論語 (岩波文庫 青202-1)論語 (岩波文庫 青202-1)
 訳注

岩波書店 1999-11-16

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。(為政十五)
 【現代語訳】先生がいわれた、「学んでも考えなければ(※)、〔ものごとは〕はっきりしない。考えても学ばなければ、〔独断におちいって〕危険である。」
 (※)学んでも―学とは本を読み先生に聞く、外からの習得をいう。
 これまで様々な書籍で断片的に『論語』の文章に触れてきたが、36歳にして初めて『論語』を通読した。『論語』の研究をライフワークの1つに加えたいと思う。65歳ぐらいになって、若手のコンサルタントから厄介払いされた時に、論語の私塾でも開いてやろうというのが私の密かな願望である。

 『論語』を1回通読したぐらいでは、愚劣な私には「仁」など理解できない。その意味を探求するのが人生の目標である。今回『論語』を通読してみて印象に残ったのは、「学習に対する姿勢」である。特に、冒頭の引用文が心に響いた。

 「学んで思わざれば則ち罔し」、「思うて学ばざれば則ち殆うし」は、いずれも私に思い当たる節がある。私は学生時代に、キャンパス内の生協食堂の売上高を上げるという、コンサルティングのようなプロジェクトに参加していたことがある。私は法学部の学生だったので、経営に関する知識はゼロで挑んでいた。

 店長向けに経営改善策を提案する資料を作成した時のことであるが、私は自分なりに一生懸命考えて、ロジックの通った資料を書いたつもりであった。ところが、それを他のプロジェクトメンバーに見せたところ、ボコボコに批判された。一番堪えたのは、同級生から「もっと経営の本を読んで勉強しろよ」と厳しく叱責されたことである。これが「思うて学ばざれば則ち殆うし」の体験である。元来本嫌いであった私が、本をよく読むようになったのは、この一件がきっかけである。

 それ以来、ピーター・ドラッカーをはじめとして、経営に関する本を貪るように読んだ。だが、今度はそれが仇になった事件がある。私が新卒入社した会社をわずか1年あまりで退職し、中小企業診断士の試験に合格して、8か月ほどのブランクの後に転職活動をしていた時のことである。ある企業の面接で、面接官は経営に関する質問をいくつも投げかけてきた。例えば、「なぜ社員の強みを活かす必要があるのか?」といった具合である。これらの質問に対し、私はドラッカーなどの書籍に書いてあったことを熱心に回答した。面接官が「なぜそう言えるのか?」と突っ込んで聞いてくると、私はさらに書籍の内容を話した。

 すると、面接官は私に向かって、「君は本の読みすぎだ」と言ってきた。本をたくさん読むのはよいが、その内容のよしあしを自分なりに考えて、独自の知識に落とし込む作業が足りていない、ということを言いたかったのだろうと思う。これが、「学んで思わざれば則ち罔し」を思い知らされた一件である(当然のことながら、その会社の面接は不合格になった)。

 今振り返ると、若いうちに「学んで思わざれば則ち罔し」と「思うて学ばざれば則ち殆うし」の両方を経験できたのは幸運であったかもしれない。現在の私がブログ本館で長々と書籍のレビュー記事を書いているのは、自分なりに逡巡したことを記録しておくためであり、またその内容をコンサルティングの実践に活かすためである。さらに、コンサルティングの実践を通じて体得したことを書籍の内容に照らし合わせて、より深いところで書籍を理解するためである。

 私は時々、相応の年齢になっているにもかかわらず、「学んで思わざれば則ち罔し」や「思うて学ばざれば則ち殆うし」の状態になっている人を見かける。特に、「学んで思わざれば則ち罔し」になっている人をよく目にする。その典型が、私の前職のベンチャー企業の社長である。前職のベンチャー企業については、ブログ本館の「【シリーズ】ベンチャー失敗の教訓」をご覧いただきたいが、A社長とC社長は元々、外資系のコンサルティングファームの出身であった。前職の会社には他にもこのコンサルファームから転職してきた人が何人もいたのだが、彼らの大半に共通して言えるのは、本国のデータベースに蓄積されているコンサルティング事例を日本企業にそのままあてはめようとする、ということだった。

 そういう癖が染みついているため、こういうことが起きる。ある時、C社長は、「我が社のコンサルタントはコンサルタントとしての知識が足りない」と言い出して、自らコンサルタントを教育することになった。ところが、その際に使用したのは、C社長がマッキンゼーの知り合いのコンサルタントから頂戴したという、戦略立案の方法論に関するパワーポイントであった。つまり、C社長のオリジナリティはどこにもなかった。話の内容も、おそらくそのパワーポイントを作ったマッキンゼーのコンサルタントの話を丸々コピーしているのではないかと思わせるものであった。

 またある時は、大学院で社会人学生にエニアグラムを用いた自己理解を教えることになった。実は、これはC社長が率いるZ社の本業とは全く関係がなく、C社長が個人的に請け負った仕事であった。C社長は、A社長が率いる教育研修サービスのX社のコンテンツを借用した。驚いたのは、C社長がZ社の定例の戦略会議を、突然エニアグラムの講義の練習の場にしてしまったことである。全く、公私混同も甚だしい話である。しかも、その話し方は何回やってもたどたどしく、自分の頭で考えたのかと疑問を抱かざるを得なかった。

 C社長には、私が当時担当していた大口顧客で、営業担当者向けに特別研修の講師をやってもらったことがある。研修のテーマは、「グローバル環境の変化が企業のIT戦略にどのような影響を及ぼすか」であった。だが、研修終了後の受講者のアンケートには、「インターネットから拾える情報ばかりだった」、「コンサルタントとしては賞味期限が切れている」など、辛口の批評がたくさん書かれていた。研修の内容を事前にしっかり確認しなかった私も悪かったのだが、C社長はもはや思考停止状態に陥っているのだと思い知らされた。

 A社長のデスクの近くの本棚には、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビューが仰々しく陳列され、経営に関する本がおそらく1,000冊ぐらい並んでいた。しかし、A社長は本を読んで一体何を学んだのかと言いたくなるぐらい、経営が下手であった。だから、売上高1.5億円ほどに対して営業”赤字”7,000万円という悲惨な業績になったこともあったし、1回目のリストラで「もうリストラはしない」と社員に宣言しておきながら、その後2回もリストラを行っている。

 A社長が率いるX社は組織変革・人材育成を軸としたサービスを提供している企業にもかかわらず、社員の育成には全くと言っていいほど無関心であった。それが端的に表れているのが、X社には人事考課がなかったことである。人事考課を行わなければ、人材育成のPDCAサイクルを回すことができない。それなのに、最近はアメリカ企業が”No Rating”と言って人事考課を次々と廃止しているという時流に乗って、A社長は「人事考課はもう必要ない」といった内容の書籍を出しているらしい。A社長は、時代が自分の流儀に追いついてきたとでも思っているのかもしれないが、単に自分のこれまでの怠慢を隠すための詭弁である。
 子の曰わく、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。(子罕二十三)
 【現代語訳】先生がいわれた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今〔の自分〕に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判がたたないとすれば、それはもう恐れるまでもないものだよ。」
 中小企業診断士の世界にいると、周りが50代、60代(中には70代も)ばかりなので自分が若いような気持ちになるのだが、私も何だかんだでもう36歳である。私が今最も恐れているのが、上記の引用文に書かれていることである。私は人材育成が専門分野だと周りには公言している。しかし、40歳になっても、「人材育成と言えば谷藤だ」という評判が立たなければ、私の人生は”詰み”だと思う。