江戸時代 (中公新書 (476))江戸時代 (中公新書 (476))
大石 慎三郎

中央公論新社 1977-08-25

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 ブログ本館で、我々が戦後に受けてきた歴史教育は、左派の影響を受けていると何度か書いた(「E・H・カー『歴史とは何か』―日本の歴史教科書は偏った価値がだいぶ抜けたが、その代わりに無味乾燥になった」などを参照)。私自身も随分と左寄りの教育を受けており、無意識のうちにそれが当たり前だと思っていたことに、大人になってから気づいた。

 江戸時代には士農工商という身分制度があり、生活に苦しむ農民はしばしば百姓一揆を起こしたというのが、私が子どもの頃の”定説”であった。しかしこれは、共産主義の影響を受けた記述であると後に知った。共産主義は階級によって身分が固定された社会を前提とし、下の階級が上の階級を革命によって打倒することを目指す。そのイデオロギーが”定説”には反映されていたというわけだ。

 そもそも、士農工商という言葉は、日本ではなく中国の言葉である。士農工商とは中国の春秋戦国時代における「民」の分類で、例えば『管子』には「士農工商四民、国の礎」と記されている。士とは知識人や官吏などを意味し、農業、工業、商業の各職業を並べて「民全体」を意味する四字熟語となった。漢書には「士農工商、四民に業あり」とあり、「民」の職業は4種類に大別されることを表していた。

 実際の江戸社会においては、士農工商という明確な身分は存在しなかったというのが、現在定着している歴史的見解である。最近の歴史教科書からも、士農工商という言葉は消えているそうだ。武士、農民、町人の区分はかなり流動的であった(「工」に相当する人は存在しなかったらしい)。商売をする農民もいたし、農民になる武士もいた。逆に、武士になった農民もいた(ブログ本館の記事室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について」を参照)。

 左派は富が嫌いである。逆に言えば、質素倹約を是とする。だから、緊縮財政を行った享保の改革や寛政の改革などが称賛される。享保の改革とは、8代将軍徳川吉宗が新井白石などを登用して行った改革である。寛政の改革は、老中・松平定信が享保の改革を手本として行った。江戸時代の改革と言えば、これに天保の改革を行った水野忠邦を加えて3点セットで覚えさせられる。

 一方で、享保の改革以前、5代将軍綱吉の時に貨幣改鋳を行った荻原重秀は、どちらかと言うと悪役のように扱われる。教科書によっては、貨幣”改悪”と表現されている。しかし、時代背景をよく理解する必要がある。荻原重秀の時代には、デフレが深刻化していた。そこで荻原重秀は、貨幣に含まれる金の割合を減らすことで貨幣の価値を下げ、実質的に貨幣量を増やすことにした。これは、今の日銀による異次元緩和と全く同じである。

 寛政の改革の前に実権を握っていた田沼意次は、さらに推し進めた貨幣政策を展開した。田沼意次は、貨幣に金額を記せば貨幣の本来の価値に関係なくその金額が通用するようにした。これは、現在の信用通貨の概念に等しいものである。ところが、教科書では賄賂政治の元締めのイメージが先行している。

 荻原重秀や田沼意次の貨幣政策によって、日本は好景気になった。それが下地となって、元禄文化(元禄年間(1688~1707年)前後の文化)や化政文化(文化・文政期(1804~1830年)前後の文化)が生まれたことを忘れてはならない。教科書は、鎖国体制の下で成熟した日本独自の元禄文化や化政文化を高く評価する一方で、これらの文化の要因となった荻原重秀や田沼意次は軽視する傾向がある。これではいかにもバランスが悪いと感じる。