赤い韓国 危機を招く半島の真実 (産経セレクト)赤い韓国 危機を招く半島の真実 (産経セレクト)
櫻井よしこ 呉善花

産経新聞出版 2017-05-02

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 韓国は儒教社会であるが、我々日本人が理解する儒教とは大分異なる。
 呉:儒教では、自然界を秩序づけている自然法則が、そのまま人間界をも貫いていると考えます。この普遍的な自然法則が朱子学でいう「理」です。それに対して物質的・現実的なものが「気」となります。そうした理解のうえで、「理=法」が「気=物」に秩序を与えるとされます。そのように、「理=法」を「気=物」に作用する超越的な実体とみなすところに、朱子学の最大の特徴があります。
 『論語』を読むと「天」という言葉が頻繁に出てくるが、これを普遍的な「理」としたのが朱子学である。こうした傾向は全体主義に陥る可能性があることを、私は以前ブログ本館の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」で指摘したことがある。
 呉:唯一の観点の共有ということは、全体主義の価値観が根強く残っていることを意味します。反対意見を持つことは悪になります。このような考えが作られたのは、約500年にわたって続いた李氏朝鮮王朝時代で、それがいまだに残っているのです。
 全体主義的な儒教において唯一絶対的に正しいものとは「仁」である。ところが、この仁というものは、『論語』を何回繰り返し読んでも、何となく理解できるようでなかなか理解できない難物である。
 仲弓、仁を問う。子曰わく、門を出ては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に承(つか)えまつるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。
 樊遅、仁を問う。子曰わく、居処は恭に、事を執りて敬に、人に交わりて忠なること、夷狄に之くと雖ども、棄つべからざるなり。
 顔淵、仁を問う。子曰わく、己を克(せ)めて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。而して人に由らんや。顔淵曰わく、請う、其の目を問わん。子曰わく、礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。(いずれも顔淵第十二)
論語 (岩波文庫 青202-1)論語 (岩波文庫 青202-1)
金谷 治訳注

岩波書店 1999-11-16

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 孔子は終始こんな具合である。仁とはつまり、自己を律し、他者に対して敬意を表し、自分より地位が低い者であっても大切に扱い、礼(規律)に基づいて物事を進めることだと言えそうである。だが、こんなに簡単に仁を要約してしまっては、2000年以上にわたり読み継がれてきた『論語』の深みが失われてしまうような気がしてならない。仁の意味するところを明らかにすることは非常に難しい。

 その難しさを韓国人も感じていることだろう。仁=唯一絶対的に正しいもの=善を定義できないならば、善でないもの=悪を明確にすればよい。そして、韓国にとっての悪とは、日本そのものである。東アジアを西洋の帝国主義から解放するどころか、朝鮮半島を併合して植民地にした日本、朝鮮半島の人々を軍艦島に強制連行して劣悪な条件の下で働かせた日本、太平洋戦争時には女性を慰安婦として働かせ、女性の尊厳を著しく傷つけた日本、韓国固有の領土である独島を竹島と呼んで日本の領土だと主張する日本、これらの全てが韓国人にとって悪である。だから、韓国人は徹底的に悪=日本を叩く。そうすることで、自らの全体主義を達成しようとしているのである。

 1981年生まれの私は、てっきり韓国が昔から民主主義国家だと思い込んでいたのだが、韓国は1948年の建国以来、軍事政権の歴史の方が長く、民主主義国家になったのは盧泰愚大統領が6・29民主化宣言を出した1987年以降のことにすぎない。軍事政権の下では、国民の感情は基本的に「反軍事」であった。「反軍事」は「反米」につながる。ところで、朝鮮半島の北側を見てみると、自分と同じ民族が反米を掲げて戦っている。ここで、「反米」から「民族主義」が生まれる。

 民族主義とは、自民族が他民族よりも優れているとする見方である。民族主義の攻撃対象は当初アメリカであったが、やがて攻撃対象が日本に移っていった。というのも、歴史を振り返れば、朝鮮半島は中国の中華思想にがっちりと組み込まれており、中国から離れれば離れるほど、民族のレベルが下がると考えているからだ。こうした歪んだ民族主義も、日本バッシングに輪をかけている。