こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

全体主義

岸見一郎『アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために』―アドラーの左派っぽくない一面と左派っぽい一面


アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)
岸見 一郎

ベストセラーズ 1999-09-01

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 久しぶりにアドラー心理学を読み返してみた。アドラーは社会主義者である。社会主義は全体主義であり、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで何度か議論を展開したが、今一度簡単に整理すると次のようになる。

 人間は唯一絶対で完全無欠の神に似せて創造された。よって、人間もまた完全無欠の理性を持っている。完全無欠の理性は唯一絶対であるから、人間の創造性は必ず単一の方向に収斂する。「私の考えはあなたの考えと等しく、よって全体とも等しい」。したがって、近代化の産物であるかのようにとらえられている民主主義は、実は独裁と両立する。また、私とあなたが等しいということは、私は自分自身の身体を自由に処分することができないことを意味する。つまり、私有権が否定される。「私の財産はあなたの財産であって、よって全体の財産である」ことになり、共有財産制が選択される。

 人間の理性は生まれながらにして完全無欠である。だから、時間の流れが存在しない。将来に向かって能力を開発しようという発想はない。全体主義においては、時間は現在に固定される。教育者がよかれと思って幼子を教育することは悪である。そのため、全体主義の下では、しばしば知識層が迫害される。理想はあらかじめ固定されていて、絶対に動くことがない。

 また、人間の理性は唯一絶対であるから、理論的にはその人間が集合する社会もまた完全無欠である。しかし、現実には社会は様々な欠陥を抱えている。そこで、人間は理想の社会を実現するために革命を起こす。だがここでもう1つ問題が生じる。不老不死の神とは異なり、人間には寿命がある。しかも、全体主義では現在という時間しか存在しないため、人間の寿命は一瞬である。とはいえ、現在において一瞬にして死ぬということは、現在において一瞬にして生まれることでもある。よって、人間は一瞬の生死を繰り返しながら、永遠に革命を続ける。現在という1点において、生と死は連環する。ニーチェの言う永遠回帰である。

 だが、アドラーの心理学は、上記の全体主義のような硬直的なものではない。むしろ、伝統的な右派の考えに近いものがたくさん見られる。まず、アドラーは絶対的・客観的な真実というものを否定する。そうではなく、それぞれの人が主観的に心に抱いている事実を重視する。つまり、人間の考え方に多様性を認める。これは、本当の意味でのリベラリズムである。人間は自由である。ただし、自分の人生には自分で責任を持たなければならないと注文をつけている。

 全体主義においては私とあなたは完全に等しいため、両者が対立することはない。これに対して、各々が異なる思想を持っている自由主義の下では、私の自由が他人の自由と衝突することがある。その場合には、言葉によるコミュニケーションを通じて、自由を調整する必要があるとアドラーは述べている。そもそも、人間同士は解り合えないというのがアドラーの前提である。解り合えないから言葉によって解ろうと努力する。しかし、その努力が報われないこともある。その場合には、他人から嫌われてもよいとアドラーは言い切る。私とあなたが等しい全体主義では、他者から嫌われるという事象が発生することはあり得ない。

 全体主義は人間が生まれながらにして完全無欠の理性を持っているとするのに対し、アドラーは誰にでも劣等感があると説く。劣等感は病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激であると指摘する。言い換えれば、我々は劣等感があるから進歩しようと努力する。ここでは、時間が未来へと流れている。ただし、劣等感を隠すために自分は特別な存在であると見せかけることは優越コンプレックスであり、健全な心理状態ではない。優越コンプレックスとは逆に、劣等感が行き過ぎて、「どうせ自分なんて」などと自虐的になることは劣等コンプレックスであり、これもまた避けなければならない。

 全体主義は、いきなり社会全体を理想的なものにしようとする。他方、アドラーは、まずは目の前にいる他者との関係を重視する。劣等感がある自分という存在をありのままに認める「自己受容」、自分とは異なる価値観を持つ他者に接近する上での前提となる「他者信頼」、そして、他者を信頼し人間関係を前進させるための「他者貢献」、この3つがアドラー心理学の骨格である。一応私も経営コンサルタントの端くれなので、コンサルティングの用語を使って表現するならば、全体主義は演繹的なTo-Beに拘泥する。一方、アドラーは帰納的なAs-Isから出発し、望ましい方向を個別具体的に模索する、ということになるだろう。

 ただし、アドラーの心理学は、別の見方をすると左派的に映る部分がある。先ほど劣等感について触れ、劣等感が進歩の源泉であると書いたが、アドラーは別の箇所で「普通であることの勇気」が重要だとも書いている。つまり、人間はそのままでよいということである。この考えを認めると、人間の成長が阻害されてしまうような気がする。それに、そのままの人間を固定的に肯定することは、生まれたての人間の理性を絶対視する全体主義に通ずるように感じる。

 また、アドラーは縦(垂直)の関係ではなく、横(水平)の関係を重視する。例えば、親は子どもを褒めても叱ってもいけないとアドラーは主張する。褒める/叱るという行為は、親が子どもよりも上の立場である、つまり、親子関係が垂直関係であることに基づいているからだという。そうではなく、親子関係を対等と見なし、親は子どもを勇気づけることが重要であると説く。全ての人間が対等になれば、全体としてよい方向に向かっていくというのがアドラーの考えである。

 だが、保守主義的な立場から言わせてもらえば、人々の生まれた時期も社会における役割もバラバラである限り、その人々を水平線上に並べるのは無理があると思う。垂直的な関係があるからこそ、下の者は上の者を敬うという気持ちが生じ、それによって社会が安定する。加えて、下の者は上の者から学び、時には反発・批判しながらも、その考えに磨きをかけて後世に継承する。これが社会の発展につながっていく。それを、観念的に強引に水平関係に落とし込んでしまうと、全体主義のようにかえって時間の流れが止まり、アドラーの主張とは裏腹に、社会が停滞するのではないかと考える。

 アドラーの「目的論」にも批判を加えてみたい。例えば子どもが家で全く勉強をしない時、普通の人はその子どもに学習のモチベーションがないせいだと考える。これをアドラーは「原因論」と呼ぶ。ところが、アドラーは、その子どもの学習意欲の低さをモチベーション不足のせいにしない。アドラーは、その子どもが勉強をしないのは、彼に目的があったからだと解釈する。その目的のために―このケースでは、例えば親を怒らせて親の注意を引くために―勉強をしないというのである。これが目的論の考え方である。

 子どもが家で勉強をしないといった、他者に特段の迷惑をかけない問題のことを、アドラーは「中性的な問題」と呼ぶ。そして、この中性的な問題については、やはり罰してはならないのだと言う。子どもの人生は子どもの課題であって、大人が踏み込むべきではない。子どもには、悲劇的な結末を体験させてやればよい。具体的には、勉強しないと後からどれだけ苦労するか、子どもに味わわせてやればよい。これでは大人の心が痛むというならば、子どもの目的がもっと別のものに変わるように働きかけてやる。ただし、大人にできるのはそこまでである。

 この話を一般化すると、どんな考え方・行為であっても目的論の名の下に容認されることになる。全体主義は唯一絶対の理性を前提とするから単一の思想しか認めないが、左派にはもう1つの流れがある。それは、現実の人間は単一ではなく多様であることに着目し、その存在を全て無条件に、平等に容認するというものである。これは右派のリベラリズムと似ているが、決して同一ではない。

 リベラリズムでは、いくら自由が認められるとはいえ、他者の自由を侵害する場合には社会的制裁としての法が作動する(以前の記事「ティク・ナット・ハン『怒り―心の炎の静め方』―どんな相手とでも破綻した関係を修復できるというのは幻想」を参照)。しかし、アドラーの目的論に従うと、法による制裁の出番がない。どんなに危険な思想であっても、平等に扱わなければならない。「中性的な問題」であれば、社会に対してさほど悪影響もないだろう。だが、例えば子どもが万引きをした場合、いちいち子どもの目的を想像してそれを是認するべきなのだろうか?社会の秩序を乱す場合には、親が子どもを殴ってでもそれが悪であることを解らせる必要があるのではないだろうか?アドラーは、こうした「反社会的な問題」については沈黙しているように感じる。

ティク・ナット・ハン『怒り―心の炎の静め方』―どんな相手とでも破綻した関係を修復できるというのは幻想


怒り(心の炎の静め方)怒り(心の炎の静め方)
ティク・ナット・ハン Tich Nhat Hanh

サンガ 2011-04-13

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 本書を読むのは2回目である。1回目の時は気づかなかったのだが、著者のティク・ナット・ハン氏は「マインドフルネス」の師である。マインドフルネスとは、端的に言えば、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」である。マインドフルネスを実践すると、うつ病の症状の緩和、ストレスの低減、薬物依存の解消に効果があるとされている。その他の精神病患者に対する多くの治療効果も示し、心の健康に関する問題を鎮めるための予防的な方策にもなっている。

 企業間の競争が激しさを増す中で社員の仕事上のストレスが増大していることもあって、アメリカなどではマインドフルネスが広がりを見せている。例えばAppleの創業者スティーブ・ジョブズ氏、Salesforce.comのCEOマーク・ベニオフ氏といった経営者はマインドフルネスを実践している(いた)し、Google、Facebook、Yahooといった企業はオリジナルの研修を開発している。最近では、タイ北部のチェンライ郊外のタムルアン洞窟で、地元のサッカーチームの少年13人が大雨によって3週間も閉じ込められていたにもかかわらず、全員無事に救出されたのは、同行していたコーチがマインドフルネスを毎日少年たちに実践させ、心身を落ち着けていたことが大きいと言われている。

 先日の記事「稲盛和夫『考え方―人生・仕事の結果が変わる』―現世でひどい目に遭うのは過去の業が消えている証拠」でも書いたように、私は双極性障害Ⅱ型という精神疾患を患っている。前職のベンチャー企業に勤めていた頃に、仕事で極度のストレスにさらされたことが要因で、毎日何かしらの怒りを抱いていた。そのたびに物を投げつけたり、オフィスのドアを蹴飛ばしたりしていた(決して人に危害を加えたり、物を破壊したりはしなかったことだけはつけ加えておく)。夜寝ている時も、夢の中で怒っていることがあり、夢の中で自分が怒鳴っている声で夜中に目が覚めたことが何度もある。例えば、ホテルのフロントで現金を外貨に換金してもらおうとしたところ、6時間も待たされ、その間フロントのスタッフを怒鳴り続けるという夢を見て、その怒鳴り声で起きたことがある。

 治療を続けるうちにそのような症状は治まったものの、代わりに日常生活の些細なことでもイライラするようになった。カフェや電車で電話をする人、カフェや電車内で大声で話す人、電車内で音楽が音漏れしている人、電車内でスマホで写真を撮る人、電車内で足を組む人、飲食店で赤ん坊をちっとも泣き止ませようとしない親、飲食店でスマホ育児をする親、スーパーやコンビニでなかなか会計を済ませない客、歩道で横いっぱいに広がって歩く集団、駅でちんたらと歩く集団、エレベーターの出口で降りる人を通さずに出口をふさぐ人、風呂に入らずにきつい体臭を放つ人―こういう人に遭遇するだけで頭に血が上り、心拍数が上がる。普通の人でもイラっとするケースが含まれていると思うが、私は普通の人以上に怒りを覚えやすい。これはもう双極性障害の後遺症だと思って、治すのではなく上手く制御しなければならないと考えている。

 そのコントロール法をもう一度学び直そうと思って読み返したのが本書である。劣悪な環境で飼育された鶏の肉や卵を食べる時、我々は同時に怒りを消費しているという著者の指摘はなるほどと思った。雑誌やテレビも時として毒を含んでいるという。だから、我々は自然に育った牛、豚、鶏などを口にするべきである。怒りを含んだテレビや雑誌は回避するべきである。それでも怒りを感じる時には、呼吸を整えるとよい。怒りを感じると、我々の呼吸は短く浅くなる。そこで、意識的に深く息を吸い、吐き、呼吸を静める方法を知っておく必要がある。

 ここまでは私も納得することができた。最近は私も呼吸法を意識するようにしている。それでも怒りを抑えることが難しい場合は、自分からその状況を回避する(例えば、一時的にトイレや店外へ避難するなど)ように心がけている(もっとも、電車内だけは逃げ場がないため、未だに対処法に苦労している)。

 本書で引っかかったのは、どうしようもなく関係がこじれた2人の間で、一方がまずは「私は怒っています」と感情を表明し、「私は最善を尽くしています。私のため、そしてあなたのためにもこの怒りに対処しようとしています」と相手への信頼を示し、最後には「私を助けてください」と、自分に怒りを生じさせた相手に助けを求めれば、自ずと2人の間で対話が発生し、2人の関係が必ず修復に向かうと著者が主張していることである。簡単に言えば、「腹を割って話し合えば何でも解決できる」と言っているようなものである。これは、対話に絶対的な効力があるという言説を相手に無条件に受け入れさせようとしている点、そして対話を通じて何人も共通の見解に至ることができると信じている点で、私は人間の多様な意見や価値観をモノトーンに落とし込む全体主義的な発想だと感じてしまう。

 マインドフルネスを実践すれば、誰しもが宇宙の根底に存在する潜在意識に到達できるとされる。私はこれこそまさしく全体主義的だと思う。数年前に流行った「U理論」にも類似の傾向が見られる(ブログ本館の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」を参照)。U理論の場合は極端で、他者との相互作用がなくとも宇宙の潜在意識にアクセスすることができ、1人の意識がそのまま全体の意識に等しくなるという。こうなると独裁と民主主義の区別がない全体主義と何ら変わりがない。

 その点、本書の著者の言うマインドフルネスは、他者との対話を必要としているから、全体主義としては幾分ましな部類に入るだろう。マインドフルネスは、禅宗にルーツがある。マインドフルネスがこんなに全体主義的になってしまったのは、鈴木大拙が海外に紹介した禅の内容に問題があったのではないかと私は考えている(ブログ本館の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」を参照)。

 私は左派の全体主義者ではなく、右派の保守主義者なので、人間の考え方の多様性を認める。リベラリズムとは、本来右派の言葉である。ただし、私にとって正しいと思うことが、他者にとっても正しいとは限らない。私は私の価値体系に基づいて思想を形成しているのと同様に、他者は他者の価値体系に基づいて思想を形成している。その異なる思想を無理に統一しようとしてはならない。異なる思想が共存することを受容しなければならない。多少の喧嘩はするかもしれないが、いつまでも子どものように喧嘩を続けるのではなく、相手の存在を認めなければならない。相手の思想が受け入れがたいのであれば、相手のことを放置しておけばよい。仏教では縁切りが認められている。

 ただし、異なる思想を持つ人が自分の存在を脅かすとなれば話は別である。そのようなケースでは、誰でも怒りを覚える。その怒りを放置し、怒りのままに行動させると社会の混乱が予想される。よって、人々の怒りを抑制するために、攻撃者に対して社会的な制裁措置としての法が必要となる。

 日本の場合、多様な思想の共存を象徴するのが天皇である。天皇は、国民がどんな思想を持っていても、その思想が破壊的でない限り共存させる。これが、古来から日本人が大切にしてきた「和」の精神である。論語に「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」とある。小人(つまらない人)は、和を押し殺して人々の多様性を強制的に同化しようとする。だがこれは、これまで述べてきたように全体主義の発想である。これに対して君子(天皇)は、決して多様な思想を単一にせず、併存させて和を保つのである。

櫻井よしこ、呉善花『赤い韓国―危機を招く半島の真実』―全体主義的な韓国は「悪」を徹底的に叩くことでしか「善」を定義できない


赤い韓国 危機を招く半島の真実 (産経セレクト)赤い韓国 危機を招く半島の真実 (産経セレクト)
櫻井よしこ 呉善花

産経新聞出版 2017-05-02

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 韓国は儒教社会であるが、我々日本人が理解する儒教とは大分異なる。
 呉:儒教では、自然界を秩序づけている自然法則が、そのまま人間界をも貫いていると考えます。この普遍的な自然法則が朱子学でいう「理」です。それに対して物質的・現実的なものが「気」となります。そうした理解のうえで、「理=法」が「気=物」に秩序を与えるとされます。そのように、「理=法」を「気=物」に作用する超越的な実体とみなすところに、朱子学の最大の特徴があります。
 『論語』を読むと「天」という言葉が頻繁に出てくるが、これを普遍的な「理」としたのが朱子学である。こうした傾向は全体主義に陥る可能性があることを、私は以前ブログ本館の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」で指摘したことがある。
 呉:唯一の観点の共有ということは、全体主義の価値観が根強く残っていることを意味します。反対意見を持つことは悪になります。このような考えが作られたのは、約500年にわたって続いた李氏朝鮮王朝時代で、それがいまだに残っているのです。
 全体主義的な儒教において唯一絶対的に正しいものとは「仁」である。ところが、この仁というものは、『論語』を何回繰り返し読んでも、何となく理解できるようでなかなか理解できない難物である。
 仲弓、仁を問う。子曰わく、門を出ては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に承(つか)えまつるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。
 樊遅、仁を問う。子曰わく、居処は恭に、事を執りて敬に、人に交わりて忠なること、夷狄に之くと雖ども、棄つべからざるなり。
 顔淵、仁を問う。子曰わく、己を克(せ)めて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。而して人に由らんや。顔淵曰わく、請う、其の目を問わん。子曰わく、礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。(いずれも顔淵第十二)
論語 (岩波文庫 青202-1)論語 (岩波文庫 青202-1)
金谷 治訳注

岩波書店 1999-11-16

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 孔子は終始こんな具合である。仁とはつまり、自己を律し、他者に対して敬意を表し、自分より地位が低い者であっても大切に扱い、礼(規律)に基づいて物事を進めることだと言えそうである。だが、こんなに簡単に仁を要約してしまっては、2000年以上にわたり読み継がれてきた『論語』の深みが失われてしまうような気がしてならない。仁の意味するところを明らかにすることは非常に難しい。

 その難しさを韓国人も感じていることだろう。仁=唯一絶対的に正しいもの=善を定義できないならば、善でないもの=悪を明確にすればよい。そして、韓国にとっての悪とは、日本そのものである。東アジアを西洋の帝国主義から解放するどころか、朝鮮半島を併合して植民地にした日本、朝鮮半島の人々を軍艦島に強制連行して劣悪な条件の下で働かせた日本、太平洋戦争時には女性を慰安婦として働かせ、女性の尊厳を著しく傷つけた日本、韓国固有の領土である独島を竹島と呼んで日本の領土だと主張する日本、これらの全てが韓国人にとって悪である。だから、韓国人は徹底的に悪=日本を叩く。そうすることで、自らの全体主義を達成しようとしているのである。

 1981年生まれの私は、てっきり韓国が昔から民主主義国家だと思い込んでいたのだが、韓国は1948年の建国以来、軍事政権の歴史の方が長く、民主主義国家になったのは盧泰愚大統領が6・29民主化宣言を出した1987年以降のことにすぎない。軍事政権の下では、国民の感情は基本的に「反軍事」であった。「反軍事」は「反米」につながる。ところで、朝鮮半島の北側を見てみると、自分と同じ民族が反米を掲げて戦っている。ここで、「反米」から「民族主義」が生まれる。

 民族主義とは、自民族が他民族よりも優れているとする見方である。民族主義の攻撃対象は当初アメリカであったが、やがて攻撃対象が日本に移っていった。というのも、歴史を振り返れば、朝鮮半島は中国の中華思想にがっちりと組み込まれており、中国から離れれば離れるほど、民族のレベルが下がると考えているからだ。こうした歪んだ民族主義も、日本バッシングに輪をかけている。

大山顕、東浩紀『ショッピングモールから考える―ユートピア・バックヤード・未来都市』―消費を全体主義化するショッピングモールに怖さを感じる


ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市 (幻冬舎新書)ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市 (幻冬舎新書)
東 浩紀 大山 顕

幻冬舎 2016-01-29

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 作家・思想家の東浩紀氏とフォトグラファー・ライターの大山顕氏の対談本。ショッピングモールに未来都市の理想を見るというショッピングモール礼賛本であり、正直なところ私は「怖い」と感じた。

 東氏の理想はこうである。まず、雨が降っていても自宅から濡れずに、また外がカンカン照りの日でも凍えるような寒さの日でも快適な温度に設定された屋根つきの通路を通って電車の駅まで行くことができる(東氏は自動車を運転しない)。電車に乗ってショッピングモールの最寄り駅まで行くと、改札口から同じく屋根つきの通路をくぐってショッピングモールに入る。ショッピングモールの動線は、まるでその設計者が来場者に対して順番に回るべき店舗を示唆するかのようになっていて、来場者は次々と設計者の意図通りに製品やサービスを購入していく。こうして丸1日を快適に過ごすことができるというものである。

 こうしたショッピングモールの理想を、現在最も近い形で実現しているのが、ディズニーワールドであると言う。ディズニーワールドは、大人から子どもまで誰もが1日中楽しめるように、アトラクションやショップ、内観のコンセプトや配置、動線などが心理学や人間工学などに基づき緻密に計算されている。
 東:でもまじめな話、今後ショッピングモールやテーマパークを考えていくためには、ディズニーワールドの達成を前提にしないと、大事なところを間違えてしまうと思うんです。テーマパークはいい意味でも悪い意味でもここまで行くんだぞ、と。

製品・サービスの4分類(大まかな分類)

製品・サービスの4分類(各象限の具体例)

 私はしばしば本ブログやブログ本館で上図を用いている。図の詳細な説明は、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴」をご参照いただきたい。ディズニーワールドは、上図の分類に従えば、左上の<象限③>に該当する。そして、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」、「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」でも書いたが、<象限③>は全体主義をアメリカなりに修正した結果出現した象限である。つまり、裏を返せば、<象限③>は全体主義に逆戻りするリスクをはらんでいる。

 今のところ、ディズニーワールドには競合他社が存在するから、顧客のレジャーは全体主義化されていない。ところが、仮にディズニーワールド一強の時代が到来したら、顧客はレジャーとしてディズニーワールドしか選択できず、そこではディズニーワールドの設計者の意のままに顧客がレジャーを消費する(いや、消費させられるという表現が正しいだろう)。つまり、消費が全体主義化することを意味する。ディズニーワールドには、生活水準がそれほど高くない人も訪れるというが、全体主義化された<象限③>は全世界中の人々をターゲットとするマスマーケティングを実施するため、必然的にこういう人たちも包摂することになる。

 ショッピングモールは上図では左下の<象限①>に該当し、本来であれば文化の違いなどに根差した多様性が追求される。ところが、著者らはこれを<象限③>へ移行させ、さらに全体主義化しようとしているようである。そこでは、気候、文化、言語、宗教、民族などの違いを超えたショッピングモールの普遍性というものが実現される。これがユートピアとしてのショッピングモールである。
 大山:モール性気候のみならず、モール性文化、モール性教国、モール性宗教・・・。
 石川(※ランドスケープ・アーキテクトの石川初氏):このシーンをぼくは「モールスケープ」と呼ぼうと思います。気温35度湿度80パーセントの熱帯都市に、人工的に気温27度、湿度55%の場所をつくり、ヤシの鉢植えを置いた広場に、北ヨーロッパの冬のジオラマを設置して、キリスト教由来のイベントを演出し、そこで防寒服を着用したヨーロッパ系の老人の人形と写真を撮る、ムスリムの親子。
 だが、別の箇所では、ショッピングセンターは土地の文脈を無視してはいけないと書かれていており、「ふくしまゲートヴィレッジ」を批判している箇所がある。
 大山:違和感というか、趣味の問題ですけど。土地の文脈をどう捉えるか、という点にぼくはすごく興味があるので。(中略)ショッピングモールをつくるひとは、たんなる商業施設ではなく街をつくろうとする。だから、その地域がもともと持っている文脈を強く意識して、それをなんとか活用しようとする。
 この点を踏まえれば、ショッピングモールを<象限①>から<象限③>へと移行させ、さらに普遍性を追求する=全体主義化する試みは無謀であると言わざるを得ないように感じる。土地の文脈を追うということは、その土地の上に成り立っている人々の生活・風習・価値観の物語を追うことを意味する。そして、土地の数だけ物語は存在するわけであり、したがって、ショッピングモールもその物語を反映させた固有のものでなければならない。それを無理やり普遍化=全体主義化しようとしているところに、本書の「怖さ」を感じる。

重田園江『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』―近代の「規律」は啓蒙主義を介して全体主義と隣り合わせ


ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)
重田 園江

筑摩書房 2011-09-05

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 日本で言えば磔や引き回し、海外で言えばギロチンなどの刑は、現代からすると人間性を無視した非道な刑罰だと思われがちだが、フーコーはそのように考えない。刑罰は時代や社会の事情を反映したものであり、そのあり方を決めるのは政治である。だから、現代の自由刑と過去の身体刑を比べて、どちらがより残酷であるとか、どちらがより人道的であるといったことを決めることはできない。

 フーコーが「古典主義時代」と呼ぶフランス絶対王政の時代には、主権、つまり法を与える権能は王にあった。王こそが全ての法源である。よって、犯罪というのは王の正統性に対する侵害である。その侵害の程度が重大であればあるほど、王は犯罪者をあらん限りの力で消滅させるのが当然であった。人々に犯罪に対する抑止力を働かせるため、犯罪者は大衆の面前で罰せられた。こうした王の権力は、剣による権力、王による至上権、王による生殺与奪権、法的・主権的権力などと呼ばれる。別の言い方をすれば、王の権力とは、人々を「死なせるか、生きたままに放っておくか」という権力である。

 近代に入ると、主権が王の手から国民の手に移った。国民主権においては、国民が民主主義によって法を作っていく。それから、近代になるともう1つ重大な変化が生じた。それは、経済の発展により、窃盗などの経済化した犯罪が増加し、しかも、その犯罪を実行するのはプロの小集団であったということである。こうした状況に対して、当時勃興した啓蒙主義は2つの方向性を目指した。1つは、犯罪者であっても自立的で判断力に長け、物事の善悪を自分で決められる、つまりは良識を持った人間へと改良するというものである。もう1つは、人々が罪と罰とを頭の中で即座に結びつけられるようにすることである。例えば、窃盗を犯すとこういう罰を受けるから、窃盗をするのは止めよう、と人々に思わせることである。よって、犯罪が多様化すれば、自ずと刑罰も多様化することが想定される。

 ところが、実際には増加する犯罪者を効率的に処罰するために用いられたのは、「監獄における規律」という自由刑(犯罪者から自由を奪う刑)であった。どんな犯罪を犯した者でもまずは監獄に収監され、彼らは監獄のルールの下で、決まりきった1日のスケジュールに従って生活し、労働する。啓蒙主義は人間の可能性に光を当てるものであったが、現実的には効率性の方が優先された。

 フーコーの指摘が面白いのは、規律は近代になって発明されたわけではなく、古代からあった様々な手口の組み合わせであるとしている点である。加えて、規律は監獄を超えて我々の日常生活にも浸透するようになった。犯罪を取り締まるために、都市にはポリス(行政警察に近い)が張り巡らされた。さらに、規律は学校や工場などでも用いられるようになった。

 王の権力は、「人々を死なせるか、生きたままに放っておくか」という権力であったが、逆に規律型権力は「人々を生かす権力」である。なぜそこまでして人々を生かす必要があるのか、ここでフーコーは国家理性に注目する。従来の国家は、国家を超越する神や自然の法に従うものとされていた。ところが、フーコーは、国家は存続そのものが自己目的化していると指摘する。そして、国家の存続には国家の力が必要である。国家の力を構成する要素は数多く存在するのだが、その中でも「人々の数」は大きなウェイトを占めている。だから、権力によって人々を生きさせることが極めて重要である。この権力は「生の権力」とも呼ばれる。

 ところで、啓蒙主義の観点からすると、監獄における規律、規律的権力は明らかに失敗である。人間の多様性に着目するどころか、効率性を優先し、人間を画一的に扱っている。ここでフーコーは、なぜ監獄は失敗なのかとは問わない。失敗している監獄は何かの役に立っているのかという問いを立てる。

 近代に入って急速に力をつけてきたのはブルジョワジーである。彼らにとっての敵は、従来型の王と下層民であった。特に、下層民を敵視していた。ブルジョワジーは、下層民の犯罪行為(労働忌避、機械の打ちこわし、商店の襲撃など)と政治的行為が結びついて秩序転覆を図る危険を最小限に抑え、犯罪者集団を一般人から区別する必要があった。そのために監獄は利用された。犯罪が既存の秩序を脅かすどころか、秩序に組み込まれ、ブルジョワジーに役立つ形で存続するなら、ないよりもあった方がましなのであった。

 先ほど、監獄による規律は啓蒙主義の目指した方向性と異なると書いたが、個人的には、啓蒙主義と監獄による規律は容易に結びつくものではないかと感じる。啓蒙主義とは、人間理性の至上性を強調し、理想の人間を追求する試みである。ただ、啓蒙主義は全体主義に転ずる可能性と常に隣り合わせである(以前の記事「大井正、寺沢恒信『世界十五大哲学』―私の「全体主義」観は「ヘーゲル左派」に近いと解った」を参照)。啓蒙主義が人間理性の至上性を説く時、それはややもすると人間理性の唯一絶対性と完全無欠性を説くことになる。これらは全体主義の特徴である。啓蒙主義的―絶対主義的目的を達成するためには、画一的な規律はまさにうってつけの手段となる。
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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

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