予想されるから、実はこのパターンでは戦争に発展しにくい。

 一方、政権交代などによってアメリカで親ソ派が、ソ連で親米派が台頭すると、対話ムードが生まれ、軍縮へと向かいやすい。戦争リスクが高まるのは、アメリカで親ソ派が、ソ連で反米派が主流になるといった具合に、均衡が崩れる時である。アメリカはソ連と融和したいが、ソ連はアメリカと戦いたくて仕方がない。ソ連からの圧力を受けたアメリカでは、非主流派である反ソ派の声がだんだんと大きくなり、主流派の親ソ派を戦争へと傾かせる。親ソ派はやむなくソ連と戦火を交えるものの、根が親ソであるからソ連に勝つ気はなく、ソ連の前に屈する。アメリカで反ソ派が、ソ連で親米派が主流になった時には、逆の現象が起きる。

 本書を読むと、

 ・第2次世界大戦ではソ連と一緒に戦いながら、内心では反ソであったフランクリン・ルーズベルト
 ・口先ではソ連を全体主義と批判しつつも、限定的な封じ込め作戦にとどまると同時に、中国をソ連に渡した点でソ連寄りであったトルーマン
 ・軍事費削減とソフト・パワーによる外交を掲げてソ連寄りであったアイゼンハワー(ただし、軍事費は減ったが核兵器は増えた)
 ・キューバ危機を経験し、反ソであったケネディ
 ・ソ連との外交樹立(1933年)以来アメリカがソ連と締結した協定数を上回る協定を在任期間中に締結しソ連寄りであったジョンソン
 ・デタント(雪解け)の象徴でソ連寄りであったニクソン
 ・逆に、反デタントを掲げ、反ソであったジャクソン
 ・ヘルシンキ宣言(1975年)という、一見するとソ連の外交の勝利に見える取り決めを結びながら、実は東欧で人権問題を監視するグループを発足させて、後の東欧諸国の共産体制崩壊を招く一因を作るなど、反ソであったフォード
 ・最初はデタントの再活性化に取り組んだが、ソ連のアフガニスタン侵攻を受けて軍事的封じ込めを復活させ、反ソであったカーター

と、アメリカでは政権交代を機に、ソ連に対する態度が変化している。本書は冷戦をアメリカ側から考察したものであるため、ソ連側の視点が少ないのだが、アメリカの政権交代と連動して、ソ連国内でどんな動きがあったのか分析してみたいものだ(ソ連のトップは共産党書記長であるが、アメリカの大統領よりもはるかに任期が長い。特定の書記長の態度が任期途中で変化することは、後に述べるゴルバチョフを除いてほとんどないと思われ、アメリカの政権交代を契機に、反米派と親米派のどちらかが書記長の近くで主流派の椅子を固めることにより、ソ連全体としての態度を形成していたという仮説を持っている)。

 アメリカ大統領で注目すべきは、カーターの次のレーガンである。彼はソ連を激しく批判し、NATOにINF(中距離弾道ミサイル)を配備させるなど、かなりの反ソであった。ところが、ヨーロッパでINF配備に対する強い反対運動が起き、国内でも核凍結運動が広がると、いわゆるレーガノミクスで経済が好調だったにもかかわらず、軍事費の増大により財政赤字が拡大している点を問題視するようになった。また、1983年のNATOの大規模軍事演習がソ連に相当な心理的ダメージを与えたこともあって、ソ連に対する態度を一転させ、ソ連に接近し始めた。

 当時のソ連の書記長はゴルバチョフであった。ペレストロイカ、グラスノスチを掲げて改革路線を進めたゴルバチョフであるが、最初は反米であり、アメリカの軍拡に対抗して軍事費を増やし続けていた。しかしながら、国内経済が不振を極め、アフガニスタン支援の見直しなど軍事費削減の必要に迫られるようになると、アメリカに対する態度を一転させ、アメリカに接近し始めた。そして、核実験の停止を提案し、核保有国の核兵器廃棄を求めた。両国の外交は、INF条約の締結(1987年)という形で具体的な成果に結びついた。

 レーガンの後に大統領となったブッシュ(父)は反ソであり、冷戦終結の前提としてポーランドとハンガリーの自由化・民主化、すなわち共産党体制からの脱却を挙げた。また、ブッシュの時代にはオーストリアの国境開放が実現し、東ドイツ国民が大量に流出した。これがベルリンの壁の崩壊(1989年)につながり、事実上冷戦は終結した。ヨーロッパにおける一連の動きに対して、ゴルバチョフはもはやソ連軍を送らなかった。アメリカは反ソ派(ブッシュ)が、ソ連は親米派(ゴルバチョフ)が主流となり、均衡が崩れて戦争リスクが高まったわけだが、冷戦は文字通り戦火を交えない戦争であったから、アメリカがソ連を押し切って、ベルリンの壁の崩壊という非軍事的要因をもって戦争を終結させたと言える。

 実は、冷戦の終結時期については、世界で見ても統一的な見解がない。通常の戦争と異なり、終戦宣言もなければ当事国間の条約もないからだ。本書の著者は、ベルリンの壁の崩壊とそれに続く東西ドイツ統一によって冷戦が終結したという立場である。ソ連崩壊は冷戦終結とは直接関係のない事象だとしている。しかし、そもそも冷戦とは冒頭で述べたように自由主義と全体主義の戦いであるから、どちらかを完全に打ち砕いたという事実をもって終結とするべきではないかという気がする。この点が非常に曖昧であるから、現在、中国というもう1つのモンスター共産主義国家の台頭を許してしまっているように思える。

 平成という時代が来年4月末で終わることから、「平成とはどういう時代であったか?」という問いがしばしば投げかけられる。「平成」という区切りは日本国内の事情によるものであるから、世界情勢と結びつけるのは不適切だろうと思いながら敢えてこの問いに答えるならば、「平成とは、冷戦が終わったと思っていたのに、実は終わっていなかった時代」と位置づける。

 その中国に対し、20世紀に熱心にアプローチしたのがニクソンとキッシンジャーである。一般に、フルシチョフによる毛沢東批判に端を発する中ソ対立につけ込んで、中国をアメリカの味方にすることで、ソ連を封じ込めるのが目的だったと言われる。しかし、本書によれば、ニクソンは米ソデタントに非常に熱心であった。ニクソンが中国との関係を改善させると、ソ連はまるで中国をアメリカに取られたことに嫉妬したかのようにアメリカに接近し、米ソ関係も改善した。

 個人的には、このデタントを仕掛けたのは、親ソ派ではなく、実は反ソ派であったのではないかと考える。デタントは東西交流の活性化を目指していたが、特にアメリカからソ連に対して、文化、芸術、思想、技術などを伝達することを目的としていた。ソ連は閉鎖的な国家であったため、自国の文化などを輸出することができなかったのに対し、アメリカは自由主義国家であるから、それを行うのは容易であった(旧ブログの記事「旧ソ連の共産主義が敗れたのは大衆文化を輸出しなかったせい?―『ソフト・パワー』(1)(2)」を参照)。アメリカの自由な文化や思想に触れたソ連の国民は、自国の政治体制に不信感を抱くようになり、体制を転覆させる―これが反ソ派の狙いであった。

 反ソ派は、デタントによって長期的にはソ連が崩壊すると読んでいた。だが、そうすると大国アメリカの敵がいなくなってしまう。そこで、ソ連と同じ共産主義国家である中国に目をつけ、中国を大国に育て上げて、将来の敵国にしようと目論んだ。そんな反ソ派の思惑を知らない親ソ派は、反ソ派の口車に乗せられて米ソデタントに走った。その勢いで、親ソ派は親中派となり、中国を積極的に支援するようになった。当時の中国は共産主義国とはいえ、経済的にも軍事的にもひ弱であった。親中派は、過去にアメリカが第三世界に介入して親米政権を樹立させたのと同様に、中国を親米国家に転換するつもりだった。

 半世紀近く前の中国は軟弱であり、反米派と親米派が未分離であった。誰が反米で、誰が親米か解らない、そもそも反米―親米という区分があるのかさえ解らなかったため、アメリカの親中派は手当たり次第に中国人を支援した。その結果、中国はあれよあれよと大国の地位まで上り詰めた。そして、大国の流儀に倣って、国内に反米派対親米派という二項対立を確立した。支援した中国人から多くの反米派が生まれるのを見て、『China 2049』を著したマイケル・ピルズベリーのような親中派は「騙された」と思った。一方、反ソ派は反中派に転じて、当初の狙い通り、大国となった中国の反米派と対峙することになった。

 だが、アメリカの親中派と中国の親米派は、意外と国内で力を持っているように思える。ピルズベリーが中国の「100年戦略」をすっぱ抜いても、アメリカの民間シンクタンク「プロジェクト2049研究所」が中国による台湾侵攻や尖閣諸島奪取の時期をリークしても、中国側は彼らを潰そうとしない。仮に中国の反米派が強ければ、どんな手段を使ってでも彼らを消し去るだろう(ブログ本館の記事「『世界』2018年10月号『安全神話、ふたたび/沖縄 持続する意志』―辺野古基地が米中のプロレスで対中戦略から外れたら沖縄は「他国の紛争に加担しない権利」を主張してよい」を参照)。そして、中国の本当の戦略を特定されないように、高度な情報戦を仕掛けるはずだ。中国がそうした情報戦にあまり積極的でないところを見ると、反米派は思ったほどの力を持っていない可能性がある。

 現在、米中では熾烈な貿易戦争が繰り広げられている。トランプがレーガンに憧れていることは有名だ。レーガンは元々俳優で政治経験がなく、就任当初は知性がないと散々非難されていた。ところが、実際には素晴らしい政治手腕を発揮し、前述のように冷戦終結への道筋をつけるという偉業を成し遂げた。レーガンは、大国の指導者としては珍しく、自分自身を二項対立させ、一方の項から他方の項へと、具体的には反ソからソ連寄りへと途中で態度を転換させた。

 トランプも実業家上がりで政治に疎く、レーガン以上に粗野である。仮にトランプがレーガンを見習うならば、レーガノミクスを真似たトランポノミクスの実現だけでなく、レーガン流の転向を見せるかもしれない。反中から突然中国寄りへと態度を変える可能性である。ここで、中国の習近平が反米を貫けば戦争のリスクが高まり、中国が勝利する確率も上がる。しかし、国内の親米派が一定の力を持っていることから、習近平はゴルバチョフのように、反米からアメリカ寄りへと態度を改める可能性の方が高い。お互いに歩み寄った米中が、ともに日本と協調するのか、逆に日本のはしごを外すのかはよく注視しておかなければならない。

森本あんり『宗教国家アメリカのふしぎな論理』―アメリカが自由と平等を両立させようとした結果


シリーズ・企業トップが学ぶリベラルアーツ 宗教国家アメリカのふしぎな論理 (NHK出版新書 535)シリーズ・企業トップが学ぶリベラルアーツ 宗教国家アメリカのふしぎな論理 (NHK出版新書 535)
森本 あんり

NHK出版 2017-11-08

Amazonで詳しく見る

 ブログ本館の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」で、アメリカのイノベーションは反知性主義で説明ができると書いたが、本書を読んでこれにはもう少し補足が必要だと感じた。

リベラリズム

 ブログ本館の記事「『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)」で上図を示した。私は、右派と左派の違いについて、右派は多様性を尊重するのに対し、左派は平等を重視し、特定の階層や階級に属する人、特定の属性を有する人を全面的に擁護するものだと考える。多様性を重視するのは右派ではなく左派ではないかという声もあるだろう。確かに、左派は例えばLGBTQのようなマイノリティにもっと着目せよと言う。ただし、LGBTQに対して、伝統的な男女間の婚姻関係と同様の法的保護を与えよと主張しているという点で、差を”揃えよう”、あるいは差が”なかったことにしよう”としているわけであり、実際には多様性を黙殺することによって強引に平等を実現している。

 これに対し、右派が多様性を扱う場合、人種、国籍、性別、年齢、出身地、宗教、価値観、親の地位、学歴、職業、婚姻状況などに違いがあるのには、それなりの理由があると考える。違いがあるのだから、社会(ヒエラルキー社会)における役割分担も異なる。よって、格差や不平等が生じるのは当然だとする。ただし、誰しもが自分の意見を述べる自由は有している(自由主義、リベラリズム)。下の階層に属するからというただそれだけの理由で、上の階層の人に対して自分の意見が言えないという状況は、本当の右派ではない。

 私はブログ本館で、近代の啓蒙思想、特にフランスの啓蒙主義が全体主義を招いたと説明してきた。ただ、これは一面的な見方ではないかと内心では常々思っていた。完全無欠の唯一絶対神に似せて創造された人間は、生まれながらにして完全な理性を持っているから、手を加えなくてよいと考えると、全体主義、社会主義につながる(ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。一方、人間の理性は生まれた時点では”眠った”状態であり、人生とは眠った理性を叩き起こし、完璧に向けて理性を磨き上げていく過程だと考えれば、科学技術の進歩の可能性が生まれ、同時に資本主義も発展する。私は後者の側面を軽視していた。

 (※)さらに言えば、両者の混合体とでも呼ぶべき「科学的社会主義」なるものがある。冷戦期のソ連は社会主義国でありながら科学技術の向上に血眼になり、実際に宇宙に人間を送り込むことにまで成功していた。この現象をどのように説明すればよいのかが、私にとっての今後の課題である。

 トランプ大統領が誕生したのは、没落した白人中流階級の強い支持があったからとされる。また、イギリスのEU離脱を支持したのは、EUから押しつけられる緊縮政策によって格差拡大の被害を被った労働者階級であったと分析されている。さらに、ヨーロッパでは、ドイツのAfD(ドイツのための選択肢)をはじめ、移民排斥を訴える政党が急速に支持を伸ばしているが、その背景には、大量の移民流入により若年層の失業率が上昇し、貧困にあえいでいるという実情がある。

 トランプ大統領も、EU離脱派も、移民排斥を訴える政党も、社会に広範囲に広がる弱者(マイノリティである弱者ではない点に注意すべし)にスポットを当て、彼らを救済すべきだと主張する。彼らこそ社会の全てであり、他の人間は悪であるという二分論に持ち込む。これは全体主義によく見られる排外主義である。さらに、こうした弱者は十分な教育を受けておらず、知識が乏しいと見られている。そこで、彼らからの支持を取りつけようとする人は、反知性主義に走る。

 反知性主義とは、単に知識の価値を否定する立場ではなく、知識層が権力を握っているという社会構造を批判する立場だと著者は指摘する。だから、本当であれば、弱者に対して、「君たちこそこの社会において権力を握るにふさわしい」とその政治的正統性を滔々と語りたいところである。だが、いかんせん弱者は十分な教育を受けていないため、そのような説明をしても聞き入れてくれない。だから、「君たちは絶対的に正しい。それ以外は皆クソだ」といった極端で過激なワンフレーズを多用するポピュリズムに傾倒する。トランプ大統領も、EU離脱派も、移民排斥を訴える政党も、一般的には極右とされるが、ラディカルな平等主義を志向しているという意味では、極左と呼ぶのが適切だと私は考える。

 全体主義―反知性主義―ポピュリズムは、社会に広範囲に広がる弱者をターゲットとして、彼らに合わせてそれ以外の者を平等に扱う、もしくは彼らに合わない人々を排斥するという立場である。これに比べれば、福祉国家はかなり穏健である。福祉国家は、社会のだいたい中間ぐらいに位置する層をターゲットとし、彼らに合わせて格差を調整し、平等の実現を目指す。誰もが一定の収入を得、それなりに豊かな暮らしを送り、必要な時には手厚い社会保障を受けられるようにするというのが福祉国家の目標である。

 ネオリベラリズムを左派に位置づけたのはなぜか?ネオリベラリズムは究極の自由競争を是とし、自由競争を勝ち上がった一部の者だけが社会の勝者であり、大量の敗者=弱者が生まれるのは仕方がないと割り切る。全体主義―反知性主義―ポピュリズムや福祉国家では、政府が誰を平等に扱うかを決定するのに対し、ネオリベラリズムにおいては政府が出る出番はない。市場という調整機能を通じて、自然と勝者が決まる。彼らは社会の富を独占し、富裕層なる一種の階級を形成する。富裕層が社会の全てだと見なされるという点では、全体主義―反知性主義―ポピュリズムが社会に広範囲に広がる弱者に、福祉国家が社会のだいたい中間ぐらいに位置する層に社会を代表させる点と共通する。だから私は、ネオリベラリズムを右派ではなく左派としている。

 興味深いことに、アメリカのイノベーションは、ネオリベラリズムと全体主義―反知性主義―ポピュリズムとががっちりと手を握ることによって成立していると私は考える。本書はアメリカにおいて宣教師がどのようにしてキリスト教を布教したのかを分析した本である。初期の宣教師は、教会の権威を頼りに、ヨーロッパから輸入された神学的解釈を人々に伝道していた。ところが、「アメリカ人にはそんな難しいことは理解できない」、「宣教師が教会の権威を盾にしているのはおかしい」と主張する人が出てきた。ここに反知性主義が現れるのであり、その担い手となったのが、巡回宣教師と呼ばれる人々であった。

 彼らは街中でいきなり布教活動を始める。ターゲットは、それほど教育を受けていない、社会の中で言えば中の下ぐらいに該当する人々である。巡回宣教師は、彼らにでも理解できる平易な内容で布教を行う。つまり、ポピュリズムである。ターゲットが中の下ぐらいの人々とはいえ、人数はたくさんいるから、彼らから少しずつお金を集めただけでも宣教師にとっては相当の収入になる。布教の新しい形を創造したという意味で、これはイノベーションと呼べる。

 だが、そういうイノベーションが有効だと解ると、自分の方がもっと上手に布教できる、もっと上手に人々を熱狂させることができるはずだと考える人たちが現れ、布教方法をめぐる激しい自由競争が始まった。彼らはプレゼンテーションの腕を磨き、出版物を通じて自身の考えを発信し、信者を獲得することに余念がなかった。やがて、競争を通じて人気宣教師が選別され、聴衆から得られる収入は一部の人気宣教師に集中するようになった。勝者となり、莫大な富を手にした人気宣教師は、後は悠々自適の余生を送ればよかった。

 一方で、説教を受けた中の下ぐらいの人々は、教えを実践したおかげで多少暮らし向きがよくなったとはいえ、アメリカ社会全体が成長しているため、依然として中の下にとどまっている。すると、未だ中の下を抜け出せない人々に向けて、何を信じるべきか、何をなすべきかを説く新しい布教スタイル=イノベーションをめぐり、再び自由競争が始まった。この後の過程は先ほどと同じである。

 アメリカは自由と平等を理念とする国である。まず、平等の理念によって、中流階級(その中でも、中の下ぐらいの人々)を社会の主役にする。一方で、彼らを救済するイノベーションは、自由の理念に基づいて激しい競争という門をくぐらせ、最終的に勝った一部のイノベーターだけが巨万の富を獲得する。

 だが、イノベーターのソリューションは、中の下ぐらいの人々を完全に救済するには程遠い。よって、未だに残る中の下ぐらいの人々を救済すべく、新たなイノベーション探しという名の激しい自由競争が始まる。そして、生き残った一部のイノベーターだけが富裕層の仲間入りをする。アメリカで繰り返されているのはこういう現象である。平等と自由を両立させようとした結果、言い換えれば、一見すると相容れないような全体主義―反知性主義―ポピュリズムとネオリベラリズムがタッグを組んだ結果、格差は固定され(るどころか拡大し)ている。

 1つ例を挙げると、アメリカの労働者(中の下ぐらいの人々)の多くは、非効率な仕事と劣悪な労働環境に悩まされている。そこに携帯電話というイノベーションが登場した。これによって、遠隔地間のコミュニケーションが効率化され、労働環境が改善されるはずであった。しかし、実際に起きたのは、休暇中であっても携帯電話が鳴り、休暇先でも仕事をしなければならないという悲劇であった。そこに、「口頭でやり取りをしているから非効率なのだ。文書化すればもっとスムーズに仕事ができる」という触れ込みで登場したのがパソコンである。だが、実際に起きたのは、作成すべき文書の急速な増大であり、四六時中文書を読んだり作成したりしなければ仕事が追いつかないという状況であった。

 そこで今度は、「パソコンがなくても、もっと手軽に文書の閲覧・編集ができる」という謳い文句でスマートフォンが登場した。しかし今度は、スマホ依存症という病的状態を生み出し、短文でしかやり取りができないという知性の低下をもたらした。この問題の解決策として次に提示されるのは、おそらくAI(人工知能)だろう。イノベーターは、「短文であっても、大量にデータを集めて解析すれば、機械が最適な判断をしてくれる」と売り込んでくるに違いない。

 儲かったのはネオリベラリズムで勝ち残った携帯電話メーカー、パソコンメーカー、スマートフォンメーカーであり(ここに将来、AI企業が加わるはずだ)、中の下ぐらいの人々の暮らし向きは、イノベーターの反知性主義―ポピュリズムによって固定されたままである。いや、どんどん高価になっていくイノベーションによって、イノベーターはますます金持ちになるが、逆に中の下ぐらいの人々はますます搾取されて、両者の格差は拡大する。

岸見一郎『アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために』―アドラーの左派っぽくない一面と左派っぽい一面


アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)
岸見 一郎

ベストセラーズ 1999-09-01

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 久しぶりにアドラー心理学を読み返してみた。アドラーは社会主義者である。社会主義は全体主義であり、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで何度か議論を展開したが、今一度簡単に整理すると次のようになる。

 人間は唯一絶対で完全無欠の神に似せて創造された。よって、人間もまた完全無欠の理性を持っている。完全無欠の理性は唯一絶対であるから、人間の創造性は必ず単一の方向に収斂する。「私の考えはあなたの考えと等しく、よって全体とも等しい」。したがって、近代化の産物であるかのようにとらえられている民主主義は、実は独裁と両立する。また、私とあなたが等しいということは、私は自分自身の身体を自由に処分することができないことを意味する。つまり、私有権が否定される。「私の財産はあなたの財産であって、よって全体の財産である」ことになり、共有財産制が選択される。

 人間の理性は生まれながらにして完全無欠である。だから、時間の流れが存在しない。将来に向かって能力を開発しようという発想はない。全体主義においては、時間は現在に固定される。教育者がよかれと思って幼子を教育することは悪である。そのため、全体主義の下では、しばしば知識層が迫害される。理想はあらかじめ固定されていて、絶対に動くことがない。

 また、人間の理性は唯一絶対であるから、理論的にはその人間が集合する社会もまた完全無欠である。しかし、現実には社会は様々な欠陥を抱えている。そこで、人間は理想の社会を実現するために革命を起こす。だがここでもう1つ問題が生じる。不老不死の神とは異なり、人間には寿命がある。しかも、全体主義では現在という時間しか存在しないため、人間の寿命は一瞬である。とはいえ、現在において一瞬にして死ぬということは、現在において一瞬にして生まれることでもある。よって、人間は一瞬の生死を繰り返しながら、永遠に革命を続ける。現在という1点において、生と死は連環する。ニーチェの言う永遠回帰である。

 だが、アドラーの心理学は、上記の全体主義のような硬直的なものではない。むしろ、伝統的な右派の考えに近いものがたくさん見られる。まず、アドラーは絶対的・客観的な真実というものを否定する。そうではなく、それぞれの人が主観的に心に抱いている事実を重視する。つまり、人間の考え方に多様性を認める。これは、本当の意味でのリベラリズムである。人間は自由である。ただし、自分の人生には自分で責任を持たなければならないと注文をつけている。

 全体主義においては私とあなたは完全に等しいため、両者が対立することはない。これに対して、各々が異なる思想を持っている自由主義の下では、私の自由が他人の自由と衝突することがある。その場合には、言葉によるコミュニケーションを通じて、自由を調整する必要があるとアドラーは述べている。そもそも、人間同士は解り合えないというのがアドラーの前提である。解り合えないから言葉によって解ろうと努力する。しかし、その努力が報われないこともある。その場合には、他人から嫌われてもよいとアドラーは言い切る。私とあなたが等しい全体主義では、他者から嫌われるという事象が発生することはあり得ない。

 全体主義は人間が生まれながらにして完全無欠の理性を持っているとするのに対し、アドラーは誰にでも劣等感があると説く。劣等感は病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激であると指摘する。言い換えれば、我々は劣等感があるから進歩しようと努力する。ここでは、時間が未来へと流れている。ただし、劣等感を隠すために自分は特別な存在であると見せかけることは優越コンプレックスであり、健全な心理状態ではない。優越コンプレックスとは逆に、劣等感が行き過ぎて、「どうせ自分なんて」などと自虐的になることは劣等コンプレックスであり、これもまた避けなければならない。

 全体主義は、いきなり社会全体を理想的なものにしようとする。他方、アドラーは、まずは目の前にいる他者との関係を重視する。劣等感がある自分という存在をありのままに認める「自己受容」、自分とは異なる価値観を持つ他者に接近する上での前提となる「他者信頼」、そして、他者を信頼し人間関係を前進させるための「他者貢献」、この3つがアドラー心理学の骨格である。一応私も経営コンサルタントの端くれなので、コンサルティングの用語を使って表現するならば、全体主義は演繹的なTo-Beに拘泥する。一方、アドラーは帰納的なAs-Isから出発し、望ましい方向を個別具体的に模索する、ということになるだろう。

 ただし、アドラーの心理学は、別の見方をすると左派的に映る部分がある。先ほど劣等感について触れ、劣等感が進歩の源泉であると書いたが、アドラーは別の箇所で「普通であることの勇気」が重要だとも書いている。つまり、人間はそのままでよいということである。この考えを認めると、人間の成長が阻害されてしまうような気がする。それに、そのままの人間を固定的に肯定することは、生まれたての人間の理性を絶対視する全体主義に通ずるように感じる。

 また、アドラーは縦(垂直)の関係ではなく、横(水平)の関係を重視する。例えば、親は子どもを褒めても叱ってもいけないとアドラーは主張する。褒める/叱るという行為は、親が子どもよりも上の立場である、つまり、親子関係が垂直関係であることに基づいているからだという。そうではなく、親子関係を対等と見なし、親は子どもを勇気づけることが重要であると説く。全ての人間が対等になれば、全体としてよい方向に向かっていくというのがアドラーの考えである。

 だが、保守主義的な立場から言わせてもらえば、人々の生まれた時期も社会における役割もバラバラである限り、その人々を水平線上に並べるのは無理があると思う。垂直的な関係があるからこそ、下の者は上の者を敬うという気持ちが生じ、それによって社会が安定する。加えて、下の者は上の者から学び、時には反発・批判しながらも、その考えに磨きをかけて後世に継承する。これが社会の発展につながっていく。それを、観念的に強引に水平関係に落とし込んでしまうと、全体主義のようにかえって時間の流れが止まり、アドラーの主張とは裏腹に、社会が停滞するのではないかと考える。

 アドラーの「目的論」にも批判を加えてみたい。例えば子どもが家で全く勉強をしない時、普通の人はその子どもに学習のモチベーションがないせいだと考える。これをアドラーは「原因論」と呼ぶ。ところが、アドラーは、その子どもの学習意欲の低さをモチベーション不足のせいにしない。アドラーは、その子どもが勉強をしないのは、彼に目的があったからだと解釈する。その目的のために―このケースでは、例えば親を怒らせて親の注意を引くために―勉強をしないというのである。これが目的論の考え方である。

 子どもが家で勉強をしないといった、他者に特段の迷惑をかけない問題のことを、アドラーは「中性的な問題」と呼ぶ。そして、この中性的な問題については、やはり罰してはならないのだと言う。子どもの人生は子どもの課題であって、大人が踏み込むべきではない。子どもには、悲劇的な結末を体験させてやればよい。具体的には、勉強しないと後からどれだけ苦労するか、子どもに味わわせてやればよい。これでは大人の心が痛むというならば、子どもの目的がもっと別のものに変わるように働きかけてやる。ただし、大人にできるのはそこまでである。

 この話を一般化すると、どんな考え方・行為であっても目的論の名の下に容認されることになる。全体主義は唯一絶対の理性を前提とするから単一の思想しか認めないが、左派にはもう1つの流れがある。それは、現実の人間は単一ではなく多様であることに着目し、その存在を全て無条件に、平等に容認するというものである。これは右派のリベラリズムと似ているが、決して同一ではない。

 リベラリズムでは、いくら自由が認められるとはいえ、他者の自由を侵害する場合には社会的制裁としての法が作動する(以前の記事「ティク・ナット・ハン『怒り―心の炎の静め方』―どんな相手とでも破綻した関係を修復できるというのは幻想」を参照)。しかし、アドラーの目的論に従うと、法による制裁の出番がない。どんなに危険な思想であっても、平等に扱わなければならない。「中性的な問題」であれば、社会に対してさほど悪影響もないだろう。だが、例えば子どもが万引きをした場合、いちいち子どもの目的を想像してそれを是認するべきなのだろうか?社会の秩序を乱す場合には、親が子どもを殴ってでもそれが悪であることを解らせる必要があるのではないだろうか?アドラーは、こうした「反社会的な問題」については沈黙しているように感じる。

ティク・ナット・ハン『怒り―心の炎の静め方』―どんな相手とでも破綻した関係を修復できるというのは幻想


怒り(心の炎の静め方)怒り(心の炎の静め方)
ティク・ナット・ハン Tich Nhat Hanh

サンガ 2011-04-13

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 本書を読むのは2回目である。1回目の時は気づかなかったのだが、著者のティク・ナット・ハン氏は「マインドフルネス」の師である。マインドフルネスとは、端的に言えば、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」である。マインドフルネスを実践すると、うつ病の症状の緩和、ストレスの低減、薬物依存の解消に効果があるとされている。その他の精神病患者に対する多くの治療効果も示し、心の健康に関する問題を鎮めるための予防的な方策にもなっている。

 企業間の競争が激しさを増す中で社員の仕事上のストレスが増大していることもあって、アメリカなどではマインドフルネスが広がりを見せている。例えばAppleの創業者スティーブ・ジョブズ氏、Salesforce.comのCEOマーク・ベニオフ氏といった経営者はマインドフルネスを実践している(いた)し、Google、Facebook、Yahooといった企業はオリジナルの研修を開発している。最近では、タイ北部のチェンライ郊外のタムルアン洞窟で、地元のサッカーチームの少年13人が大雨によって3週間も閉じ込められていたにもかかわらず、全員無事に救出されたのは、同行していたコーチがマインドフルネスを毎日少年たちに実践させ、心身を落ち着けていたことが大きいと言われている。

 先日の記事「稲盛和夫『考え方―人生・仕事の結果が変わる』―現世でひどい目に遭うのは過去の業が消えている証拠」でも書いたように、私は双極性障害Ⅱ型という精神疾患を患っている。前職のベンチャー企業に勤めていた頃に、仕事で極度のストレスにさらされたことが要因で、毎日何かしらの怒りを抱いていた。そのたびに物を投げつけたり、オフィスのドアを蹴飛ばしたりしていた(決して人に危害を加えたり、物を破壊したりはしなかったことだけはつけ加えておく)。夜寝ている時も、夢の中で怒っていることがあり、夢の中で自分が怒鳴っている声で夜中に目が覚めたことが何度もある。例えば、ホテルのフロントで現金を外貨に換金してもらおうとしたところ、6時間も待たされ、その間フロントのスタッフを怒鳴り続けるという夢を見て、その怒鳴り声で起きたことがある。

 治療を続けるうちにそのような症状は治まったものの、代わりに日常生活の些細なことでもイライラするようになった。カフェや電車で電話をする人、カフェや電車内で大声で話す人、電車内で音楽が音漏れしている人、電車内でスマホで写真を撮る人、電車内で足を組む人、飲食店で赤ん坊をちっとも泣き止ませようとしない親、飲食店でスマホ育児をする親、スーパーやコンビニでなかなか会計を済ませない客、歩道で横いっぱいに広がって歩く集団、駅でちんたらと歩く集団、エレベーターの出口で降りる人を通さずに出口をふさぐ人、風呂に入らずにきつい体臭を放つ人―こういう人に遭遇するだけで頭に血が上り、心拍数が上がる。普通の人でもイラっとするケースが含まれていると思うが、私は普通の人以上に怒りを覚えやすい。これはもう双極性障害の後遺症だと思って、治すのではなく上手く制御しなければならないと考えている。

 そのコントロール法をもう一度学び直そうと思って読み返したのが本書である。劣悪な環境で飼育された鶏の肉や卵を食べる時、我々は同時に怒りを消費しているという著者の指摘はなるほどと思った。雑誌やテレビも時として毒を含んでいるという。だから、我々は自然に育った牛、豚、鶏などを口にするべきである。怒りを含んだテレビや雑誌は回避するべきである。それでも怒りを感じる時には、呼吸を整えるとよい。怒りを感じると、我々の呼吸は短く浅くなる。そこで、意識的に深く息を吸い、吐き、呼吸を静める方法を知っておく必要がある。

 ここまでは私も納得することができた。最近は私も呼吸法を意識するようにしている。それでも怒りを抑えることが難しい場合は、自分からその状況を回避する(例えば、一時的にトイレや店外へ避難するなど)ように心がけている(もっとも、電車内だけは逃げ場がないため、未だに対処法に苦労している)。

 本書で引っかかったのは、どうしようもなく関係がこじれた2人の間で、一方がまずは「私は怒っています」と感情を表明し、「私は最善を尽くしています。私のため、そしてあなたのためにもこの怒りに対処しようとしています」と相手への信頼を示し、最後には「私を助けてください」と、自分に怒りを生じさせた相手に助けを求めれば、自ずと2人の間で対話が発生し、2人の関係が必ず修復に向かうと著者が主張していることである。簡単に言えば、「腹を割って話し合えば何でも解決できる」と言っているようなものである。これは、対話に絶対的な効力があるという言説を相手に無条件に受け入れさせようとしている点、そして対話を通じて何人も共通の見解に至ることができると信じている点で、私は人間の多様な意見や価値観をモノトーンに落とし込む全体主義的な発想だと感じてしまう。

 マインドフルネスを実践すれば、誰しもが宇宙の根底に存在する潜在意識に到達できるとされる。私はこれこそまさしく全体主義的だと思う。数年前に流行った「U理論」にも類似の傾向が見られる(ブログ本館の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」を参照)。U理論の場合は極端で、他者との相互作用がなくとも宇宙の潜在意識にアクセスすることができ、1人の意識がそのまま全体の意識に等しくなるという。こうなると独裁と民主主義の区別がない全体主義と何ら変わりがない。

 その点、本書の著者の言うマインドフルネスは、他者との対話を必要としているから、全体主義としては幾分ましな部類に入るだろう。マインドフルネスは、禅宗にルーツがある。マインドフルネスがこんなに全体主義的になってしまったのは、鈴木大拙が海外に紹介した禅の内容に問題があったのではないかと私は考えている(ブログ本館の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」を参照)。

 私は左派の全体主義者ではなく、右派の保守主義者なので、人間の考え方の多様性を認める。リベラリズムとは、本来右派の言葉である。ただし、私にとって正しいと思うことが、他者にとっても正しいとは限らない。私は私の価値体系に基づいて思想を形成しているのと同様に、他者は他者の価値体系に基づいて思想を形成している。その異なる思想を無理に統一しようとしてはならない。異なる思想が共存することを受容しなければならない。多少の喧嘩はするかもしれないが、いつまでも子どものように喧嘩を続けるのではなく、相手の存在を認めなければならない。相手の思想が受け入れがたいのであれば、相手のことを放置しておけばよい。仏教では縁切りが認められている。

 ただし、異なる思想を持つ人が自分の存在を脅かすとなれば話は別である。そのようなケースでは、誰でも怒りを覚える。その怒りを放置し、怒りのままに行動させると社会の混乱が予想される。よって、人々の怒りを抑制するために、攻撃者に対して社会的な制裁措置としての法が必要となる。

 日本の場合、多様な思想の共存を象徴するのが天皇である。天皇は、国民がどんな思想を持っていても、その思想が破壊的でない限り共存させる。これが、古来から日本人が大切にしてきた「和」の精神である。論語に「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」とある。小人(つまらない人)は、和を押し殺して人々の多様性を強制的に同化しようとする。だがこれは、これまで述べてきたように全体主義の発想である。これに対して君子(天皇)は、決して多様な思想を単一にせず、併存させて和を保つのである。

櫻井よしこ、呉善花『赤い韓国―危機を招く半島の真実』―全体主義的な韓国は「悪」を徹底的に叩くことでしか「善」を定義できない


赤い韓国 危機を招く半島の真実 (産経セレクト)赤い韓国 危機を招く半島の真実 (産経セレクト)
櫻井よしこ 呉善花

産経新聞出版 2017-05-02

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 韓国は儒教社会であるが、我々日本人が理解する儒教とは大分異なる。
 呉:儒教では、自然界を秩序づけている自然法則が、そのまま人間界をも貫いていると考えます。この普遍的な自然法則が朱子学でいう「理」です。それに対して物質的・現実的なものが「気」となります。そうした理解のうえで、「理=法」が「気=物」に秩序を与えるとされます。そのように、「理=法」を「気=物」に作用する超越的な実体とみなすところに、朱子学の最大の特徴があります。
 『論語』を読むと「天」という言葉が頻繁に出てくるが、これを普遍的な「理」としたのが朱子学である。こうした傾向は全体主義に陥る可能性があることを、私は以前ブログ本館の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」で指摘したことがある。
 呉:唯一の観点の共有ということは、全体主義の価値観が根強く残っていることを意味します。反対意見を持つことは悪になります。このような考えが作られたのは、約500年にわたって続いた李氏朝鮮王朝時代で、それがいまだに残っているのです。
 全体主義的な儒教において唯一絶対的に正しいものとは「仁」である。ところが、この仁というものは、『論語』を何回繰り返し読んでも、何となく理解できるようでなかなか理解できない難物である。
 仲弓、仁を問う。子曰わく、門を出ては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に承(つか)えまつるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。
 樊遅、仁を問う。子曰わく、居処は恭に、事を執りて敬に、人に交わりて忠なること、夷狄に之くと雖ども、棄つべからざるなり。
 顔淵、仁を問う。子曰わく、己を克(せ)めて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。而して人に由らんや。顔淵曰わく、請う、其の目を問わん。子曰わく、礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。(いずれも顔淵第十二)
論語 (岩波文庫 青202-1)論語 (岩波文庫 青202-1)
金谷 治訳注

岩波書店 1999-11-16

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 孔子は終始こんな具合である。仁とはつまり、自己を律し、他者に対して敬意を表し、自分より地位が低い者であっても大切に扱い、礼(規律)に基づいて物事を進めることだと言えそうである。だが、こんなに簡単に仁を要約してしまっては、2000年以上にわたり読み継がれてきた『論語』の深みが失われてしまうような気がしてならない。仁の意味するところを明らかにすることは非常に難しい。

 その難しさを韓国人も感じていることだろう。仁=唯一絶対的に正しいもの=善を定義できないならば、善でないもの=悪を明確にすればよい。そして、韓国にとっての悪とは、日本そのものである。東アジアを西洋の帝国主義から解放するどころか、朝鮮半島を併合して植民地にした日本、朝鮮半島の人々を軍艦島に強制連行して劣悪な条件の下で働かせた日本、太平洋戦争時には女性を慰安婦として働かせ、女性の尊厳を著しく傷つけた日本、韓国固有の領土である独島を竹島と呼んで日本の領土だと主張する日本、これらの全てが韓国人にとって悪である。だから、韓国人は徹底的に悪=日本を叩く。そうすることで、自らの全体主義を達成しようとしているのである。

 1981年生まれの私は、てっきり韓国が昔から民主主義国家だと思い込んでいたのだが、韓国は1948年の建国以来、軍事政権の歴史の方が長く、民主主義国家になったのは盧泰愚大統領が6・29民主化宣言を出した1987年以降のことにすぎない。軍事政権の下では、国民の感情は基本的に「反軍事」であった。「反軍事」は「反米」につながる。ところで、朝鮮半島の北側を見てみると、自分と同じ民族が反米を掲げて戦っている。ここで、「反米」から「民族主義」が生まれる。

 民族主義とは、自民族が他民族よりも優れているとする見方である。民族主義の攻撃対象は当初アメリカであったが、やがて攻撃対象が日本に移っていった。というのも、歴史を振り返れば、朝鮮半島は中国の中華思想にがっちりと組み込まれており、中国から離れれば離れるほど、民族のレベルが下がると考えているからだ。こうした歪んだ民族主義も、日本バッシングに輪をかけている。
お問い合わせ
お問い合わせ
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京から実家のある岐阜市にUターンした中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。双極性障害Ⅱ型を公表しながら仕事をしているのは、「双極性障害(精神障害)の人=仕事ができない、そのくせ扱いが難しい」という世間の印象を覆したいため。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
Facebookページ
最新記事
人気ブログランキング
にほんブログ村 本ブログ
FC2ブログランキング
ブログ王ランキング
BlogPeople
ブログのまど
被リンク無料
  • ライブドアブログ