中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争 (一般書)中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争 (一般書)
黄 文雄

徳間書店 2014-02-19

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 中国が捏造しているとされる7つの出来事についてのメモ書き。

(1)南京大虐殺
 一時期は犠牲者100万人という説まで出たが、その後中国共産党の決定として30万人という数字が出た。しかし、当時の南京の人口は20万人にすぎない。民間人になりすました中国兵による乱暴が実際にあり、彼らを日本軍が掃討したことが民間人虐殺と誤解されたことが考えられる。

(2)三光作戦
 三光とは「搶光(奪い尽くす)」、「焼光(焼き尽くす)」、「殺光(殺し尽くす)」という意味で、これが日本軍の政策だったとされる。日本軍が日本兵に指示したのならば、当然日本語のはずである。しかし、この「光」は「空にする」という意味で使われており、日本人には馴染みが薄い。

 戦後に中華民国政府が発行した『中共述語語彙集』には、共産党軍が地主に「清算闘争」を行う際のスローガンとして、「分光(分け尽くす)」、「吃光(食べ尽くす)」、「用光(使い尽くす)」という語を使っていたことが記されている。また、中華人民共和国による『中国人民述語辞典』によれば、国民党が人民を殺害する際に用いたスローガンとして、「搶光」、「焼光」、「殺光」が出てくる。

 つまり、三光作戦とは、日中戦争中に国民党軍・共産党軍両軍が用いていたスローガンであり、それがいつの間にか日本の話にすり替わったと考えられる。

(3)七三一部隊
 中国で最も日本軍を苦しめたのは、中国軍ではなく疫病と不衛生である。1937年7月から1940年11月までの間、華北の日本軍では赤痢や腸チフス、パラチフス、発疹チフスの感染が急増していた。しかも、自然の感染ではなく、細菌テロの可能性が既に指摘されていた。

 このような戦地において防疫が重要なのは当然であって、七三一部隊は防御用であっても攻撃用ではあり得ない。対抗措置としての生物・化学兵器開発は考えられていたものの、公式指令がないことや資料不足から、開発製造には至らなかった。森村誠一の著書『悪魔の飽食』で有名になった人体実験も、確かな証拠は今に至るまで出ていない。

(4)万人坑
 南京大虐殺の遺体を埋めたとされる万人坑だが、虐殺の歴史の長い中国では一度に大量の人骨が見つかるのはよくあることだ。南京では、太平天国滅亡時の天京(南京)大虐殺、辛亥革命後に張勲が起こした南京虐殺事件、蒋介石軍が日本居留民を殺害した南京事件など、たびたび「南京大虐殺」が起きている。これらが全て、日中戦争時の日本軍の仕業とされてしまっている。

(5)田中上奏文
 1927年、当時の田中義一首相が昭和天皇に差し出した上奏文の中に、「支那を征服せんと欲すれば、まず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲すれば、必ずまず支那を征服せざるべからず・・・これ乃ち明治大帝の遺策にして」と書かれていたことから、日本による中国・世界征服の計画書だとされた。

 上奏文は中国語で4万字という長文で、漢文訳だけでも10数種類、英露独語にも翻訳されている。しかし、日本語の原文は見つかっておらず、文体にも天皇にさし上げた文章としては不自然な箇所がある。つまり、非常にお粗末な偽書であり、反日プロパガンダであったと考えられる。

(6)黄河決壊
 1938年6月7日に河南省中牟付近の黄河堤防が爆破された事件であり、水死者100万人、被害者600万人と言われる犠牲が出た。国民党の通信社などは「日本の空爆による」と報道したが、同月17日にはフランス社会党の機関紙が「国民党による自作自演の愚挙」と報じている。

 その後、当時の工兵参謀が名乗り出たことで、真相が明らかになった。徐州会議後の日本軍の西進を阻止するべく、蒋介石の命令で堤防を爆破したのである。結局、失敗した作戦の巻き添えで100万人の命が失われた。日本軍は堤防を爆破したどころか、被害者の救助作業にあたった写真が見つかっている。

(7)長沙焚城
 中国軍が自国民の生命と財産を無差別に踏みにじった例としては、他に長沙焚城がある。蒋介石が「長沙が陥落したら全城を焼き払え」と命じていたことに基づき、1938年1月12日に湖南省の長沙城が放火された事件である。この時、日本軍はまだ数百キロ先にいたにも関わらず命令は実行されて、死者20万人という被害を出し、さらに紀元前まで遡る長沙の重要な文書もほとんど失われた。