徳川家康(上) (ちくま文庫)徳川家康(上) (ちくま文庫)
山本七平

筑摩書房 2010-12-10

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 本書を読んで徳川家康に対するイメージが変わった点が2つある。家康は幼少の頃に今川義元の下に人質として取られ、苦労したと思っていた。ところが、戦国時代の人質はいわば外交カードであるから、そんなに人質をぞんざいに扱うことはない。家康はむしろ義元によって大事に扱われた方で、今川家の分国法である「今川仮名目録」や、そのベースとなった「貞永式目」を学んだのではないかと山本七平は指摘している。戦国時代は、国の外に出れば血なまぐさい戦闘があったが、国の内部は法と秩序によって整然と統治しなければ人心を掌握することができない。そういうルールの重要性を、家康は人質時代に学習した。

 信長、秀吉、家康の3人の性格を比較する有名な言葉として、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」というものがある。家康の我慢強さを表した言葉であるが、本書によると、家康とて鳴かぬホトトギスを辛抱強く待ったとは言えなさそうだ。

 家康は自分より強い者に対しては平身低頭で従う一方、自分より弱い者は徹底的に攻撃した。家康も自分の弟をはじめ親族を何人も殺しているし、江戸幕府を開いた後に秀頼・淀君を執拗に追い詰め、ついに豊臣家を滅亡させた。だから、家康も「鳴かぬなら殺してしまえ」と思っていたのであり、これは何も信長に特有なのではなく、戦国時代とはそういう時代だったと考えるのが自然である。

 もう1つ、私の歴史知識が浅薄だったと思うのは、関ケ原の合戦は家康と石田三成の対決だと覚えていたことである。正しくは、家康と毛利輝元の戦いである。大坂城に秀頼という秀吉の後継者を抱え、江戸までを広く支配下に置いていた家康に対しては、当然のことながら快く思わない連中が出てくる。上杉景勝は前田利長と同盟を結んで家康を攻撃しようとした。ところが、利長は家康暗殺計画に関与したとして没落し、同盟の話は立ち消えとなった。そこで、景勝は西方の輝元と結んで、家康を東西から挟撃することを思い立った。

 実際に両者の同盟を具体化させていたのは、景勝の下にいた直江兼続と、輝元の下にいた安国寺恵瓊である。この2人の計画に三成が絡んで、密約が成立していた可能性を山本は指摘している。まず、景勝が家康を攻撃しようとしているという情報を流す。家康は五大老の合議で、景勝に対し、家康を攻撃する意図がないならば上洛せよと命じた。これに対して、兼続はそんな疑いをかけられるのは心外だという内容の文書を家康に送った。ここまでは計画通りである。もし家康がその手紙に反応すれば、大坂城にいる家康は、景勝を攻撃するために江戸の方に出てくる。大坂城が留守になった隙に輝元が秀頼を奪い、家康は秀頼に反した裏切り者であると宣言して、諸国大名を結集させるのが狙いであった。

 果たして輝元は秀頼を奪うことに成功した。ところが、秀頼を奪われた淀君は、家康を裏切り者とは見なさなかった。むしろ、三成らの陰謀にかかっているため、江戸にいる家康に対して、早く大坂に戻ってきてほしいというメッセージを送った。こうなれば、大義名分は輝元側ではなく家康側にある。上方に転進した家康と輝元が激突することになったのが関ヶ原の合戦である。

 だが、輝元は五大老の一員であり、景勝に上洛を勧めた張本人である。その輝元が家康と敵対しているというのはおかしな構図である。山本は、元就は権謀術数を駆使する稀代の戦略家であったと評価しているが、輝元については何を考えているのか解らない人物だとバッサリ斬っている。そこで、西軍を動かしていたのは三成ということになるわけだが、三成は官僚組織の中でうまく立ち回ることについては長けていたものの、戦闘となるとさっぱりであった。

 明治の初めに日本の士官学校に教官として来日したプロシアのメッケルは、関ヶ原の布陣図を見て即座に西軍の勝ちと断定したという。しかし、実際に勝ったのは東軍である。家康は西軍にスパイを送り、西軍が組織としての体をなしていないことを突き止めていた。東軍にはスパイからの情報が次々と上がってくるが、西軍にはそういう動きがほとんどなかった。山本は、関ヶ原の合戦は作戦の戦いではなく、政略の戦いであったと評している。