応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)
呉座 勇一

中央公論新社 2016-10-19

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 戦国時代の口火を切った応仁の乱に関する1冊。読むのにかなり骨が折れる大作だった。応仁の乱の背景は次の通りである。まず、幕府の管領家である畠山・斯波両氏の家督相続をめぐる争いが起こり、次いで8代将軍足利義政の弟義視と、義政の妻日野富子の推す子義尚との将軍家の家督相続争いが起こった。そして、当時幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元と山名宗全が、それぞれ義政・義尚と義視を支援して対立は激化し、1467年、応仁の乱が始まった。

 守護大名はそれぞれ両軍に分かれ、細川方(東軍)には24か国16万人、山名方(西軍)には20か国11万人と言われる大軍(いずれも諸説あり)が加わった。主戦場となった京都の町は戦火に焼かれ荒廃するとともに、争乱は地方へ広がった。応仁の乱は、1477年、戦いで疲弊した両軍の間に和睦が成立して一応終止符が打たれたが、この乱により将軍の権威は失われ、争乱はその後も地域的争いとして続けられて全国に広がっていった。

 応仁の乱後も幕府の混乱は続いた。足利義材(のちの義稙)は、義視の嫡子である。義材の従兄の9代将軍義尚が病死すと、義材は父とともに上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍義政や細川政元などは、義材の従兄清晃を推す。しかし、日野富子が甥である義材を後援し、義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定する。

 明応2年(1493年)、元管領畠山政長は敵対する畠山基家(畠山義就の子)の討伐のため、義材に河内親征を要請した。ところが政元は、義材に不満を抱き始めた日野富子や赤松政則、伊勢貞宗を抱き込み、清晃を還俗させて11代将軍(足利義澄)に擁立してクーデターを決行した。これが明応の政変である。ここに、義澄と義稙という2人の将軍が並立する異常事態が出現する。

 しかも、この対立は義澄・義稙の代では決着せず、各々の後継者も将軍の座をめぐって抗争を続けたため、「2人の将軍」の並立は常態化した。むろん、一方が朝廷から征夷大将軍に任命されれば、もう一方は正式な将軍ではないわけだが、そのような形式はもはや無意味になっていた。近年の研究では、応仁の乱ではなく、この明応の政変をもって、戦国時代の幕開けとする主張も見られる。

 思えば、室町時代の始まりも抗争にまみれていた。鎌倉中期以降、皇室は後深草上皇の流れの持明院統と、亀山天皇の流れの大覚寺統に分かれて権力争いを始めた。そこで14世紀初め、鎌倉幕府は解決策として両統が交代で皇位に就く方式(両統迭立)を定めた。1336年、京都を制圧した足利尊氏は、持明院統の光明天皇を立て、幕府を開く目的の下に、当面の政治方針を明らかにした建武式目を発表した。大覚寺統の後醍醐天皇は京都を逃れ、吉野の山中に立てこもって、正統の皇位にあることを主張した。ここに、吉野の南朝と京都の北朝が対立して、以後約60年に渡る全国的な動乱が始まった。

 1336年から1573年まで続いた室町時代のうち、最初の約60年は南北朝の動乱の時代であった。そして、1467年からは応仁の乱が始まり、そのまま戦国時代に突入した。そう考えると、約240年続いた室町時代の中で、大きな争乱がなかったのは約70年ほどにすぎなかったことになる。非常にプリミティブな感想だが、この状態でよく日本が滅亡しなかったなという印象である。これだけ混乱が続いたにもかかわらず、日本が存続できた理由の方に関心が湧いてきた。

 ところで、本書は興福寺の経覚と尋尊の日記である『経覚私要鈔』と『大乗院寺社雑事記』に多くを依拠している。現代の我々の感覚からすると、日記が歴史的事実の有力な裏づけとなるとは考えにくい。ところが、当時の日記は、後継者に対して自分が務めてきた業務を引き継ぐマニュアルの役割を果たしていた。そのため、当時の出来事が正確に記録されており、研究者が史実を追いかけるのに非常に重要な位置づけを占めているのだという。