やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)
庵 功雄

岩波書店 2016-08-20

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 著者は、労働人口が減少する日本が将来的に移民を受け入れざるを得ないという前提に立って、移民やその子どもたちが地域社会でそれなりに不自由なく生活できるようにするために、<やさしい日本語>を習得してもらうことを提案している。この<やさしい日本語>に基づく日本語初等教育は、50~100時間程度の短い時間で集中的に実施されるように設計されている。

 著者が提唱する<やさしい日本語>と、現在小学校で用いられている国語教科書が教える日本語の文法を比べると、教科書では初級と位置づけられている文法であっても、<やさしい日本語>では初級から外されているものも多いという。言い換えれば、教科書がうたう初級とは、移民などの外国人が日本国内で生活するのに最低限必要な日本語のレベルとは乖離しており、外国人に対する日本語教育としては難しすぎるということになる。

 また、外国人の子どもたちにとって大きな壁となるのが、教科書の読解である。教科書が読めなければ、学校の授業について行けない。学力で劣る彼らは、間違いなく就職面で不利になる。貧しい生活環境に置かれた彼らは、犯罪に走る可能性も高まるであろう。将来そういう事態にならないようにするためにも、子どもたちが教科書を読めるようになることは極めて重要である。著者は、小学校の教科書での使用頻度が高い漢字と、現在小学校低学年で学習することになっている漢字とを比較した。すると、やはりそこにも大きな乖離が見られたそうだ。

 移民などの外国人が<やさしい日本語>のレベルにまで到達するのと同時に、我々日本人も、普段使っている日本語から<やさしい日本語>のレベルへと移動することが必要となる。著者は、「なぜ日本人の方が外国人に合わせなければならないのか?」といぶかしがる日本人を批判する。コミュニケーションとは、自分が言いたいことを相手が理解できるように伝えることである。したがって、相手の立場に立つことは当然である。私は、著者の主張に完全に同意する。

 ところで、外国人を受け入れるならば、日本人が<やさしい英語>なるものを外国人と共有すればよいでのはという意見もあるかもしれない。この点について私は次のように考える。まず、日本人が英語そのものに慣れていない。現在、訪日外国人の増加に伴って街中で英語表記を多く見かけるようになったが、その中には英語圏の人の目に不可解に映るものも少なくないという。また、日本への移民などが必ずしも英語を母語としているとは限らない。アジアからの流入が最も多いことが想像されるから、英語は第二外国語である確率の方が高い。

 この状態で<やさしい英語>を導入すると、日本人は<母語としての日本語>⇒<第二外国語としての英語>⇒<やさしい英語>という順序をたどり、外国人もまた<母語>⇒<第二外国語としての英語>⇒<やさしい英語>というまどろっこしいステップを踏むことになる。それよりも、日本人は<母語としての日本語>⇒<やさしい日本語>とたどり、外国人は<母語>⇒<やさしい日本語>と進んだ方が効率的である。無理に英語を挟む必要はない。

 余談だが私の最近の失敗談を1つ。コンサルティングの仕事で、あるインド人にヒアリングをする機会があった。そのインド人は日印の通訳もやっていた方で、紹介してくれたコンサルタントからは、日本語がペラペラだと聞いていた。メールでもやり取りさせてもらったが、漢字も多少使えそうだったので、私はてっきりそのインド人が日本語をほぼ自由自在に使えるものだと思い込んでいた。

 ヒアリングの場で私は、質問項目を書いた紙をそのインド人に渡し、順番に読み上げることにした。もちろん、相手がいくら日本語が堪能とはいえ、インド人であるから、解りやすく言い換えた箇所もあった。だが、開始早々、そのインド人に、「スミマセン、私は漢字が2つ以上続く言葉は解らないです」と言われてしまった。

 ヒアリングに同席していた同僚の日本人によれば、彼は通訳ができるほどのレベルではあるけれども、熟語は理解できない、まして4字熟語はもっと理解できないとのことだった(例えば「雇用契約」、「就業規則」と言われてもピンとこない)。日本語の熟語は外国人にとって想像以上にハードルが高いようである。勝手な思い込みで相手の能力を十分に把握していなかった自分をひどく恥じた。

 本書を読んでいたら、日本語を外国人向けにやさしい文章に書き換える実験をさせると、外国人にも理解される文章を書くことができる人は、元の日本語の文章を書いた人の意図を汲み取り、不必要な情報を削って、大切な情報だけを極限まで噛み砕いて書き直すとのことだった。これに対して、外国人に理解してもらえる文章が書けない人は、元の日本語の文章を単純に全て別の言葉に書き換えるだけだったという。申し訳ない、その後者の人間はまさに私のことである。