こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

水平関係


岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』―現代マネジメントへの挑戦状


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
岸見 一郎 古賀 史健

ダイヤモンド社 2013-12-13

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 4年前のアドラーブームの時に読んだが、改めて読み直してみた。アドラー心理学は、現代マネジメントに対する挑戦状を叩きつけているように感じた。

 ①以前の記事「岸見一郎『アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために』―アドラーの左派っぽくない一面と左派っぽい一面」でも書いたように、アドラーは「縦(垂直)の関係」を否定し、「横(水平)の関係」が重要であると説く。ただし、これは必ずしも、人々は皆平等であるといった、左派にありがちな主張ではない。アドラーは個人に差があることを認めている。同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。進んできた距離や歩くスピードはそれぞれ違うが、みんな等しく平らな場所を歩いている。

 一言で言えば、「競争の否定」である。これは経営学を追いかけている人間にとってはショッキングである。ブログ本館の記事「【戦略的思考】SWOT分析のやり方についての私見」(戦略立案の外部環境アプローチ)、「DHBR2017年12月号『GE:変革を続ける経営』―戦略立案の内部環境アプローチ(試案)」のように、我々は「競争戦略」という言葉を使うことにあまりにも慣れすぎている。アドラーからすれば、これは間違いだということになる。

 ただし、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(補論)】日本とアメリカの企業戦略比較」で書いた通り、私はアメリカ企業が競争に徹し、競合他社を叩きのめすことに躍起になっているのに比べると、日本企業は同業他社(競合他社と書くと競争を想起させるので、同業他社と書くことにする)と協力するケースが多いと感じる。その最たる例は業界団体の存在である。日本の業界団体では、同業他社が時にお互いの戦略に関する情報をあまりにも素直に交換し、研究、製品開発、製造、物流、販売などの面で協業を模索することがある。

 もちろん、アメリカにも業界団体はあるが、アメリカの業界団体はロビー活動が中心で、業界全体の権益を守るのが主目的である。この点ではアメリカの同業他社も協力的であるものの、一旦権益が守られると、その守られた権益の配分をめぐって激しい競争を繰り広げる。

 とはいえ、日本の同業他社が協力すると、戦略の同質化に向かうことが多いのが問題である。また、建設業界によく見られるように、談合によって利益を平等に分け合おうとするのも問題である。他社と同じことをしておけばひとまずは安心という日本人の心理があるのだろう。仮に他社を真似して失敗しても、失敗したのは他社が悪かったからと言って、自社の責任を回避することができる。

 だが、アドラーが言う横(水平)の関係は、同質ではなく異質を目指している。よって、それぞれの企業は同業他社と“完全に”差別化された戦略を選択しなければならない。これによって、まずは競争状態を抜け出すことができる。ただし、企業は完全なる差別化によって同業他社から”孤立”するのではなく、さらに一歩進んで、自社の経営資源をフルに活用し、自社とは戦略が全く異なる同業他社と”連帯”できる分野を模索することが求められる。

 加えて、環境変化の激化に伴い業界の垣根が崩壊しつつある現在においては、異業種の企業とも協業体制を構築し、顧客に対する新しい価値の提供を目指すべきである。ブログ本館では、いきなり神学論的な話を持ち出して、多神教文化の日本ではそれぞれの企業に本来的に異なる神が宿っており、異質な神同士が出会うことで創発的な学習が生じると書いたこともあった。

 また、日本の神は欧米の一神教における完全無欠な神とは異なり、人間的で不完全な神である。企業が自社に宿っている神を知る、つまり自社のアイデンティティを知ることは、欧米人が教会で祈りをささげて神に直接アクセスするような方法では実現できない。卑近な例だが、海外旅行をすると日本文化がより理解できるように、異質な神を宿している存在と接触することが自己理解を深める。これまでの日本企業は、ややもすると同業他社に対しては優しい反面、異業種からの参入企業に対しては排他的であった。この態度を改める必要がある。

 ②前掲の記事「岸見一郎『アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために』―アドラーの左派っぽくない一面と左派っぽい一面」でも書いた通り、アドラー心理学の中心的な考え方は、「自己受容」、「他者信頼」、「他者貢献」の3つである。我々は共同体に属しており、他者は同じ共同体に属する信頼すべき仲間である。その仲間に対して、自分の能力を活かして貢献することが人生における大きな目的であるとアドラーは述べている。

 ここで、私にとってアドラーの主張を解りにくくさせているのは、アドラーは承認欲求を否定していることである。マズローの欲求5段階説に従うと、承認欲求は自己実現欲求に次ぐ高次の欲求である。我々が他者に貢献するのは、もちろん利他心からそうしているわけであるが、他者貢献によって他者から認められたいという個人的欲求も持っているためと考えるのが普通である。だが、アドラーはこれを否定する。それどころか、我々は他者の期待を満たすために生きているわけではないし、他者は我々に見返りを与える必要もないとまで言い切る。

 企業は顧客のニーズを満たすために製品・サービスを提供し、顧客はその見返りとして、企業に対し金銭を支払う。また、顧客は企業からの求めに応じてアンケートに回答したり、あるいは自発的に製品・サービスについての肯定的または否定的な評価を企業に伝えたりする。アドラー心理学は、こうしたマーケティング活動を一蹴していることになる。とはいえ、アドラーは前述の通り「他者貢献」はしなければならないと言う。だが、他者に貢献するとは、他者の期待を満たすことであるし、他者貢献に成功したかどうかは、他者から何らかの見返りがなければ判断しようがないように思える。この辺りをどのように解釈すればよいのか、今の私の頭ではどう頑張っても適切なアイデアが出てこない。

 ③アドラー心理学の特徴の1つに「目的論」と「原因論」の区別がある。例えば、自分がいつも自己否定的でネガティブになってしまうのは、子どもの頃に要求水準の高い両親から厳しく育てられたからだと考えるのが原因論である。これに対して、アドラーは、何らかの目的のためにこの人は自己否定的になっていると考える。その目的は、例えば、「自分の能力が低いことが相手にばれるのが怖いからそれを隠すため」というものかもしれない。過去の原因は変えることができないが、現在の目的なら変更することができる。その目的を変えるようにその人に働きかけることを、アドラーは「勇気づけ」と呼んだ。

 原因論を否定するということは、過去を見つめることを否定することである。過去に意味はないし、そもそも過去など存在しない。アドラーはさらに進んで、未来も存在しないと言う。存在するのは「いま、ここ」という瞬間だけである。人生は連続する刹那である。だから、過去にとらわれたり未来のことを考えたりせずに、「いま、ここ」を懸命に生きることが重要であるとアドラーは述べている。

 これもまた冒険的な主張である。過去を否定するということは、戦略論における内部環境アプローチ(コア・コンピタンス論や資源ベース理論)、すなわち、過去に蓄積された技術・知識・ノウハウ・ブランドなどの無形資産が競争力を持つという立場を否定することになる。また、昨今企業が社員のキャリア開発を支援するべきだという機運が高まっているが、キャリア開発は過去の価値観や経験を整理して自己理解を深めることから出発しており、これも退けられることになる。

 さらに、未来が存在しないということは、リーダーが内なる声に耳を傾けて、将来的に実現したいイノベーションを考案し、野心的な目標を設定してバックキャスティング的に事業プランを練り上げるという行為も存在しないことを意味する。企業が「いま、ここ」だけを懸命に生きることで、果たしてゴーイング・コンサーンになることができるのか、この点は今後もっとよく探求しなければならない。

岸見一郎『アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために』―アドラーの左派っぽくない一面と左派っぽい一面


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岸見 一郎

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 久しぶりにアドラー心理学を読み返してみた。アドラーは社会主義者である。社会主義は全体主義であり、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで何度か議論を展開したが、今一度簡単に整理すると次のようになる。

 人間は唯一絶対で完全無欠の神に似せて創造された。よって、人間もまた完全無欠の理性を持っている。完全無欠の理性は唯一絶対であるから、人間の創造性は必ず単一の方向に収斂する。「私の考えはあなたの考えと等しく、よって全体とも等しい」。したがって、近代化の産物であるかのようにとらえられている民主主義は、実は独裁と両立する。また、私とあなたが等しいということは、私は自分自身の身体を自由に処分することができないことを意味する。つまり、私有権が否定される。「私の財産はあなたの財産であって、よって全体の財産である」ことになり、共有財産制が選択される。

 人間の理性は生まれながらにして完全無欠である。だから、時間の流れが存在しない。将来に向かって能力を開発しようという発想はない。全体主義においては、時間は現在に固定される。教育者がよかれと思って幼子を教育することは悪である。そのため、全体主義の下では、しばしば知識層が迫害される。理想はあらかじめ固定されていて、絶対に動くことがない。

 また、人間の理性は唯一絶対であるから、理論的にはその人間が集合する社会もまた完全無欠である。しかし、現実には社会は様々な欠陥を抱えている。そこで、人間は理想の社会を実現するために革命を起こす。だがここでもう1つ問題が生じる。不老不死の神とは異なり、人間には寿命がある。しかも、全体主義では現在という時間しか存在しないため、人間の寿命は一瞬である。とはいえ、現在において一瞬にして死ぬということは、現在において一瞬にして生まれることでもある。よって、人間は一瞬の生死を繰り返しながら、永遠に革命を続ける。現在という1点において、生と死は連環する。ニーチェの言う永遠回帰である。

 だが、アドラーの心理学は、上記の全体主義のような硬直的なものではない。むしろ、伝統的な右派の考えに近いものがたくさん見られる。まず、アドラーは絶対的・客観的な真実というものを否定する。そうではなく、それぞれの人が主観的に心に抱いている事実を重視する。つまり、人間の考え方に多様性を認める。これは、本当の意味でのリベラリズムである。人間は自由である。ただし、自分の人生には自分で責任を持たなければならないと注文をつけている。

 全体主義においては私とあなたは完全に等しいため、両者が対立することはない。これに対して、各々が異なる思想を持っている自由主義の下では、私の自由が他人の自由と衝突することがある。その場合には、言葉によるコミュニケーションを通じて、自由を調整する必要があるとアドラーは述べている。そもそも、人間同士は解り合えないというのがアドラーの前提である。解り合えないから言葉によって解ろうと努力する。しかし、その努力が報われないこともある。その場合には、他人から嫌われてもよいとアドラーは言い切る。私とあなたが等しい全体主義では、他者から嫌われるという事象が発生することはあり得ない。

 全体主義は人間が生まれながらにして完全無欠の理性を持っているとするのに対し、アドラーは誰にでも劣等感があると説く。劣等感は病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激であると指摘する。言い換えれば、我々は劣等感があるから進歩しようと努力する。ここでは、時間が未来へと流れている。ただし、劣等感を隠すために自分は特別な存在であると見せかけることは優越コンプレックスであり、健全な心理状態ではない。優越コンプレックスとは逆に、劣等感が行き過ぎて、「どうせ自分なんて」などと自虐的になることは劣等コンプレックスであり、これもまた避けなければならない。

 全体主義は、いきなり社会全体を理想的なものにしようとする。他方、アドラーは、まずは目の前にいる他者との関係を重視する。劣等感がある自分という存在をありのままに認める「自己受容」、自分とは異なる価値観を持つ他者に接近する上での前提となる「他者信頼」、そして、他者を信頼し人間関係を前進させるための「他者貢献」、この3つがアドラー心理学の骨格である。一応私も経営コンサルタントの端くれなので、コンサルティングの用語を使って表現するならば、全体主義は演繹的なTo-Beに拘泥する。一方、アドラーは帰納的なAs-Isから出発し、望ましい方向を個別具体的に模索する、ということになるだろう。

 ただし、アドラーの心理学は、別の見方をすると左派的に映る部分がある。先ほど劣等感について触れ、劣等感が進歩の源泉であると書いたが、アドラーは別の箇所で「普通であることの勇気」が重要だとも書いている。つまり、人間はそのままでよいということである。この考えを認めると、人間の成長が阻害されてしまうような気がする。それに、そのままの人間を固定的に肯定することは、生まれたての人間の理性を絶対視する全体主義に通ずるように感じる。

 また、アドラーは縦(垂直)の関係ではなく、横(水平)の関係を重視する。例えば、親は子どもを褒めても叱ってもいけないとアドラーは主張する。褒める/叱るという行為は、親が子どもよりも上の立場である、つまり、親子関係が垂直関係であることに基づいているからだという。そうではなく、親子関係を対等と見なし、親は子どもを勇気づけることが重要であると説く。全ての人間が対等になれば、全体としてよい方向に向かっていくというのがアドラーの考えである。

 だが、保守主義的な立場から言わせてもらえば、人々の生まれた時期も社会における役割もバラバラである限り、その人々を水平線上に並べるのは無理があると思う。垂直的な関係があるからこそ、下の者は上の者を敬うという気持ちが生じ、それによって社会が安定する。加えて、下の者は上の者から学び、時には反発・批判しながらも、その考えに磨きをかけて後世に継承する。これが社会の発展につながっていく。それを、観念的に強引に水平関係に落とし込んでしまうと、全体主義のようにかえって時間の流れが止まり、アドラーの主張とは裏腹に、社会が停滞するのではないかと考える。

 アドラーの「目的論」にも批判を加えてみたい。例えば子どもが家で全く勉強をしない時、普通の人はその子どもに学習のモチベーションがないせいだと考える。これをアドラーは「原因論」と呼ぶ。ところが、アドラーは、その子どもの学習意欲の低さをモチベーション不足のせいにしない。アドラーは、その子どもが勉強をしないのは、彼に目的があったからだと解釈する。その目的のために―このケースでは、例えば親を怒らせて親の注意を引くために―勉強をしないというのである。これが目的論の考え方である。

 子どもが家で勉強をしないといった、他者に特段の迷惑をかけない問題のことを、アドラーは「中性的な問題」と呼ぶ。そして、この中性的な問題については、やはり罰してはならないのだと言う。子どもの人生は子どもの課題であって、大人が踏み込むべきではない。子どもには、悲劇的な結末を体験させてやればよい。具体的には、勉強しないと後からどれだけ苦労するか、子どもに味わわせてやればよい。これでは大人の心が痛むというならば、子どもの目的がもっと別のものに変わるように働きかけてやる。ただし、大人にできるのはそこまでである。

 この話を一般化すると、どんな考え方・行為であっても目的論の名の下に容認されることになる。全体主義は唯一絶対の理性を前提とするから単一の思想しか認めないが、左派にはもう1つの流れがある。それは、現実の人間は単一ではなく多様であることに着目し、その存在を全て無条件に、平等に容認するというものである。これは右派のリベラリズムと似ているが、決して同一ではない。

 リベラリズムでは、いくら自由が認められるとはいえ、他者の自由を侵害する場合には社会的制裁としての法が作動する(以前の記事「ティク・ナット・ハン『怒り―心の炎の静め方』―どんな相手とでも破綻した関係を修復できるというのは幻想」を参照)。しかし、アドラーの目的論に従うと、法による制裁の出番がない。どんなに危険な思想であっても、平等に扱わなければならない。「中性的な問題」であれば、社会に対してさほど悪影響もないだろう。だが、例えば子どもが万引きをした場合、いちいち子どもの目的を想像してそれを是認するべきなのだろうか?社会の秩序を乱す場合には、親が子どもを殴ってでもそれが悪であることを解らせる必要があるのではないだろうか?アドラーは、こうした「反社会的な問題」については沈黙しているように感じる。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
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