アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)
岸見 一郎

ベストセラーズ 1999-09-01

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 久しぶりにアドラー心理学を読み返してみた。アドラーは社会主義者である。社会主義は全体主義であり、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで何度か議論を展開したが、今一度簡単に整理すると次のようになる。

 人間は唯一絶対で完全無欠の神に似せて創造された。よって、人間もまた完全無欠の理性を持っている。完全無欠の理性は唯一絶対であるから、人間の創造性は必ず単一の方向に収斂する。「私の考えはあなたの考えと等しく、よって全体とも等しい」。したがって、近代化の産物であるかのようにとらえられている民主主義は、実は独裁と両立する。また、私とあなたが等しいということは、私は自分自身の身体を自由に処分することができないことを意味する。つまり、私有権が否定される。「私の財産はあなたの財産であって、よって全体の財産である」ことになり、共有財産制が選択される。

 人間の理性は生まれながらにして完全無欠である。だから、時間の流れが存在しない。将来に向かって能力を開発しようという発想はない。全体主義においては、時間は現在に固定される。教育者がよかれと思って幼子を教育することは悪である。そのため、全体主義の下では、しばしば知識層が迫害される。理想はあらかじめ固定されていて、絶対に動くことがない。

 また、人間の理性は唯一絶対であるから、理論的にはその人間が集合する社会もまた完全無欠である。しかし、現実には社会は様々な欠陥を抱えている。そこで、人間は理想の社会を実現するために革命を起こす。だがここでもう1つ問題が生じる。不老不死の神とは異なり、人間には寿命がある。しかも、全体主義では現在という時間しか存在しないため、人間の寿命は一瞬である。とはいえ、現在において一瞬にして死ぬということは、現在において一瞬にして生まれることでもある。よって、人間は一瞬の生死を繰り返しながら、永遠に革命を続ける。現在という1点において、生と死は連環する。ニーチェの言う永遠回帰である。

 だが、アドラーの心理学は、上記の全体主義のような硬直的なものではない。むしろ、伝統的な右派の考えに近いものがたくさん見られる。まず、アドラーは絶対的・客観的な真実というものを否定する。そうではなく、それぞれの人が主観的に心に抱いている事実を重視する。つまり、人間の考え方に多様性を認める。これは、本当の意味でのリベラリズムである。人間は自由である。ただし、自分の人生には自分で責任を持たなければならないと注文をつけている。

 全体主義においては私とあなたは完全に等しいため、両者が対立することはない。これに対して、各々が異なる思想を持っている自由主義の下では、私の自由が他人の自由と衝突することがある。その場合には、言葉によるコミュニケーションを通じて、自由を調整する必要があるとアドラーは述べている。そもそも、人間同士は解り合えないというのがアドラーの前提である。解り合えないから言葉によって解ろうと努力する。しかし、その努力が報われないこともある。その場合には、他人から嫌われてもよいとアドラーは言い切る。私とあなたが等しい全体主義では、他者から嫌われるという事象が発生することはあり得ない。

 全体主義は人間が生まれながらにして完全無欠の理性を持っているとするのに対し、アドラーは誰にでも劣等感があると説く。劣等感は病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激であると指摘する。言い換えれば、我々は劣等感があるから進歩しようと努力する。ここでは、時間が未来へと流れている。ただし、劣等感を隠すために自分は特別な存在であると見せかけることは優越コンプレックスであり、健全な心理状態ではない。優越コンプレックスとは逆に、劣等感が行き過ぎて、「どうせ自分なんて」などと自虐的になることは劣等コンプレックスであり、これもまた避けなければならない。

 全体主義は、いきなり社会全体を理想的なものにしようとする。他方、アドラーは、まずは目の前にいる他者との関係を重視する。劣等感がある自分という存在をありのままに認める「自己受容」、自分とは異なる価値観を持つ他者に接近する上での前提となる「他者信頼」、そして、他者を信頼し人間関係を前進させるための「他者貢献」、この3つがアドラー心理学の骨格である。一応私も経営コンサルタントの端くれなので、コンサルティングの用語を使って表現するならば、全体主義は演繹的なTo-Beに拘泥する。一方、アドラーは帰納的なAs-Isから出発し、望ましい方向を個別具体的に模索する、ということになるだろう。

 ただし、アドラーの心理学は、別の見方をすると左派的に映る部分がある。先ほど劣等感について触れ、劣等感が進歩の源泉であると書いたが、アドラーは別の箇所で「普通であることの勇気」が重要だとも書いている。つまり、人間はそのままでよいということである。この考えを認めると、人間の成長が阻害されてしまうような気がする。それに、そのままの人間を固定的に肯定することは、生まれたての人間の理性を絶対視する全体主義に通ずるように感じる。

 また、アドラーは縦(垂直)の関係ではなく、横(水平)の関係を重視する。例えば、親は子どもを褒めても叱ってもいけないとアドラーは主張する。褒める/叱るという行為は、親が子どもよりも上の立場である、つまり、親子関係が垂直関係であることに基づいているからだという。そうではなく、親子関係を対等と見なし、親は子どもを勇気づけることが重要であると説く。全ての人間が対等になれば、全体としてよい方向に向かっていくというのがアドラーの考えである。

 だが、保守主義的な立場から言わせてもらえば、人々の生まれた時期も社会における役割もバラバラである限り、その人々を水平線上に並べるのは無理があると思う。垂直的な関係があるからこそ、下の者は上の者を敬うという気持ちが生じ、それによって社会が安定する。加えて、下の者は上の者から学び、時には反発・批判しながらも、その考えに磨きをかけて後世に継承する。これが社会の発展につながっていく。それを、観念的に強引に水平関係に落とし込んでしまうと、全体主義のようにかえって時間の流れが止まり、アドラーの主張とは裏腹に、社会が停滞するのではないかと考える。

 アドラーの「目的論」にも批判を加えてみたい。例えば子どもが家で全く勉強をしない時、普通の人はその子どもに学習のモチベーションがないせいだと考える。これをアドラーは「原因論」と呼ぶ。ところが、アドラーは、その子どもの学習意欲の低さをモチベーション不足のせいにしない。アドラーは、その子どもが勉強をしないのは、彼に目的があったからだと解釈する。その目的のために―このケースでは、例えば親を怒らせて親の注意を引くために―勉強をしないというのである。これが目的論の考え方である。

 子どもが家で勉強をしないといった、他者に特段の迷惑をかけない問題のことを、アドラーは「中性的な問題」と呼ぶ。そして、この中性的な問題については、やはり罰してはならないのだと言う。子どもの人生は子どもの課題であって、大人が踏み込むべきではない。子どもには、悲劇的な結末を体験させてやればよい。具体的には、勉強しないと後からどれだけ苦労するか、子どもに味わわせてやればよい。これでは大人の心が痛むというならば、子どもの目的がもっと別のものに変わるように働きかけてやる。ただし、大人にできるのはそこまでである。

 この話を一般化すると、どんな考え方・行為であっても目的論の名の下に容認されることになる。全体主義は唯一絶対の理性を前提とするから単一の思想しか認めないが、左派にはもう1つの流れがある。それは、現実の人間は単一ではなく多様であることに着目し、その存在を全て無条件に、平等に容認するというものである。これは右派のリベラリズムと似ているが、決して同一ではない。

 リベラリズムでは、いくら自由が認められるとはいえ、他者の自由を侵害する場合には社会的制裁としての法が作動する(以前の記事「ティク・ナット・ハン『怒り―心の炎の静め方』―どんな相手とでも破綻した関係を修復できるというのは幻想」を参照)。しかし、アドラーの目的論に従うと、法による制裁の出番がない。どんなに危険な思想であっても、平等に扱わなければならない。「中性的な問題」であれば、社会に対してさほど悪影響もないだろう。だが、例えば子どもが万引きをした場合、いちいち子どもの目的を想像してそれを是認するべきなのだろうか?社会の秩序を乱す場合には、親が子どもを殴ってでもそれが悪であることを解らせる必要があるのではないだろうか?アドラーは、こうした「反社会的な問題」については沈黙しているように感じる。