こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

江戸時代


永井義男『本当はブラックな江戸時代』―若い時はグレていた徳川光圀、他


本当はブラックな江戸時代本当はブラックな江戸時代
永井 義男

辰巳出版 2016-11-02

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 「江戸時代はブラック企業だらけ」、「江戸時代の町は安全ではなかった」、「食の安全・安心などという考えはなかった」、「江戸の町は汚くて子どもや女性、障碍者に対して残酷だった」、「『江戸時代の識字率が高い』というのはまやかし」など、江戸時代をユートピア視する人たちの夢を無残にも打ち砕く1冊。

 『玄桐筆記』には、若かりし頃の徳川光圀が罪もない非人を斬り殺したことが書かれているという。ある時、知り合いの武士と連れ立って外出し、帰りはどっぷり日が暮れてしまった。浅草辺りの堂で一休みしていると、連れの武士がこう言った。「この堂の床下に非人どもが寝ているようです。引っ張り出して、刀の試し斬りをしてはいかがですか」。罪もない者を斬ることはできないと反対した光圀であったが、怖気ついたのかと言われた光圀は後に引けなくなり、堂の下に潜り込んで非人を1人引っ張り出し、「みどもも無慈悲な振る舞いとは思うが、仕方がないのじゃ。前世の因縁と思ってあきらめてくれ」と言って非人を斬り捨てた。

 光圀は「非人を斬ってみせよ」などと言う連中とはつき合えないと言って、連中とはその日限りで絶交したようである。ところが、当時は武士が非人を殺しても何ら咎められることはなかった。逆に、非人が武士を殺せば極刑が待っていた。

 ここからは私が知っている江戸トリビア。上記のエピソード以外にも、若い頃の光圀はかなりグレていたようである。ある時、仲間と連れ立って相撲大会を見に行った光圀は、突如仲間をその大会に参加させた。ところが、仲間がことごとく負けてしまったことに光圀は腹を立て、刀を振り回して相撲大会を台無しにしてしまったという。また、遊郭で遊ぶようになってからは、弟たちにあれこれいやらしい話をして、教育係を困らせたそうだ。光圀が改心したのは18歳の時、司馬遷の『伯夷伝』を読んだのがきっかけである。兄弟の家督相続をめぐってお互いに譲り合う姿に光圀は感銘を受けたと言われている。

 もう1つ江戸トリビア。本書にも書かれている通り、江戸時代には食の安全・安心は担保されていなかった。冷蔵庫もない時代であるから当然である。江戸時代には既に寿司があったが、現代のようにネタを生で出すことはなく、ズケにしたり、炙ったり、〆たりしてひと手間加えるのが普通であった。現在でも、本当の江戸前寿司を出すお店はこのような形で寿司を提供している。

 現在の寿司では、卵焼きは安い部類に入るネタである。しかし、江戸時代には卵焼きが最も高いネタであった。というのも、生卵を入手するのが困難であったからだ。江戸の街並みをテーマとした絵や写真を見ると、武士の屋敷や町人の家が所狭しと並んでおり、とても養鶏場を構えるスペースはない。卵は魚より希少品だったのである。さらにつけ加えると、時代劇では街中を鶏が歩いているシーンをよく目にするが、あれは嘘である。街中を鶏が歩いていれば、町人などがすぐに捕まえて食べてしまっていたであろう。

斎藤洋一、大石慎三郎『身分差別社会の真実』


身分差別社会の真実 (講談社現代新書)身分差別社会の真実 (講談社現代新書)
斎藤 洋一 大石 慎三郎

講談社 1995-07-17

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 《参考記事(ブログ本館)》
 室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について
 山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1)(2)

 上記の記事で、江戸時代には士農工商という区別はなく、武士、百姓、商人という身分があるだけだと書いた。また、武士、百姓、商人という区別は流動的であり、一生の間に身分を変える人がいることにも触れた。そのことに基づいて私は、現在の日本社会を特徴づける多重階層社会において、階層を上(時には下)に移動できる自由が日本人にはあると主張してきた。

 だが、本書によると、百姓と町人の間では身分の移動が多く見られたが、百姓・町人と武士との間ではそれほど移動がなかったとされている。
 百姓・町人身分は「平人」身分としてくくられていた、と考えればよいのではないかと思われる。そうすれば、生まれによって身分が決まり、その変更は原則としてできないということが、「平人」身分にも妥当するからである。なぜなら、「平人」が武士になることはそれほどなかったし、また、「平人」が「えた」「ひにん」などになることはめったになかったからである。
 江戸時代の身分社会の特徴は、差別が違う身分間ではなく、同一身分間で見られたことだと著者は指摘する。武士(大名)は、百万石の石高を持つ者から、大名としての最低ランクである一万石の石高しか持たない者まで多様であった。同様に、百姓と町人の社会も、複数の階層から成り立っていた。ただ、ここで私なりにポジティブな見方をすれば、身分を超えた移動は少なかったかもしれないが、身分内での移動は比較的多く存在したのではないかと考える。

 全く自由がない社会とは、生まれながらにして身分が決まっており、それを一生の間に変更することができず、上の身分からの命令に絶対に従わなければならない社会である。インドのカースト制はこれに近かったと思われる。これとは逆に”完全自由社会”とは、人間が出自とは無関係に、何にでもなることができる社会である。アメリカは完全自由社会を信奉している。

 ただ、アメリカの場合は、全ての人が自由に自己実現できるわけではない。アメリカは唯一絶対の神を信じるキリスト教の国である。アメリカのキリスト教の特徴は選民思想である(だから、アメリカとイスラエルは気が合う)。自己実現できる人は、神によってあらかじめ選ばれている。その選ばれた人が信仰によって、「私は一生のうちにこれを実現する」と神との間で”契約”することができれば、その人は自己実現ができる。せっかく選ばれたのに神と契約を結ばなかった人、それからそもそも神に選ばれなかった人は、自己実現をする人の道具・しもべとなるしかない。したがって、アメリカ社会では極端な格差が生じる。

 日本は完全不自由社会と完全自由社会の間に位置する。冒頭でも書いたように、私は以前、日本人は階層を上下に自由に移動できると書いたが、そのトーンは少し弱めなければならないだろう。つまり、日本人は生まれながらにしてある程度身分が決まっている。そして、どう頑張ってもなることができない身分がある。天皇家に生まれない限り、天皇になることはできない。天皇は、日本社会には”身分の天井”があることを象徴していると言えるかもしれない。

 日本人はあらかじめ階層社会の中で位置を決められている。まずは、そのポジションにおいて、周囲から期待されていることを誠実に履行することが重要となる。これは、一見不自由なように見えて、実は利点もある。というのも、完全自由社会のように、自分は何をしたいのか、何をすればよいのかをゼロから考える必要がないからだ。日本人は、自分に与えられた役割に対して、最初からエネルギーを投入することができる。これが日本人の1つ目の自由である。

 また、本人が努力して能力を磨けば、ポジションを移動させることも可能である。前述の通り、”身分の天井”があるため、大幅な移動は難しいかもしれないが、江戸時代のように身分の内部は多重化しているため、多少はポジションを変更することができる。これが日本人の2つ目の自由である。仮に自分の位置を変えることができなくても、冒頭の参考記事で書いたように、上の階層に対する”下剋上”や下の階層に対する”下問”、さらに水平方向の連携を通じて、周囲のプレイヤーの役割の遂行を助けることができる。ありていに言えば、他人に”口出し”ができる。これが日本人の3つ目の自由である。

 ただし、”身分の天井”の存在が日本社会にとって本当に妥当なのかは、検証が必要だろう。現在の日本社会には、非正規社員という1つの身分が存在する。また、女性の活躍推進が強調されるようになっても、依然として管理職になることができる女性の数は少ない。下流老人のように、努力して収入を増やしたくてもそれができない人々もいる。こういう人たちにとっての自由とは一体何なのか、この点についても議論しなければならない。

大石慎三郎『江戸時代』


江戸時代 (中公新書 (476))江戸時代 (中公新書 (476))
大石 慎三郎

中央公論新社 1977-08-25

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 ブログ本館で、我々が戦後に受けてきた歴史教育は、左派の影響を受けていると何度か書いた(「E・H・カー『歴史とは何か』―日本の歴史教科書は偏った価値がだいぶ抜けたが、その代わりに無味乾燥になった」などを参照)。私自身も随分と左寄りの教育を受けており、無意識のうちにそれが当たり前だと思っていたことに、大人になってから気づいた。

 江戸時代には士農工商という身分制度があり、生活に苦しむ農民はしばしば百姓一揆を起こしたというのが、私が子どもの頃の”定説”であった。しかしこれは、共産主義の影響を受けた記述であると後に知った。共産主義は階級によって身分が固定された社会を前提とし、下の階級が上の階級を革命によって打倒することを目指す。そのイデオロギーが”定説”には反映されていたというわけだ。

 そもそも、士農工商という言葉は、日本ではなく中国の言葉である。士農工商とは中国の春秋戦国時代における「民」の分類で、例えば『管子』には「士農工商四民、国の礎」と記されている。士とは知識人や官吏などを意味し、農業、工業、商業の各職業を並べて「民全体」を意味する四字熟語となった。漢書には「士農工商、四民に業あり」とあり、「民」の職業は4種類に大別されることを表していた。

 実際の江戸社会においては、士農工商という明確な身分は存在しなかったというのが、現在定着している歴史的見解である。最近の歴史教科書からも、士農工商という言葉は消えているそうだ。武士、農民、町人の区分はかなり流動的であった(「工」に相当する人は存在しなかったらしい)。商売をする農民もいたし、農民になる武士もいた。逆に、武士になった農民もいた(ブログ本館の記事室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について」を参照)。

 左派は富が嫌いである。逆に言えば、質素倹約を是とする。だから、緊縮財政を行った享保の改革や寛政の改革などが称賛される。享保の改革とは、8代将軍徳川吉宗が新井白石などを登用して行った改革である。寛政の改革は、老中・松平定信が享保の改革を手本として行った。江戸時代の改革と言えば、これに天保の改革を行った水野忠邦を加えて3点セットで覚えさせられる。

 一方で、享保の改革以前、5代将軍綱吉の時に貨幣改鋳を行った荻原重秀は、どちらかと言うと悪役のように扱われる。教科書によっては、貨幣”改悪”と表現されている。しかし、時代背景をよく理解する必要がある。荻原重秀の時代には、デフレが深刻化していた。そこで荻原重秀は、貨幣に含まれる金の割合を減らすことで貨幣の価値を下げ、実質的に貨幣量を増やすことにした。これは、今の日銀による異次元緩和と全く同じである。

 寛政の改革の前に実権を握っていた田沼意次は、さらに推し進めた貨幣政策を展開した。田沼意次は、貨幣に金額を記せば貨幣の本来の価値に関係なくその金額が通用するようにした。これは、現在の信用通貨の概念に等しいものである。ところが、教科書では賄賂政治の元締めのイメージが先行している。

 荻原重秀や田沼意次の貨幣政策によって、日本は好景気になった。それが下地となって、元禄文化(元禄年間(1688~1707年)前後の文化)や化政文化(文化・文政期(1804~1830年)前後の文化)が生まれたことを忘れてはならない。教科書は、鎖国体制の下で成熟した日本独自の元禄文化や化政文化を高く評価する一方で、これらの文化の要因となった荻原重秀や田沼意次は軽視する傾向がある。これではいかにもバランスが悪いと感じる。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
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