教科書も間違っていた 歴史常識のウソ教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
常識のウソ研究会

彩図社 2015-03-24

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 (1)歴史家は、偉人の晩年や死の直前などに名言を言わせて、その人物に”箔”をつけたがるようだ。それが歴史の捏造につながってしまうケースは少なくない。例えば、古代ローマのユリウス・カエサルは、信頼していた部下ブルータスに裏切られて刺された時、「ブルータス、お前もか」と言ったとされる。しかし、これは後年の歴史家による作り話である。この言葉が最初に登場するのは、ウィリアム・シェークスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』である。

 地動説を唱えてカトリック教会と対立したガリレオ・ガリレイは、2回目の裁判で「それでも地球は回っている」と言ったとされる。だが、当時のガリレイは高齢で歩くのも難しく、当初は出廷を断らざるを得ないほどの状態だった。それに、ガリレイ自身は敬虔なクリスチャンであり、そんな彼が教会を刺激する激しい言葉を吐いたとは考えにくい。やはりこれも、後年の歴史家による作り話である。

 自由民権運動で有名な板垣退助は、岐阜で演説中に聴衆に刺され重傷を負った。その時の有名な言葉が「板垣死すとも自由は死せず」というものだ。しかし、実際には板垣の言葉ではなく、板垣と同じ自由民権家であった内藤魯一の言葉である。よく考えてみれば、死期が近い人や重傷を受けた人が、とっさに名言を思いつくのは、いくら偉人と言えども難しいはずだ。板垣が襲撃を受けた時、本当は「痛い、医者を呼んでくれ」と言ったそうだ。これが普通であろう。

 1995年、地下鉄サリン事件に関与したとされる村井秀夫が、マスコミに囲まれている中で刺殺された時、彼は「イテッ」と一言漏らしただけだったことを思い出した。もっとも、彼はプラスの意味で歴史に名を遺した偉人ではないが。

 (2)日本の歴史教科書は、戦後に米ソ両方の影響を受けたと私は考えている。ソ連の影響とはつまり、共産主義の影響である。共産主義は、身分制が固定されているという前提に立って、下位の身分が革命によって上位の身分を打倒することを目指すイデオロギーである。それを受けて、江戸時代には士農工商という身分制度があり、農民(百姓)は領主に反抗するためにしばしば百姓一揆や打ちこわしを起こした、と説明されてきた。

 しかし、士農工商はそもそも日本の言葉ではなく中国の言葉である。武士という身分は確かにあったが、それ以外の人々の呼称は住んでいる地域によって決まっていた。農村部に住む人は、農民だろうが、鍛冶屋だろうが、医者だろうがすべて「百姓」。城下町に住む人は、商売人だろうが職人だろうが、すべて「町人」と呼ばれた。百姓と町人の境界は流動的であり、百姓から町人に、逆に町人から百姓になる者も多かった。さらに、実力を買われて百姓から武士になったり、武士が自分の借金を帳消しにするため町人に買収されて町人になることもあった。

 百姓一揆の目的も、領主(武士)を打倒することではなかった。百姓は自分たちの生活や身の安全を守ってもらうために領主を必要としていたし、領主は百姓が納める年貢に生活を依存していた。百姓が立ち上がるのは、領主によい政治を行ってもらうためであった。百姓一揆の絵には、百姓が農具を掲げている姿がよく描かれている。しかし、あれは自分が百姓であることをアピールするためのものであり、領主に向けて振りかざしたのではない。現代で言えば、大衆がプラカードを持ってデモ行進をするようなものである。

 日本の歴史教科書は、ソ連の影響を受けると同時に、なぜかアメリカの影響も受けているというのが私の見立てである。冷戦を戦った両国双方からの影響を受けたのは、日本固有の二項「混合」精神が発揮されたせいではないかというのが現段階での仮説である。アメリカ社会は中央集権型である。だから、日本の社会構造も中央集権型によって把握しようとする。

 3世紀までに、近畿地方に強大な権力を持つ「大和朝廷」が成立したというのが、私が子どもの時に受けた教育であった。ところが、近年は「ヤマト政権」と表記されているそうだ。「大和」が「ヤマト」になったのは、中国の文献でこの政権の漢字表記が統一されていなかったためである。「朝廷」が「政権」に改められたのは、当時は天皇が絶対的な権力で統治していたのではなく、地方の豪族が緩やかにつながる連邦制のような政治体であったことが明らかになったからだ。

 アメリカ的な歴史観は、幕府にも強大な権力を与えようとする。鎌倉幕府は全国に初めて守護・地頭を置き、統一的な支配体制を整備したとされる。また、江戸幕府は、諸藩を親藩、譜代、外様とランク分けし、彼らを幕府の好きな場所に配置するとともに、参勤交代などの制度と合わせて各藩へ強い影響力を発揮したと説明される。ところが、実際の鎌倉幕府は、天皇家から見れば、東国の一武将にすぎなかった。江戸幕府も、現実には地方分権によって支えられていた。

 私は、日本社会の本質は中央集権型ではなく、分権型であると考える。中央が明確な命令を出し、下位の者はそれに忠実に従うだけの関係ではない。中央はアバウトな命令しか出さず、下位の者は創意工夫を凝らしてその命令を具体化していく。時には、最初の命令が間違っていたと中央に報告(諫言)することもある。山本七平の言葉を借りれば「下剋上」である。

 現在の日本社会は、戦後のGHQの指導により、中央集権的に設計されている。しかし、これは日本の本質に合致していないと思う。その弊害はあちこちに表れている。特に、行政の分野では、地方自治体が国の方ばかりを向いていて、国が描く絵空事を、絵空事のまま地方で実現しようとする。だから、どう考えても採算に乗らない箱モノが乱立するし、どの自治体も似たり寄ったりの施策を展開する。国が絵空事を描いているのが悪いのではない。国は現場から離れているのだから、絵空事しか描けない。その絵空事に対して、各地の実情を踏まえて、肉付けをしたり削ったりしながら下剋上を果たす。それが自治体の仕事である。

 (ところで、先ほどアメリカは中央集権型と書いた。アメリカでは強いトップダウン型のリーダーシップが期待される。一方で、アメリカは建国当初から連邦制を採用している。それぞれの州は合衆国憲法とは別に州の憲法を持つことができ、州独自の議会や軍隊を持つ。表向きは中央集権を掲げながら、実態面ではかなり分権が進んでいる点をどのように解釈すべきかは、今後の私の課題である)