言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)
野矢 茂樹 西村 義樹

中央公論新社 2013-06-24

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 《参考記事(ブログ本館)》
 飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)
 森本浩一『デイヴィドソン―「言語」なんて存在するのだろうか』―他者が積極的に介在する言語論に安心する
 門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に

 ブログ本館で「シリーズ哲学のエッセンス」の言語論について書いた記事を改めて読み直したのだが、自分の理解が浅くて涙が出そうだ。それでも、自分の無知をさらにさらすことを覚悟で、言語学の本について記事を書いてみたいと思う。

 かつての言語学の世界では、アメリカの構造主義が主流を占めていた。アメリカ構造主義は行動主義とも呼ばれ、人間が言語を使用するプロセスに注目する。人間はあるインプットを受けると、何らかの言語処理を行って、言語というアウトプットを出す。アメリカ構造主義では、人間の言語処理をブラックボックスのままとし、インプットとアウトプットの関係を記述することに徹した。これに異を唱えたのがチョムスキーであり、彼は「生成文法」というものを発想した。

 チョムスキーは、アメリカ構造主義者が不問とした言語処理の中身を明らかにすることに努めた。我々が普段用いる様々な単語のことを「語彙項目」、そして「<名詞>+<動詞>」のような文の構造を「文法項目」と呼ぶ。語彙項目を文法項目にあてはめた時、明らかにおかしなものを排除していく。例えば、「私は財布を落としました」は正しいが、「私は財布に落ちられました」は不自然である。このような作業を繰り返して行くと、語彙項目の組合せには何らかのルールがあることが解る。こうしたルールのことを「統語論」と呼ぶ。

 生成文法では、能動態と受動態は同じ意味を表すとされる。具体例で言うと、「ダビデはゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は同じ意味である。統語論的には2つのルールで記述されているが、意味は同じとして扱われる。つまり、「統語論」と「意味論」は区別される。別の言い方をすれば、文法項目には意味がなく、意味を持つのは語彙項目のみとなる。そして、文法は異なっても意味は同じになる場合があることを指して、「客観主義の意味論」と称する。

 生成文法に対して、著者の西村義樹氏が研究しているのが「認知言語学」である。認知言語学はその名の通り、認知と言語の関係を扱うため、生成文法のように客観的なルールを切り出して整然と並べるのではなく、言語と心の働きを一体のものとする。また、語彙項目だけでなく、文法項目にも意味があると主張する。したがって、先ほどの「ダビデはゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は、意味が違うことになる。本書では他にも、使役構文、プロトタイプ、メトニミーなどに触れながら、認知言語学の広がりが紹介されている。

 生成文法が厳格であるのに対し、認知言語学は柔軟性や拡張性がある。(私の誤解でないことを願いたいのだが、)「私は財布に落ちられました」は、生成文法の観点では正しくないものの、認知言語学では意味が通用する。先日、私は実際に財布を落としたのだが、私の不注意というよりも、財布の方から勝手に転げ落ちたのであり、落ちた財布が悪い、被害者は私の方だと思っている。こういう気持ちを他者と共有したい場合には、「私は財布に落ちられました」という恨めしさを込めた表現の方が適している。この考え方を拡張していくと、当事者間で意味が共有できるのであれば、どんな言語を用いてもよいことになる。

 ただし、これを逆方向に突き詰めていけば、どんな言葉を用いても意味が通じない世界というのも想定できる。冒頭の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」でも書いたような事態である。こうなると、人間にとっては破滅的である。人間は、世界を意味で切り取ることができず、世界から放たれる全ての刺激を背負い込まなければならない。それを負担に感じているうちはまだましで、それを逆手にとって私が世界の全てを抱えているのだと肯定し始めると危険である。私は世界と等しい。同時に、他者にも同じように世界が全て流れ込む。ここに、私=他者=世界という構図が成立する。これは全体主義に他ならない。

 クリプキがヒュームの懐疑主義を導入してこの破滅を回避したように、認知的言語学は、「百科事典的意味論」を用意している。つまり、多くの人があらかじめ合意している意味の集合があると考える。我々の拡張的な言葉遣いは、百科事典的意味論の上に展開される。こう考えれば、破滅的な事態に至らずに済む。