こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

啓蒙主義


丸山俊一『欲望の民主主義―分断を越える哲学』―民主主義の実現のために国民は政治に直接参加した方がよいのか?


欲望の民主主義欲望の民主主義 分断を越える哲学 (幻冬舎新書)
丸山 俊一 NHK「欲望の民主主義」制作班

幻冬舎 2018-01-30

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 「欲望の民主主義」というタイトルがついているのは、アメリカのトランプ現象、イギリスのEU離脱、フランス極右政党の台頭など、多数の民意を反映した選択は、目先の利益のみを優先しており、協調、協和といった精神からかけ離れたむき出しの欲望が民主主義と結びついた結果であるという意識が反映されているためである。今回の記事では、「民主主義の実現のためには、国民は政治に直接参加した方がよいのか?」というテーマを扱ってみたいと思う。

 アメリカ人は、伝統的に権力を嫌う傾向があり、権力の代表格である政府は小さければ小さいほどよいと考えている一方で、自らの幸福を実現するために政府を必要とするというねじれた感情を持っている。政治家側も、本書で紹介されているように、例えばベンジャミン・フランクリン大統領は、国民と一緒に政治を決定しようとした。フランクリンは何か問題が起きると人々を集め、消防団が必要となれば、どうやって火を消すかを一緒に協議した。同じやり方で、学校や水道、交通、郵便のシステムを作り上げたのもフランクリンである。

 ただし、アメリカ人は、心の奥底では国民と大統領が直接つながることを警戒している。トランプ大統領は、ポピュリズムによって、国民と深くつながりすぎた大統領と見なされている。神学者である森本あんり氏はアメリカを宗教国家であるととらえており、宗教国家においては人々が本当につながりたいのは神であって、大統領や政府ではない。とはいえ、元々アメリカは、宗教の自由を確保するために政府を作った国である。だから、やはり政治は必要なのである。

 アメリカの場合、その政治を担う上で重要な役割を果たしているのが中間者団体である。国民は、中間者団体の活動に協力することによって、政治に近づきすぎることなく、かといって政治を完全に拒絶することもないという絶妙なバランスを取っている。ところが、アメリカの選挙にかかる資金は膨れ上がる一方であり、選挙はマネーゲームの様相を呈していて、資金調達力が強い私欲的な中間者団体が勝つという意味で、民主主義は劣化している。

 歴史の針を戻して、近代フランスに目を向けてみよう。フランスではルソーが啓蒙主義の確立に大きく寄与した。ところが、ホッブズ―ロック―ルソーと続く啓蒙主義の系譜が全体主義につながっていったことは、経営学者のピーター・ドラッカーがまだ主に政治学者として活動していた時期から指摘していたことでもあり、啓蒙主義がどのようにして全体主義に転ずるかについては、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」でもまとめておいた。本書によると、フランスは、自国発の啓蒙主義がドイツやソ連などでファシズムに発展してしまうのを苦々しく見ていたそうだ。

 それでは、フランス国内の実情はどうであったか?本書によれば、20世紀前半のフランスは、権威(国家)主義VS無政府主義、集団的防衛戦略VS個人主義という対立で揺れ動いていたそうだ。権威(国家)主義者は、人々が国家という暴力装置を作ることで、集団で自らを防衛することを目指した。他方、無政府主義と個人主義の組み合わせは全体主義に流れやすい。啓蒙主義によって絶対視された理性が等しく個人に宿るならば、政府を作らなくても個人が直接政治を行えばよい。しかも、誰が意思決定をしても、その結果は必ず等しくなる。当時は、「右岸はお金を使い、左岸は頭を使うところ」と言われていたという。

 左岸、つまり無政府主義と個人主義の組み合わせのメリットは、アメリカと違って、中間者団体を不要とした点である。国民が政治家であり、政治家が国民であるという一体的な等式が成り立つ。一方、フランスの場合、左岸には協力、連帯が欠けていた。これは当時の国際調査からも明らかになっているそうだ。1968年5月には、パリで学生が労働者や大衆の一斉蜂起を主導し、それに伴う政府の政策転換を謀った事件があった(5月危機、5月革命)。だが、労働者間の協力に欠けるこの運動は、結局は成就しなかった。労働者は口先では連帯を唱えているにもかかわらず、バカンスになると帰ってしまうぐらいだったらしい。

 啓蒙主義が生み出した負の側面を暴いた人物にオルテガがいる。啓蒙主義は理性の力を信じ、自然界や社会の法則を全て明らかにするはずであった。ところが、研究が進むにつれて研究分野がどんどん細分化され、特定の分野を専門とする研究者は、他の研究分野に関心を示さなくなった。自分が取り組む分野と密接に関係する分野ですら理解することができなかった。さらに、こうした研究者は、自らの主張とは相容れない考えを徹底的に排除した。自分が持っている万能な理性が発見した考えに間違いがあるはずがないと信じていたからだ。これが啓蒙主義が生み出した「専門家」の実像であるとオルテガは指摘した。そして、この専門家とセットになっているのが「大衆」である。大衆は、「専門家」の言っていることなら絶対に正しいと、無批判に「専門家」を受け入れた。

 仮に、「専門家」の数が極めて少数で、その「専門家」に「大衆」が従うならば、全体主義となる。マルクスの社会主義は、生産手段に焦点を当てて経済構造を明らかにするという極めて狭い研究分野であったが、それが世界の全てであるかのように宣伝され、大衆を巻き込んだ結果、ソ連では社会主義による全体主義が生じた。啓蒙主義を生んだフランスで全体主義が根づかず、前述の5月危機が失敗したのは、マルクスほどの強烈で排外的な「専門家」がおらず、「専門家」が相当数併存した結果、”ミニ全体主義”とでも呼ぶべきものが乱立し、特定の思想が社会全体を貫くまでには至らなかったためではないかと考える。

 そもそも、政治の役割とは何であろうか?近年、国民国家という概念がグローバル規模の人々の移動によってかなり崩れかかっているが、それでもなお国民国家が有効であるという前提に立つならば、政治の役割は、「歴史的物語に沿った国民像に合致するよう、国民に生きてもらう」ことであり、「国民に生きてもらうための制度、仕組み、システムを設計すること」である(行政の役割は、その設計図に従って制度などを整備することである)。

 こうした政治の実現に向けて民主主義に期待されているのは、①決して万能ではない理性を持つ人間が集まり、相互に知を補完し合うことでより最適な解を目指すこと、②歴史的物語に沿った国民像というゴールや、各種制度という手段に対して、マイノリティや社会的弱者の意見を反映させること、③短期的に国民の欲求を満たすだけではなく、国家の存続・持続的な発展を見据えて、将来世代の利益を確保する意思決定を下すこと、であると考える。

 民主主義には直接民主主義と間接民主主義があるが、大半の国では後者が採用されている。アメリカも間接民主主義の国ではあるものの、冒頭で述べたように、心のどこかには政治に直接参加したいという欲求がある。では、実際に直接民主主義を採用した場合、どのようなことが起こるだろうか?

 まず、①については、参加する国民の数が多すぎて、意見が集約できない。いくらITが発達したとはいえ、政治が扱うのは主に定性的情報であり、ITであっても手に負えない。ここで、AI(人工知能)があるではないかという提案もあるだろう。だが、現在のAIは、まず人間からある情報を与えられて、AIが何らかの判断を下し、人間がAIの判断の正否をフィードバックすることで学習する仕組みになっている。政治の場合、ある政策が完全に正しいとも完全に間違っているとも断定することができず、AIに機械学習をさせることは困難である。

 次に②についてだが、仮に①で述べた欠陥が克服されて、大勢の国民がITを通じてある場にアクセスし、AIを使って政治を行う仕組みを構築することができたとしよう。しかし、この仕組みが健常者による利用を想定しているならば、例えば視覚に障害がある人はその仕組みから排除されやすい。

 ITとAIによる仕組みは夢物語で、現実的には、日時、時間、場所を指定して討議を行うというオーソドックスな形式になるだろう。この場合、討議に参加できない人の割合はさらに増える。そして、往々にして、討議に参加できないのはマイノリティや社会的弱者である。討議を週末に設定すれば、子どもの世話と家事に追われる女性は参加が難しくなるし、地方において討議を駅近くの公共施設で実施すれば、駅から遠く離れたところに住んでいる高齢者は参加が難しくなる。日時、時間、場所をどのように設定しても、精神障害者や性的マイノリティは、討議に参加すること自体が、「私は精神障害者や性的マイノリティである」と告白することに等しくなるため、参加のハードルが上がる。

 最後に③についてである。仮に国民全員(マイノリティや社会的弱者を含む)が参加できる討議の場を形成することができたとしよう。ここで、国家は存続・持続的な発展を目指していることを思い出していただきたい。ということは、まだ生まれていない次世代の人々の利害も考慮しなければならないことを意味する。場合によっては、次世代の国民の利益を守るために、現在の国民の利益を犠牲にする必要があるケースも出てくる。直接民主主義の場合、それぞれの国民は自分の利益が恋しいから、中長期的な視点に立った意思決定は難しい。

 そのため、一定の母集団を代表する人を選出し、その中にはマイノリティや社会的弱者を代表する人も含むとともに、時には自らが代表している集団の利益を犠牲にしてでも、将来世代のために重大な決断をすることが可能な間接民主主義を採用している国が多いと考えられる。代表者が母集団の利益を犠牲にできるのは、代表者は母集団の利益を”代表”している人間であり、代表者の利益と母集団の利益が必ずしも”等しい”とは限らないからである。代表者が母集団の利益を一歩引いた立場から眺め、将来世代の利益との平衡を実現することは、母集団を構成する当の国民に比べれば(多少ではあるが)容易である。

 政治の役割は、「歴史的物語に沿った国民像に合致するよう、国民に生きてもらう」ことであり、「国民に生きてもらうための制度、仕組み、システムを設計すること」であると書いた。国民は政治からの要請を受けて生きなければならない。より具体的には、能力を高め、仕事に勤しみ、市場で取引をし、家族や隣人を助けることなどによって、自ら生きて国家の存続に貢献する責務がある。

 普通は、毎日を生きるだけで精一杯であり、政治に参加することはおろか、政治のことを考える余裕すらなかなかない。とりわけ日本ではそのような風潮が強いと感じる。SNSで政治的発言ばかりをする人や、政治的発言をする芸能人や有名人に対して、周囲の人は「この人は暇なのか?」、「もっと本分を守れ」と思っている(政治的な記事を時々アップしている私も、「本業の経営コンサルティングにもっと集中せよ」と思われているに違いない)。

 だから、日本の場合は間接民主主義がよりフィットしやすい。しかし、それは裏を返せば、国民と政治家の距離が遠いことを意味し、選挙に対する関心が低すぎることや、選挙が終わるとその関心がさらに低くなることに現れている。国会議員に限定して話を進めると、国民と国会議員との間の情報のチャネルがまだまだ未熟であることが要因の1つであると考えられる。「生きる」という本分に集中している国民の意思を尊重しつつも、「生きる」ことに意味を与えている政治への国民の理解度を引き上げることが大切である。

 まず、国民から国会議員に対しては、議員会館への陳情などという仰々しい形を取らなくても、もっと簡便な方法で自らの利害を訴求する機会を作る。だが、先ほど述べたように、国民は普段の生活で手一杯であり、政治に参加する余裕が少ないから、国民側からの積極的なアクションはあまり期待できない。

 もっと重要なのは、国会議員から国民への情報提供である。第一に、国会議員は、自分が何者であるのかを明確にする。言い換えれば、誰の利害を代表しているのかをはっきりさせる。国会議員ともなれば、通常は複数の集団の利害を代表していることだろう。この点を明らかにしなければならない。とりわけ、マイノリティや社会的弱者の利害を代表している場合は、それを強調する。

 第二に、民主主義を通じて、マイノリティや社会的弱者の利害、あるいは将来世代の利害との調整を図った結果、自らが代表する集団の利害に変化が生じる場合には、議論の経緯と今後予想される事態について丁寧に説明しなければならない。この説明を怠れば、次の選挙で自らが代表する集団からの支持を失うだろう。これらの情報提供は、「生きる」ことに忙しい日本人の日常生活の中にすっと溶け込むように、相当の工夫を凝らして行う必要がある。

 ここからはおまけの話である。こういう情報チャネルが充実して、国民と国会議員の距離が近くなると、必ずその関係を悪用する輩が出てくる。ニュースの中だけの話かと思っていたら、私も身近で経験したことがある。安倍政権になってから中小企業向けの補助金が一気に増えた。私は一時期、ある補助金事業の事務局員をしていたのだが、補助金交付のルールをめぐって事務局とトラブルになった中小企業の経営者が、国会議員を使って中小企業庁に圧力をかけ、補助金を無理やり交付させようとしたことがあったらしい。国会議員をまるでヤクザか何かだと勘違いしている人間は現に存在している。

 政治家は、「歴史的物語に沿った国民像に合致するように生きよ」という、国民に対する政治的要請を無視して、卑しい心で動く人間を突っぱねる職業倫理を持っていなければならない。仮に相手から、「補助金がもらえずに俺の会社が倒産したらどうするのか?俺を殺す気か?」などと言われても、「そんな人間なら死んだって構わない」と凄んでみせればよい。その会話を録音されてマスコミに公開されても、その発言には十分な正当性があったと堂々と言い切ればよい。

重田園江『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』―近代の「規律」は啓蒙主義を介して全体主義と隣り合わせ


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 日本で言えば磔や引き回し、海外で言えばギロチンなどの刑は、現代からすると人間性を無視した非道な刑罰だと思われがちだが、フーコーはそのように考えない。刑罰は時代や社会の事情を反映したものであり、そのあり方を決めるのは政治である。だから、現代の自由刑と過去の身体刑を比べて、どちらがより残酷であるとか、どちらがより人道的であるといったことを決めることはできない。

 フーコーが「古典主義時代」と呼ぶフランス絶対王政の時代には、主権、つまり法を与える権能は王にあった。王こそが全ての法源である。よって、犯罪というのは王の正統性に対する侵害である。その侵害の程度が重大であればあるほど、王は犯罪者をあらん限りの力で消滅させるのが当然であった。人々に犯罪に対する抑止力を働かせるため、犯罪者は大衆の面前で罰せられた。こうした王の権力は、剣による権力、王による至上権、王による生殺与奪権、法的・主権的権力などと呼ばれる。別の言い方をすれば、王の権力とは、人々を「死なせるか、生きたままに放っておくか」という権力である。

 近代に入ると、主権が王の手から国民の手に移った。国民主権においては、国民が民主主義によって法を作っていく。それから、近代になるともう1つ重大な変化が生じた。それは、経済の発展により、窃盗などの経済化した犯罪が増加し、しかも、その犯罪を実行するのはプロの小集団であったということである。こうした状況に対して、当時勃興した啓蒙主義は2つの方向性を目指した。1つは、犯罪者であっても自立的で判断力に長け、物事の善悪を自分で決められる、つまりは良識を持った人間へと改良するというものである。もう1つは、人々が罪と罰とを頭の中で即座に結びつけられるようにすることである。例えば、窃盗を犯すとこういう罰を受けるから、窃盗をするのは止めよう、と人々に思わせることである。よって、犯罪が多様化すれば、自ずと刑罰も多様化することが想定される。

 ところが、実際には増加する犯罪者を効率的に処罰するために用いられたのは、「監獄における規律」という自由刑(犯罪者から自由を奪う刑)であった。どんな犯罪を犯した者でもまずは監獄に収監され、彼らは監獄のルールの下で、決まりきった1日のスケジュールに従って生活し、労働する。啓蒙主義は人間の可能性に光を当てるものであったが、現実的には効率性の方が優先された。

 フーコーの指摘が面白いのは、規律は近代になって発明されたわけではなく、古代からあった様々な手口の組み合わせであるとしている点である。加えて、規律は監獄を超えて我々の日常生活にも浸透するようになった。犯罪を取り締まるために、都市にはポリス(行政警察に近い)が張り巡らされた。さらに、規律は学校や工場などでも用いられるようになった。

 王の権力は、「人々を死なせるか、生きたままに放っておくか」という権力であったが、逆に規律型権力は「人々を生かす権力」である。なぜそこまでして人々を生かす必要があるのか、ここでフーコーは国家理性に注目する。従来の国家は、国家を超越する神や自然の法に従うものとされていた。ところが、フーコーは、国家は存続そのものが自己目的化していると指摘する。そして、国家の存続には国家の力が必要である。国家の力を構成する要素は数多く存在するのだが、その中でも「人々の数」は大きなウェイトを占めている。だから、権力によって人々を生きさせることが極めて重要である。この権力は「生の権力」とも呼ばれる。

 ところで、啓蒙主義の観点からすると、監獄における規律、規律的権力は明らかに失敗である。人間の多様性に着目するどころか、効率性を優先し、人間を画一的に扱っている。ここでフーコーは、なぜ監獄は失敗なのかとは問わない。失敗している監獄は何かの役に立っているのかという問いを立てる。

 近代に入って急速に力をつけてきたのはブルジョワジーである。彼らにとっての敵は、従来型の王と下層民であった。特に、下層民を敵視していた。ブルジョワジーは、下層民の犯罪行為(労働忌避、機械の打ちこわし、商店の襲撃など)と政治的行為が結びついて秩序転覆を図る危険を最小限に抑え、犯罪者集団を一般人から区別する必要があった。そのために監獄は利用された。犯罪が既存の秩序を脅かすどころか、秩序に組み込まれ、ブルジョワジーに役立つ形で存続するなら、ないよりもあった方がましなのであった。

 先ほど、監獄による規律は啓蒙主義の目指した方向性と異なると書いたが、個人的には、啓蒙主義と監獄による規律は容易に結びつくものではないかと感じる。啓蒙主義とは、人間理性の至上性を強調し、理想の人間を追求する試みである。ただ、啓蒙主義は全体主義に転ずる可能性と常に隣り合わせである(以前の記事「大井正、寺沢恒信『世界十五大哲学』―私の「全体主義」観は「ヘーゲル左派」に近いと解った」を参照)。啓蒙主義が人間理性の至上性を説く時、それはややもすると人間理性の唯一絶対性と完全無欠性を説くことになる。これらは全体主義の特徴である。啓蒙主義的―絶対主義的目的を達成するためには、画一的な規律はまさにうってつけの手段となる。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
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