ポスト資本主義
ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来 (岩波新書)
広井 良典

岩波書店 2015-06-20

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 言うまでもないことだが、歴史全体を通じて世界全体の経済規模は直線的に成長してきたわけではない。ある期間は急成長を遂げるが、やがて成長が鈍化して成熟期に至り、遂にはほとんど成長しない時代が続く。だが、何かしらのきっかけで再び急成長期に突入し、やがて成熟期に移行し、停滞期を迎える。この繰り返しである。これを整理した図を以下に引用する。

ポスト資本主義

 著者は停滞期に突入することを「定常化」と呼んでいる。そして、定常化の時期に入る時には興味深い現象が見られると言う。狩猟経済からスタートした人類の経済は、今から約5万年前に最初の定常化(上図の「定常化①」)を迎えた。この時に「心のビッグバン」という現象が発生し、具体的には、加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品が世界中で一気に出現した。

 「心のビッグバン」からしばらく停滞期が続くが、約1万年前には農耕経済へと移行し、新たな成長期に入った。だが、農耕経済は紀元前5世紀頃に定常化を迎える(上図の「定常化②」)。この時、ヤスパースが「枢軸時代」、科学史家の伊東俊太郎が「精神革命」と呼ぶ現象が起きた。すなわち、現在に続く「普遍的な原理」を志向する思想が地球上の各地で同時多発的に誕生した。インドでは仏教、中国では儒教や老荘思想、ヨーロッパではギリシア哲学、中東では旧約思想が生まれた。これらの思想はいずれも、特定のコミュニティを超えた「人間」という観念を初めて持つとともに、物質的欲求を超える新たな価値を説いた。

 上図はかなり概念的であり、もう少し丁寧に読む必要がある。世界の経済規模は、人類が消費するエネルギーの量と強い相関がある。エネルギーに関する研究で知られるジェレミー・リフキンは、成長期⇒成熟期⇒停滞期⇒成長期⇒・・・の繰り返しで世界経済が拡大してきたと認識しており、この点は本書の著者と共通する。リフキンの主張の特徴は、停滞期から次の成長期への移行を促すのはエネルギー革命であると説く点である。

 最も古いのは今から約50万年前の火の発見である。約5,000年前には、火に加えて家畜エネルギーが用いられるようになった。紀元前後から1800年頃までは薪炭や風力がエネルギーとして用いられた。その後石炭がこれに取って代わり、20世紀に入ると石油エネルギーが中心となった。ここで重要なのは、新しいエネルギーが広まる時には、必ずそのエネルギーを大量に使用する新しい技術の発明が伴っていることである。これはとりわけ19世紀以降に顕著である。石炭エネルギーが広まったのは蒸気機関の発明のおかげである。石油エネルギーが広まったのはエンジンの発明のおかげである。

 エネルギー革命の歴史を上図と重ねるならば、約50万年前に始まった火のエネルギーを中心とする経済は、約5万年前に定常化を迎え、「心のビッグバン」が発生した。約5,000年前に火に加えて家畜エネルギーが用いられるようになった経済は、紀元前5世紀頃に定常化を迎え、「枢軸時代/精神革命」と呼ばれる現象が生じた。そして、紀元前後から1800年頃まで、薪炭や風力がエネルギーとして用いられる時代が続いたということになる。

 著者は、定常化のタイミングで生じた思想は、次の成長期の支柱的な思想を準備するものであると指摘する。著者は本書を通じて、現在の資本主義経済が世界的に定常化を迎えていると認識しており、次の成長期のために「ポスト資本主義」の思想を描写しようとしている。

 だが、約5万年前「心のビッグバン」とその後の成長期、紀元前5世紀の「枢軸時代/精神革命」とその後の成長期の間にどんな関係があったのかは不明である。「心のビッグバン」に関しては、まだ文字がない時代であるから、その後の成長期との関係を追求するのは困難かもしれない。しかし、コミュニティを超えた人間の存在を肯定し、普遍的な価値を説いた「枢軸時代/精神革命」の後に実際に続いたのは、共同体を中心とした土着的な農耕社会である。だから、著者はこの矛盾を隠すために、「枢軸時代/精神革命」から近代化まで長い停滞期が続いたことにしておき、「枢軸時代/精神革命」と相性のよい近代化(=啓蒙主義による理性の合理化)と直結させたのだろう。

 さらに、リフキンのエネルギー革命の考え方を丁寧に反映させれば、19世紀の石炭時代、20世紀の石油時代の前にも定常化があったはずである。その時期に「心のビッグバン」や「枢軸時代/精神革命」に該当する現象があったのか否か、全く記述がない。以上の点で、上図はかなりいい加減だと感じる。

 著者が言う「ポスト資本主義」とは、端的に言えば「コミュニティの重視」と「自然(緑)との調和」である。つまり、近代化以前に戻れということである。さらに、ギリシア政治が「帰納的な合理性」によって共同体から個人を切り離し、ユダヤ教が「法則の追求」によって自然から個人を切り離したという2つの流れが合流して、近代科学の目覚ましい発展があったという著者の整理を踏まえるならば、著者の結論はギリシア政治やユダヤ教以前に戻れという極端なメッセージにも受け取れる。本書には社会保障の充実が大切だとか、グローバル化を超える思想が必要だとか色々書かれているが、結局それらは全て、「コミュニティの重視」と「自然(緑)との調和」という結論を糊塗しているにすぎない。

 著者が引用する国連の報告書によると、世界人口は2100年には109億人程度で安定する。また、2030年までに世界で増加する高齢者(60歳以上)のうち、29%が中国の高齢者、同じく29%が中国以外のアジアの高齢者、28%が他の発展途上国の高齢者である。21世紀は人口増とともに高齢化が進み(同時に少子化も進行し)、22世紀には世界レベルで人口減と高齢社会の出現が起きる。

 仮に、国連のシナリオ通りに事が進んだ結果、人類の消費エネルギーが減少するならば、著者の言う近代化以前=中世への回帰もあるかもしれない。だが、人口が減るからと言って、また高齢者は一般に消費エネルギーが少ないと思われているからと言って、人類の消費エネルギーが減少するとは一概には言えないだろう。22世紀の高齢者の多くはおそらく活発であるし、多様な属性とニーズを持つ高齢者を支えるには複雑で高度な社会が必要であり、その社会を動かすにはより多くのエネルギーが必要である。だから、今後も世界の消費エネルギーは増加し続けるだろうと私は見ている。

 ただ、これまでの延長線上では世界経済が成熟化し、そう遠くない将来に一旦定常化を迎えることは、多くの人が肌感覚で解っていることである。石油エネルギーは枯渇が迫っている。一方で、長期的にはまだまだ世界の消費エネルギーは増加する。このエネルギーギャップを埋めるには、新しいエネルギー革命が必要である。現在、再生可能エネルギー、すなわち太陽光、風力、波力・潮力、流水・潮汐、地熱、バイオマスなどを資源をとするエネルギーや水素エネルギーなどが次世代のエネルギー候補となっているが、どれが主役になるかは今のところ全く読めない。前述の通り、エネルギー革命を完成させるには、そのエネルギーを大量に消費する新しい技術の発明が必要だからである。

 再生可能エネルギーあるいは水素エネルギーを消費する新技術としては、電気自動車(EV)や燃料電池自動車(FCV)が候補として挙げられる。しかし、ガソリン自動車がEVやFCVに代わったところで、消費されるエネルギー量は新興国における自動車の普及スピードに依存しており、爆発的な増加は見込めない。21~22世紀が高齢者の時代であることを踏まえると、高齢者の生活様式、あるいは仕事スタイルを劇的に変える新技術がエネルギー革命を成就させるのかもしれない。その技術がいかなるものであるかは、私には予測できない。

 では、その新しいエネルギー革命によって新たな成長期に入る時代のための思想を、これから突入する定常化のタイミングで用意できるかというと、個人的には疑問である。経営学者のピーター・ドラッカーは、33歳の時に上梓した『産業人の未来』の中で、19世紀の産業の興隆に気づいていたのはアレクサンダー・ハミルトンだけだったと指摘している。ハミルトンの全盛期は、ちょうどワットが蒸気機関を発明した40年後であった。亡くなった年は、蒸気機関車の現れる20年前であった。その他大勢のアメリカ人は、蒸気機関車が普及し、エネルギー源が石炭へと移行し、経済の急成長の果実を享受できるようになってからしばらく経った後にようやく、石炭エネルギー革命と蒸気機関の発明が、産業社会という今までとは全く異なる社会形態を生み出したことに気づいたのである。

ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 新しい成長期がどのようなものになるか皆目見当がつかない中で、その成長期に養分を供給する思想を整備せよというのは酷な話である。未来の人が歴史を振り返った時に、あの成長期を実現させたエネルギー革命と新技術の発明とは何であり、その下準備をした思想はこれであったと後づけで説明できるにすぎない(実際には、先に述べたように、「心のビッグバン」や「枢軸時代/精神革命」の意義を著者自身も説明できていないのだが)。

 著者の言う「自然(緑)との調和」については、確かに自然を食い尽くしてしまったらエネルギーが取り出せなくなるから、その重要性はまだ理解できる。しかし、「コミュニティの重視」は主軸になり得ないと考える。最近、コミュニティの復活と称して、地方移住した人や定年退職した人のローカルビジネスがメディアで取り上げられることが多い。また、現役のビジネスパーソンが副業としてコミュニティで働くケースも増えている。繰り返しになるが、これらは中世への回帰である。さらに言えば、これらの事例をよく見ると、「安く暮らすことができればよい」、「死ぬまで逃げ切れればよい」、「収入の足しになればよい」といった利己心が見え隠れする。資本主義の悪い部分を受け継いでおり、中世への回帰以下である。

 新しい思想を整備する難しさを承知の上で、敢えて本書に手掛かりを求めるならば、近代から現代にかけての科学思想の変遷に着目したい。近代科学はニュートン的機械論から始まった。人間を含めて全てを機械と見なし、ある機械が動くと別の機械にぶつかってその機械を動かすという考え方である。この機械論では、最初に機械を動かすのは何なのかが問題になるが、ニュートンは神だと答えた(意外なことに、ニュートンは熱心なキリスト教徒であった。同時代の科学者には、ニュートンと同じくキリスト教徒が多い)。

 その後、人間とそれ以外を区別する科学思想、生命とそれ以外を区別する科学思想を経て、プリコジンの生命論のように、全てを連続的にとらえる思想が生まれた。プリコジンの世界観では、人間も非人間も関係なく、全てがつながってシステムを形成している。ここでも、このシステムを動かすのは何なのかが問われるわけだが、その究極の駆動員はシステム内部に埋め込まれているというのが答えである。このシステムでは、システムに含まれる諸要素を個別に見るとバラバラに動いているのに、全体としては1つの秩序になっている。これを自己組織化と呼ぶ(以前の記事「マーガレット・J・ウィートリー『リーダーシップとニューサイエンス』―秩序と変化を両立させる複雑系」を参照)。

 言い換えるならば、「普遍」と「個別」が両立している。先ほど、21~22世紀の世界は高齢者中心であり、多様な高齢者を複雑で高度なシステムで支える社会になるだろうと書いた(そのシステムに供給される新しいエネルギーが何であり、システムの中心技術が何になるかは予想できないというのも、先ほど書いた通りである)。仮に、多様な高齢者を無数のミニマムな社会で支えるならば、中世的なコミュニティ重視となる。しかし、私はその立場を取らない。

 複数の大きな社会システムが、多様な高齢者を支える。社会システムの中で働く人々(もちろん、元気な高齢者も含む)は、現場では個別対応をする。しかし、皆が個別対応に走るとシステムが崩壊する。そこで、システム全体を俯瞰し、秩序を保つ方法も習得する。さらに言えば、複数の大きな社会システムは、さらに大きな1つのシステムを形成している。ある社会システムにおける秩序=普遍は、それを包含するより大きなシステムから見れば個別である。ここでもまた、個別的な見方に収まるだけではなく、より大きなシステムの全体を見渡せる場所に駆け上がって、複数のシステムを貫く秩序を知覚しなければならない。

 非常に抽象的だが、「普遍」と「個別」という、普通は相矛盾する2つを統合する思想が、次の成長期に養分を与える思想の1つの候補だと考える。