帝王学―「貞観政要」の読み方 (日経ビジネス人文庫)帝王学―「貞観政要」の読み方 (日経ビジネス人文庫)
山本 七平

日本経済新聞社 2001-03-01

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 「貞観政要」は、唐代に呉兢が編纂したとされる太宗(李世民)の言行録である。「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」を意味する。本書はこの貞観政要の内容を山本七平なりに解釈したものである。貞観政要は日本でも幅広く読まれており、特に徳川家康は好んで読んだとされる。

 「貞観の治」と呼ばれる太宗の安定した政治を特徴づけるもののは、何と言っても太宗が臣下からの諫言を積極的に受け入れたことである。もちろん、天命によって君主となった人物とはいえ、太宗とて人の子であるから、臣下からあれこれと注意をされれば気分がよいものではない。事実、諫言をした臣下に対してあからさまに嫌悪感を示しているような、人間臭い一面もある。ただ、それはごくごく例外的で、大半において太宗は臣下からの声に耳をよく傾けた。

 太宗が特に重宝したのが、房玄齢、杜如晦、魏徴、王珪の4人である。房玄齢、杜如晦の2人は唐の律令制度をはじめ、様々な国家制度の整備に尽力した功労者である。面白いのが魏徴、王珪の2人であり、彼らは元々太宗の臣下ではなかった。太宗がまだ君主になる前のこと、つまり李世民だった頃、王位をめぐって李建民・元吉兄弟と争ったことがある(玄武門の変)。実は、魏徴と王珪は建民、元吉側の人間であった。玄武門の変に勝利した太宗は、敢えて敵に仕えていたこの2人をスカウトした。敵にあれだけの忠誠を誓うのだから、自分に対しても高い忠誠心を持ってくれるに違ないと期待してのことだった。事実、この2人は太宗の期待に応え、太宗の政治において重要な役割を果たした。

 特に、魏徴は太宗に対してよく、そして厳しく諫言したことが貞観政要からは読み取れる。随分昔に、旧ブログの記事「部下にだって「上司に物申す時の流儀」ってものがある」で、魏の君主・曹操に使えた郭嘉と孔融という2人を取り上げたことがある。この2人も曹操によく諫言したのだが、孔融は史実を都合のいいように曲げたり、多分に皮肉を含んだ迂言的な諫言をしたりしたために、結局は曹操に疎んじられ、殺害されてしまった。その点、魏徴の諫言は非常にストレートである。中には、「太宗が有終の美を飾るための提言」などというものもあって、まるで太宗に退位を迫るかのようなものなのだが、それでも太宗に受け入れられたのは、よほど厚い信頼関係で結ばれていたためであろう。

 太宗がこれほどまでに臣下の意見を重宝したのには理由がある。太宗は幼い頃から弓矢を好んでおり、その道には熟達していると思っていた。ところがある時、自分が手に入れた良弓を弓工に見せると、「こんなものは真っすぐに飛ばない」とばっさり切り捨てられてしまった。この時太宗は、自分は弓矢の道に通じていると天狗になっていたが、実は全く理解が及んでいないことを痛感させられた。弓矢の道ですらこのような具合なのだから、まして自分が不慣れな政治の道に関しては、様々な過ちを犯すであろう。だから、決して独断で物事を進めずに、必ず周囲の人々の意見を聞くことにしようと決意したわけである。

 古代の中国の政治を見ていると、太宗の例のように、君主から臣下に対する一方通行の指揮命令関係だけでは語れない側面がたくさんある。下から上に対して影響力を及ぼす関係も重要である。これを私はカギ括弧つきの「下剋上」と呼んでいる。通常の下剋上は、下の地位の者が上の地位の者に取って代わることを目的とする。これに対して、「下剋上」の場合は、下の地位にある者が、下の地位にいながら、その自由意思を発揮して、上の地位の者の言動を変化させることを目的としている。決して、地位を乗っ取ろうとしているわけではない点に大きな特徴がある。この「下剋上」があるから、上の階層の者は誤りを犯す確率が減るし、下の階層の者は生き生きと仕事をすることができる。現在のように共産党が強権的に支配する中国ではおよそ考えられないことだろう。

 こうした双方向的な上下関係の原点の一端を、私は『孟子』の中に見て取ることができると考えている。
 舜・帝に尚見(上見)すれば、帝は甥(むこ)を貳室(副宮)に館(み)て、亦舜を饗し迭(たがい)に賓主となれり。是れ天子にして匹夫を友とするなり。下を用いて上を敬する、之を貴を貴ぶと謂い、上を用(もっ)て下を敬する、之を賢を尊ぶと謂う。貴を貴ぶと賢を尊ぶとは、其の義一なり。

 【現代語訳】舜が帝尭に謁見するときは、天子はわざわざ婿の舜をその泊まっている離宮に訪ねていって会われ、また舜を招いて饗宴を催され、二人は互いに賓客となったり、主人役となったりして待遇の礼を尽くされた。これこそ身は尊い天子でありながら、その尊貴を忘れて賢者を尊んで、ただ一介の平民をば友とされたものである。いったい、身分の下のものが上のものを敬うのを貴を貴ぶといい、身分の上のものが下のものを敬うのを賢を尊ぶというものであるが、貴を貴ぶのも賢を尊ぶのも、どちらも尊敬すべき点があるからこそ尊敬するのだから、その道理は全く同じで、決して変わりはないものである。
 これは決して、身分が上の者がへりくだって、身分が下の者に対しておもねることを意味するのではない。また、身分が下の者も、身分が上の者がへりくだってきたことを利用して身分が上の者に接近することをよしとするのでもない。最近は、上司が部下に対して厳しく接することができず、また部下も上司に怒られたくないから、お互いにまるで友達であるかのように振る舞うケースが増えていると聞くが、これは組織における人間関係というものを勘違いしている。
 曰く、その多聞なるが為ならば、則ち天子も師を召さず、而るを況や諸侯をや。その賢なるが為ならば、則ち吾未だ賢を見んと欲して之を召すを聞かざるなり。繆公亟(しばしば)子思を見て、古は千乗の国〔の君〕も以て士を友とすとは如何と曰えば、子思は悦ばずして、古の人言えるあり、之に事(つか)うと曰うも、豈之を友とすと曰わんやと曰えりとぞ。子思の悦ばざりしは、豈位を以てすれば則ち子は君なり、我は臣なり、何ぞ敢て君と友たらん、徳を以てすれば則ち子は我に事うる者なり。奚ぞ以て我と友たるべけんといふにあらずや。千乗の君すら之と友たらんことを求めて得べからず。而るを況や召すべけんや。

 【現代語訳】孟子はいわれた。「物識りだから〔召す〕というのなら、多分その人を師として学ぶつもりだろうが、天子さまでさえも師を呼びつけにはしないのに、まして諸侯ではなおさらのことではないか。また、賢者だから〔召す〕というなら、私は賢者に会いたいからといって、呼びつけるなどという無礼な話はまだ聞いたことがない。

 昔、魯の繆公(穆公)はたびたび子思に会われたが、ある時繆公は『その昔、戦車千台を出すことのできる大国の君でありながら、〔その身分を忘れて〕一介の士を友達として交際した者があるというが、これをいったいどう思うか』といって、暗に自分を褒めたので、子思は〔公が身分を鼻にかけているのを〕不快な様子で『古人の言葉に、賢者には〔その徳を師として〕事えるとこそ申していますが、どうして友達扱いにするなどと申していましょうや』といったということだ。

 子思が不快に思ったのは、それはおそらくこういう腹づもりだったのではあるまいか。つまり『地位からいえば貴方は主君であり、私は臣下です。どうして主君と〔対等の〕友達になろうなどと思いましょうや。しかし徳からいえば、貴方は門人で、私に師事する者です。どうして〔師である〕この私と友達になどなれましょうぞ』。かように、大国の君ですら賢者と友達になりたいとのぞんでもなれないのに、ましてこれを呼びつけるなどどうしてできようぞ」
孟子〈下〉 (岩波文庫)孟子〈下〉 (岩波文庫)
小林 勝人

岩波書店 1972-06-16

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 国家も組織である以上、トップに最高責任者としての君主があり、上下関係で結ばれた臣下がいる。だが、臣下の方が優れている分野に関して臣下の力を借りたいと思う場合には、君主の方から臣下に会いに行かなければならない。決して、身分の高いことを鼻にかけて臣下を呼びつけにしてはならない。古代の中国にはこういうしきたりがあったようである。

 以前の記事「岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』―現代マネジメントへの挑戦状」で、アドラーは垂直関係を否定し、水平関係を重視していると書いたが、個人的にはこのアドラーの主張にはどうも賛同できない。垂直関係があるからこそ、人々は立場が上の人に対して敬意を払うことができる。上の人を思いやることができる。ただ、立場が上の人も、立場が上であることに胡坐をかいているわけにはいかない。立場が下の人の中に知識、能力、経験、人格面で優れている人がいるならば、彼らの元へ出向いて教えを請わなければならない。これによって、立場が上の人は独善的にならずにすむ。そして、組織も抑圧的な権威主義に傾くことを防止できる。

 仮に全員が水平関係にあったら、相手に対する敬意も思いやりも消え、代わりに顔を出すのがエゴをむき出しにした敵意や憎悪である。それが端的に表れているのが、民主的とされるインターネットの世界である。私はそういう敵意や憎悪に触れたくないので、Q&Aサイトや掲示板の類はほとんど見ない。

 ブログ本館の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第42回)】いびつなオフィス構造もコミュニケーション不全を引き起こす原因に」で書いたように、私の前職のベンチャー企業のオフィスでは、若手のスタッフが狭い端っこの部屋に押し込められ、マネジャーは少し離れた大部屋でブースを与えられて仕事をしているという具合であった。私は、大部屋にいるマネジャーから内線電話がかかってきて、「作ってもらった資料について話があるから大部屋に来て」と呼び出されるのが非常に嫌であった。もちろん、当時の私はコンサルタントとしてはカスみたいな存在だったから、マネジャーからそんな扱いを受けても文句は言えなかった。

 だが、たかが歩いて数秒の距離である。もし私が自分よりも優秀な部下を持ったならば、そのスタッフ部屋に直接出向いて話をしようと思ったものである。そして、これだけ知識が目まぐるしく変化する時代においては、自分よりも知識面などで優れいている部下を持つ確率は格段に高まっている。