週刊ダイヤモンド 2017年11/18号 [雑誌] (右派×左派 ねじれで読み解く企業・経済・政治・大学)週刊ダイヤモンド 2017年11/18号 [雑誌] (右派×左派 ねじれで読み解く企業・経済・政治・大学)

ダイヤモンド社 2017-11-13

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 本号の特集「右派×左派」とは関係ないところで1つ興味深い記事を見つけた。
 最近の若者は、与えられた職務には真摯に取り組むが、その一方で、組織の中で分担が曖昧になっている仕事は「誰かがやるだろう」と捉え、率先して取り組むという感性が鈍いといわれている。

 野球の現場もそれと似ており、打つ、投げるという技量の向上には意欲的になる反面、連係プレーにミスが出るケースが増えている。組織(チーム)の危機につながるリスクは、人(選手)の能力ではなく、人と人の間(複数の選手が絡むプレー)から生まれるのだ。

 例えば、ある遊撃手には、三遊間からの送球がそれる癖があるとしよう。悪送球で走者が進めばピンチになるが、一塁手がその癖を把握した上でうまく捕ってやれば、ミスを未然に防ぐことができる。ここ一番の勝負におけるヤマハの弱点は、そうした連係意識の欠如にあると気付いた美甘(将弘監督)は、「ヤマハのミス」という表現で選手たちに強く意識させる。
(横尾弘一「夢の狭間で#43 ニッポン企業の写し絵、社会人野球 ”勝ち運”を持つ男が率いて掴み取った4度目の日本一」)
 私は、最近の若者(個人的には若者に限らないと思うのだが)が組織の中で分担が曖昧になっている仕事をやりたがらないのは、欧米から職務給や成果主義が持ち込まれた影響が大きいと思う。職務給や成果主義では、それぞれの社員の職務範囲や目指すべき成果が明確に定義される。そして、給与とはその職務や成果に対する対価として位置づけられる。

 今後、ますます仕事の不確実性が増し、さらにチームワークやコラボレーションの機会が増えると、あらかじめ想定していなかった仕事が次々と発生する。その仕事は誰かが率先して拾わなければ、チームやプロジェクトが回らない。こういうケースにおいて、職務給や成果給は非常に相性が悪い。職務給や成果給は「自分はここまで仕事をすればOKである」、「自分の給与の額を考えれば、それは自分の仕事の範疇ではない」という境界線を引いてしまう。そういう意識が組織運営に深刻な弊害をもたらすことを、私は前職のベンチャー企業で嫌と言うほど経験した(ブログ本館の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第41回)】自分の「時間単価」の高さを言い訳に雑用をしない」を参照)。

 私は給与を職務や成果に対する対価としてとらえる立場に反対である。普段は保守的なことを書いている私がこういうことを書くと、突然リベラルに転向したのかと思われるかもしれないが、給与に関しては、私は生活給を支持している。つまり、給与とは社員の生活費をまかなうものである。もっと言えば、マルクスが主張したように、給与とは、①社員が生活する、②社員が自己教育に投資する、③社員の家族を再生産する(=子どもを産み育てる)ための費用をカバーするものである。そして、通常①~③のコストは年齢とともに上昇するから、生活給は自ずと年功的になる。私はこれが最も公平な給与制度だと思っている。

 ただ、こう書いておきながら、ここで2つの疑問が生じる。1つ目は、企業が社員に対して支払う報酬は生活給であるのに対し、顧客が企業に対して支払う報酬は、製品・サービスに対する対価、言い換えれば、企業がした仕事に対する対価であるという点である。顧客は企業から製品・サービスを購入しているのと同様に、企業は社員から労働力を購入している。それなのに両者の報酬の性質に違いが生じる理由をどのように説明すればよいかが今の私にはまだ解らない。

 もう1つの疑問は、引用文の通り野球では連係プレーが欠かせないが、プロ野球で生活給を採用している球団は1つもなく、基本的には成果主義的な報酬が採用されているという点だ。それでも連係プレーのミスを防ぐために、どのような工夫をしているのかというのが2つ目の疑問である(広島東洋カープは選手の査定項目を1,000以上設定している。おそらく、その中には連係プレーの項目も細かく入っているのだろう。だが、この方法では査定作業が非常に煩雑になる)。