インド人とのつきあい方―インドの常識とビジネスの奥義インド人とのつきあい方―インドの常識とビジネスの奥義
清好 延

ダイヤモンド社 2009-07-17

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 著者はインド滞在が22年にも及ぶとあって、さすがに濃密な内容であった。インドの食事に関して言うと、ヒンドゥー教が牛を神聖な動物としており、イスラームが豚を不浄の動物としていることから、インド人と食事をする際には野菜中心の食事にするべきだと多くの本には書かれている。しかし、本書には、牛や豚については例外もあることが書かれている。

 また、野菜なら安全と考えるのも問題だという。空衣派のジャイナ教は最も厳しいベジタリアンであり、根菜を食べない。根菜を収穫する際に、地中の虫や細菌を傷つけるからというのがその理由である。野菜と鶏の無精卵は食べるが、有精卵は食べないというグループもあるし、卵までならOKというグループもある。

 魚に関しては、淡水魚は食べるが海の魚は食べないという人たちがいる。インド人は海、特に南西の海を悪魔の世界と考えているためである(よって、インドの南東にあるスリランカ(セイロン島)は、古来から悪魔が住む島とされてきた。このエピソードが日本に伝わって、桃太郎の鬼ヶ島の話ができたと言われる)。

 ヒンドゥー教では牛が神聖な動物と位置づけられるが、牛乳や乳製品は全てのインド人にとってOKであるらしい。牛乳の他に、バター、ヨーグルト、チーズなどは日常的に使われる。生きている牛から収穫できる牛乳を原料としているから問題ないというのがその理由である。逆に言えば、牛を殺した後に作られるヘッド(油)はNGである(同じ理由で、豚肉から作られるラードも使用不可である)。

 本書をざっと読むと、インド人はアメリカ人とよく似ていると感じる。自己責任で行動しなければならない、自己主張が強い、議論を好む、タフな交渉を仕掛けてくる、訴訟大国である、などである。インドもアメリカと同様に多様性に富んだ国である。別の本を読んでいたら、インドは1つの国というよりも、国際連合やEUのような集合体であると表現されていた。多様性に富んだ社会では、自分が何者であるかをはっきりと主張しなければならない。また、誰がいつ何時攻撃をしてくるかわからないから、自分の身は自分で守る必要がある。

 ただ、本書をよく読むと、インドとアメリカの間には1つ決定的な違いがあるのではないかとの考えに至った。アメリカの場合は、他者の存在を強く意識しており、他者に対する恐れ(fear)が根底にある。これは、アングロサクソン系の民族によく見られる傾向である(ブログ本館の記事「「日本と欧米の経営、ガバナンス、リスクマネジメントの違い」について教えてもらったこと」を参照)。

 一方、インド人の場合は、他者に対する恐れというものがない。逆に、他者に限りなく接近していく。いや、他者という存在そのものをあまり意識しておらず、自分のペースで延々と物事を進めているのかもしれない。象徴的な例を本書から取り上げると、インド人同士の対人距離感は約50cmと非常に近い(日本人の場合は約1.5mである)。インドでは、男性同士が手をつないで歩くことも普通らしい。

 インド人は多弁である。インド人に道を聞くと、こちらが望んでいないことまであれこれと教えてくれる。インド人はインド人なりに、一生懸命こちらを喜ばせようとしている。だが、こちらのニーズをくみ取って、必要な情報を端的に伝えるという意識がやや乏しいのかもしれない。インド人との議論や交渉は長時間に及ぶ。しかも、言っていることが途中でコロコロ変わる。この辺りが、アメリカ人の交渉との違いである。インド人は、相手の主張との間で妥結点を探るというよりも、とにかくその時に言いたいと思ったことを口にしているとも考えられる。

 インド人は話も長ければ文章も長いようだ。インド人の部下にパワーポイントで資料を作らせると、小さい文字の英語でびっしりと文章を書いたものを持ってくる。これも、自分が書きたいことを何でもいいから全部詰め込めばいいという発想の表れなのだろう。そこで、日本人が箇条書きでポイントを絞って書き直すと、「そんなまとめ方があったのか」と非常に喜ばれるという。

 インドの企業には、日本のように「お客様は神様」という考え方はない。だから、インド人の店員は、日本人から見るとぶっきらぼうな対応をする。インド人は、自分が商品を売りたいから店を開いていると考える。だから、顧客が商品を買ってくれても「ありがとう」とは思わない。むしろ、お礼を言うのは顧客側である。

 インドでは慈悲が盛んに行われる。慈悲の恩恵にあずかる人は、慈悲を施してくれた人に対して「ありがとう」とは思わない。慈悲を施すのは、その人が慈悲を施したいと考えているからだというわけである。だから、慈悲を受ける人は、慈悲を施す人に媚びることがない。このように、インド社会というのは、万事において他者の存在が影を潜め、自己を中心として回っているようなのである。

 13億人が自分軸を中心に回っている世界で立ち回るにはどうすればよいか?著者は、日本人も「自分の判断の基準軸」を持つことが大切だという。そうすれば、インド人と対等につき合うことができ、インドが好きになる。逆に、自分軸がない日本人がインドに行くと、周りにぶんぶん振り回されて嫌気が差す。私が色々な人から聞いた話では、インドの駐在経験がある日本人は、インドが大好きになるか、大嫌いになるか、どちらかにはっきり分かれるという。その差は、その人に自分軸があるかないかに起因するのではないかと考えられる。


 《2016年4月28日追記》
 八代京子他『異文化トレーニング』(三修社、2009年)に、インド人を題材としたケーススタディが載っていた。日本人高校生のAさんは、近所に引っ越してきたインド人と知り合いになった。インド人はAさんに、是非日本語を教えてほしいとお願いしてきた。Aさんも外国人の友人ができることは嬉しいことだし、Aさんもインド人から英語を教えてもらいたいと思ったので、快く快諾した。

 次の日以降、そのインド人はAさんの自宅によく遊びに来た。ここまでは想定の範囲内だったのだが、そのインド人はやがて、自分の友人である別のインド人を次々と連れて来るようになった。Aさんは大勢のインド人が頻繁に訪れることに困惑た。自分が思ったほど英語の勉強ができないどころか、英語以外の科目の勉強にも支障をきたすようになった。期末試験の成績が悪かったAさんはとうとう、そのインド人に対して、もうこれ以上家に来ないでほしいと言ってしまった。

 このインド人は、「自分が仲良くなった人が自分とだけ仲良くするのはもったいない。だから、他のインド人も紹介してあげよう」と思ったのだろう。しかし、そこにはAさんの視点が抜けている。これも、どちらかと言うと他者の存在が一歩後退し、自分軸で動くインド人の行動特性が表れている事例なのかもしれない。


異文化トレーニング異文化トレーニング
八代 京子 町恵理子 小池浩子 吉田友子

三修社 2009-10-21

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