週刊ダイヤモンド 2016年 8/6 号 [雑誌] (どう生きますか 逝きますか 死生学のススメ)週刊ダイヤモンド 2016年 8/6 号 [雑誌] (どう生きますか 逝きますか 死生学のススメ)

ダイヤモンド社 2016-08-01

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 「死=無」という考え方は団塊世代に多い。戦争を経験した彼らの親世代が子どもに同じ教育をしてはいけないと考えたこと、また団塊世代を教えた世代の知識人の多くがマルクス主義に染まり、唯物論的な死生観が形成されていったという経緯があります。
(玄侑宗久「震災で古来の死生観が蘇った」)
 私の神学論なんてまだ支離滅裂で全くまとまっていないのだが、ブログ本館の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」で書いたように、神と人間をともに完全で合理的な存在であると認めたところから、全体主義や共産主義が生じた。その発端は17世紀後半~18世紀の啓蒙主義に見出せる。

 もっとも、共産主義は無神論であるから、神と同時に論じるのは適切ではない。ただし、啓蒙主義によって「あちら側のメシアニズム」から「こちら側のメシアニズム」に移動した(ブログ本館の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」)、すなわち、人間が神の性質を獲得したとすれば、神の存在を人間とは別個に考える必要はなくなる。

 神が無から有を生み出すことができるように、人間もまた無から生じて有となる。有の時間は絶対不変であり、「今、ここ」という現在に固定されている。共産主義には過去も未来もない。だから、社会主義の革命は、世界”同時”革命である必要がある。ところで、人間は神と同じでありながら、死ぬ。死ぬことで無に帰す。これは人間の完全性と矛盾するのではないかと思われるかもしれない。

 だが、絶対的な生を、前後から絶対的な無で挟むことで、生の絶対性をより際立たせることができる。つまり、生きている人間は現在のうちに絶対に社会主義革命を成し遂げなければならないと、生を強く規定するのである。山本七平の言葉を借りれば、「死の臨在による生者への絶対的支配」と呼ぶことができる(ブログ本館の記事「山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』―日本型組織の悪しき面が露呈した帝国陸軍」を参照)。さらに、絶対無となった人間は、再び無から有を生み出し、現在という時間軸の中に人間を送り込む。そして、世界同時革命の実現を目指すのである。この仕組みは、いわば革命の永久機関である。

 共産主義や全体主義が恐ろしいのは、その暴力性もさることながら、現在という時間が絶対であり、およそ歴史というものを持たない点である。つまり、社会が進歩するという発想がない。これは、我々、特に日本人には到底受け入れられない。ブログ本館の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」でも書いたが、日本人は、何となくこの世に生を受け、何となく死んでいく。我々は生の瞬間、死の瞬間を自覚することはできない。そして、絶対無も絶対有もない。そういう点では、共産主義的な生に比べると、いかにも軟弱であるかもしれない。

 しかし、何となく生まれた日本人は、ただ何となくこの世に生を受けたのではなく、先祖代々の魂を受け継いでいる。つまり、そこには歴史と伝統がある。そして、何となく死んだ後も、何となく意味を失うのではなく、魂だけは後世に引き継がれると信じる。すなわち、社会の永続的な発展を願う精神がある。

 冒頭の玄侑宗久氏によれば、東日本大震災は、従来のマルクス主義的な死生観に埋もれていた日本古来の死生観が再発見される契機になったという。
 行方不明者多数という稀有な事柄があり、被災者や遺族は生と死を深く見詰める中で「遺体が見つからないなら、あの人はきっとどこかで無事に生きている。たとえ肉体が滅んでも魂は不滅で祈りをささげれば帰ってくる」という、日本人古来の死生観がよみがえったのです。(同上)