こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

社会主義

岸見一郎『アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために』―アドラーの左派っぽくない一面と左派っぽい一面


アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)
岸見 一郎

ベストセラーズ 1999-09-01

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 久しぶりにアドラー心理学を読み返してみた。アドラーは社会主義者である。社会主義は全体主義であり、ブログ本館の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで何度か議論を展開したが、今一度簡単に整理すると次のようになる。

 人間は唯一絶対で完全無欠の神に似せて創造された。よって、人間もまた完全無欠の理性を持っている。完全無欠の理性は唯一絶対であるから、人間の創造性は必ず単一の方向に収斂する。「私の考えはあなたの考えと等しく、よって全体とも等しい」。したがって、近代化の産物であるかのようにとらえられている民主主義は、実は独裁と両立する。また、私とあなたが等しいということは、私は自分自身の身体を自由に処分することができないことを意味する。つまり、私有権が否定される。「私の財産はあなたの財産であって、よって全体の財産である」ことになり、共有財産制が選択される。

 人間の理性は生まれながらにして完全無欠である。だから、時間の流れが存在しない。将来に向かって能力を開発しようという発想はない。全体主義においては、時間は現在に固定される。教育者がよかれと思って幼子を教育することは悪である。そのため、全体主義の下では、しばしば知識層が迫害される。理想はあらかじめ固定されていて、絶対に動くことがない。

 また、人間の理性は唯一絶対であるから、理論的にはその人間が集合する社会もまた完全無欠である。しかし、現実には社会は様々な欠陥を抱えている。そこで、人間は理想の社会を実現するために革命を起こす。だがここでもう1つ問題が生じる。不老不死の神とは異なり、人間には寿命がある。しかも、全体主義では現在という時間しか存在しないため、人間の寿命は一瞬である。とはいえ、現在において一瞬にして死ぬということは、現在において一瞬にして生まれることでもある。よって、人間は一瞬の生死を繰り返しながら、永遠に革命を続ける。現在という1点において、生と死は連環する。ニーチェの言う永遠回帰である。

 だが、アドラーの心理学は、上記の全体主義のような硬直的なものではない。むしろ、伝統的な右派の考えに近いものがたくさん見られる。まず、アドラーは絶対的・客観的な真実というものを否定する。そうではなく、それぞれの人が主観的に心に抱いている事実を重視する。つまり、人間の考え方に多様性を認める。これは、本当の意味でのリベラリズムである。人間は自由である。ただし、自分の人生には自分で責任を持たなければならないと注文をつけている。

 全体主義においては私とあなたは完全に等しいため、両者が対立することはない。これに対して、各々が異なる思想を持っている自由主義の下では、私の自由が他人の自由と衝突することがある。その場合には、言葉によるコミュニケーションを通じて、自由を調整する必要があるとアドラーは述べている。そもそも、人間同士は解り合えないというのがアドラーの前提である。解り合えないから言葉によって解ろうと努力する。しかし、その努力が報われないこともある。その場合には、他人から嫌われてもよいとアドラーは言い切る。私とあなたが等しい全体主義では、他者から嫌われるという事象が発生することはあり得ない。

 全体主義は人間が生まれながらにして完全無欠の理性を持っているとするのに対し、アドラーは誰にでも劣等感があると説く。劣等感は病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激であると指摘する。言い換えれば、我々は劣等感があるから進歩しようと努力する。ここでは、時間が未来へと流れている。ただし、劣等感を隠すために自分は特別な存在であると見せかけることは優越コンプレックスであり、健全な心理状態ではない。優越コンプレックスとは逆に、劣等感が行き過ぎて、「どうせ自分なんて」などと自虐的になることは劣等コンプレックスであり、これもまた避けなければならない。

 全体主義は、いきなり社会全体を理想的なものにしようとする。他方、アドラーは、まずは目の前にいる他者との関係を重視する。劣等感がある自分という存在をありのままに認める「自己受容」、自分とは異なる価値観を持つ他者に接近する上での前提となる「他者信頼」、そして、他者を信頼し人間関係を前進させるための「他者貢献」、この3つがアドラー心理学の骨格である。一応私も経営コンサルタントの端くれなので、コンサルティングの用語を使って表現するならば、全体主義は演繹的なTo-Beに拘泥する。一方、アドラーは帰納的なAs-Isから出発し、望ましい方向を個別具体的に模索する、ということになるだろう。

 ただし、アドラーの心理学は、別の見方をすると左派的に映る部分がある。先ほど劣等感について触れ、劣等感が進歩の源泉であると書いたが、アドラーは別の箇所で「普通であることの勇気」が重要だとも書いている。つまり、人間はそのままでよいということである。この考えを認めると、人間の成長が阻害されてしまうような気がする。それに、そのままの人間を固定的に肯定することは、生まれたての人間の理性を絶対視する全体主義に通ずるように感じる。

 また、アドラーは縦(垂直)の関係ではなく、横(水平)の関係を重視する。例えば、親は子どもを褒めても叱ってもいけないとアドラーは主張する。褒める/叱るという行為は、親が子どもよりも上の立場である、つまり、親子関係が垂直関係であることに基づいているからだという。そうではなく、親子関係を対等と見なし、親は子どもを勇気づけることが重要であると説く。全ての人間が対等になれば、全体としてよい方向に向かっていくというのがアドラーの考えである。

 だが、保守主義的な立場から言わせてもらえば、人々の生まれた時期も社会における役割もバラバラである限り、その人々を水平線上に並べるのは無理があると思う。垂直的な関係があるからこそ、下の者は上の者を敬うという気持ちが生じ、それによって社会が安定する。加えて、下の者は上の者から学び、時には反発・批判しながらも、その考えに磨きをかけて後世に継承する。これが社会の発展につながっていく。それを、観念的に強引に水平関係に落とし込んでしまうと、全体主義のようにかえって時間の流れが止まり、アドラーの主張とは裏腹に、社会が停滞するのではないかと考える。

 アドラーの「目的論」にも批判を加えてみたい。例えば子どもが家で全く勉強をしない時、普通の人はその子どもに学習のモチベーションがないせいだと考える。これをアドラーは「原因論」と呼ぶ。ところが、アドラーは、その子どもの学習意欲の低さをモチベーション不足のせいにしない。アドラーは、その子どもが勉強をしないのは、彼に目的があったからだと解釈する。その目的のために―このケースでは、例えば親を怒らせて親の注意を引くために―勉強をしないというのである。これが目的論の考え方である。

 子どもが家で勉強をしないといった、他者に特段の迷惑をかけない問題のことを、アドラーは「中性的な問題」と呼ぶ。そして、この中性的な問題については、やはり罰してはならないのだと言う。子どもの人生は子どもの課題であって、大人が踏み込むべきではない。子どもには、悲劇的な結末を体験させてやればよい。具体的には、勉強しないと後からどれだけ苦労するか、子どもに味わわせてやればよい。これでは大人の心が痛むというならば、子どもの目的がもっと別のものに変わるように働きかけてやる。ただし、大人にできるのはそこまでである。

 この話を一般化すると、どんな考え方・行為であっても目的論の名の下に容認されることになる。全体主義は唯一絶対の理性を前提とするから単一の思想しか認めないが、左派にはもう1つの流れがある。それは、現実の人間は単一ではなく多様であることに着目し、その存在を全て無条件に、平等に容認するというものである。これは右派のリベラリズムと似ているが、決して同一ではない。

 リベラリズムでは、いくら自由が認められるとはいえ、他者の自由を侵害する場合には社会的制裁としての法が作動する(以前の記事「ティク・ナット・ハン『怒り―心の炎の静め方』―どんな相手とでも破綻した関係を修復できるというのは幻想」を参照)。しかし、アドラーの目的論に従うと、法による制裁の出番がない。どんなに危険な思想であっても、平等に扱わなければならない。「中性的な問題」であれば、社会に対してさほど悪影響もないだろう。だが、例えば子どもが万引きをした場合、いちいち子どもの目的を想像してそれを是認するべきなのだろうか?社会の秩序を乱す場合には、親が子どもを殴ってでもそれが悪であることを解らせる必要があるのではないだろうか?アドラーは、こうした「反社会的な問題」については沈黙しているように感じる。

ダイアン・マルケイ『ギグ・エコノミー―人生100年時代を幸せに暮らす最強の働き方』―フリーランス中心の社会は理想とは思えない


ギグ・エコノミー 人生100年時代を幸せに暮らす最強の働き方ギグ・エコノミー 人生100年時代を幸せに暮らす最強の働き方
ダイアン・マルケイ 門脇 弘典

日経BP社 2017-09-22

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 「ギグ・エコノミー」とは、終身雇用ではなく、”ギグ(単発の仕事)”を基盤とした新たな労働・経済形態のことである。具体的にはコンサルティングや業務請負、アルバイト、派遣労働、フリーランス、自営業、副業、オンラインプラットフォームを介したオンデマンド労働などが該当する。

 アメリカでは、上記のような非伝統的な働き方をしている労働者は2005年の10%から2015年には15.8%へと、ここ10年で1.5倍に増加している。また、事業経営や個人事業による自営業所得・損失の納税申告に用いられる書式を提出した個人の割合は、1980年には約8.5%だったのに対し、2014年には16%強とほぼ倍増している。アメリカでは、フルタイムの社員を雇用すると、独立請負人と比べて人件費が3~4割高くなる。このような状況の中で、社員を独立請負人に切り替える流れがあらゆる業種で加速しているという。

 物凄くかいつまんで言えば、フルタイムの正社員として企業に終身雇用される時代は終わり、労働者の多くが個人事業主やフリーランスとして働く時代がやってくるということなのだろう。だが、私はそういう社会が理想だとはとても思えない。以前の記事「小笹芳央『モチベーション・マネジメント―最強の組織を創り出す、戦略的「やる気」の高め方』―モチベーションを高めるのは社員の責任」で、企業は現代最高の社会主義機関であると恨み節を書いたが、事実現代の企業こそ、社員の生活の安定と経済の成長を実現していると私は考えている。

 それを可能にしているのは、企業が個人では到底なし得ない大規模な仕事を完遂したり、高品質の製品・サービスを提供してくれたりするその組織力に対して顧客がプレミアムを支払うことについて、社会的に暗黙の了解が成立しているからである。また、企業が新製品開発やR&D活動を通じて、現在よりもさらに優れた製品・サービスを開発してくれることに対しても、顧客が期待をしプレミアムを支払うことに合意しているからである。そのプレミアムを分配することで、社員は安定した給与を受け取り、企業はイノベーションに投資することができる。

 フリーランス中心の社会とは、顧客がそのようなプレミアムを負担しない社会である。フリーランスにできる仕事の範囲はたかが知れている。その限定された仕事を安くやってくれれば十分であり、イノベーションなど全く期待されていない。独立請負人の方がフルタイムの正社員よりも人件費が3~4割安くなるのはそのためである。実際のところ、フリーランスの現状は非常に厳しい。中小企業庁が発表している『小規模事業白書(平成28年度版)』によると、フリーランスとして得ている収入が300万円未満という人の割合は実に56.7%に上る。

 フリーランスは、収入が少ないにもかかわらず、やらなければならないことだけはやたらと多い。『上司が鬼とならねば部下は動かず』で知られる染谷和巳氏は、『致知』2018年1月号の中で次のように述べている。
 サラリーマンの中には、独立して自由に仕事をする芸術家や職人に憧れている人がいる。営業ノルマもなく誰にも束縛されずに、マイペースで仕事をしている姿を羨ましく思うのだろう。しかし、それは幻想である。芸術家や職人がその道でやっていこうと思えば、技術はもとより、資金力、得意先との人間関係構築能力、営業力などあらゆる力を駆使できなくてはいけない。(中略)多くの人が独立後、それまで自分がいかに恵まれた環境に身を置いていたかに気づき後悔の涙を流しているのである。現実の社会は決して甘いものではない。
(染谷和巳「仕事観の確立が人を育てる」)
致知2018年1月号仕事と人生 致知2018年1月号

致知出版社 2018-01


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 最近は大企業を中心に、副業解禁の動きが広がっている。私は、正社員という本業を持ちながら、収入の足しになるようにとフリーランスの仕事をすることについては何も言わない。むしろ、普段勤めている企業とは異なる視点で仕事ををすることが、その人の創造力を大いに刺激するかもしれない。だが、フリーランスが中心となるような社会に対しては警鐘を鳴らしたいと思う。フリーランス中心の社会では、多くの労働者が不安定な収入に悩まされ、イノベーションが止まる。政府は、新種の巨大な社会不安に対処するのに苦労するに違いない。

小笹芳央『モチベーション・マネジメント―最強の組織を創り出す、戦略的「やる気」の高め方』―モチベーションを高めるのは社員の責任


モチベーション・マネジメント ― 最強の組織を創り出す、戦略的「やる気」の高め方 (PHPビジネス選書)モチベーション・マネジメント ― 最強の組織を創り出す、戦略的「やる気」の高め方 (PHPビジネス選書)
小笹 芳央

PHP研究所 2002-12-02

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 私が大学生の時に買って読んだ本を10数年ぶりに読み返してみた。恨み節を言うわけではないが、会社員というのは非常に恵まれた”身分”である。仕事がない時期があっても周りの人が働いてくれるおかげで給料はもらえるし(その代わり、周りの人に仕事がない時には自分が働かなければならないが)、仕事で大失敗を犯しても減俸か左遷で済まされるし、健康保険や年金の半分を会社が負担してくれるし、福利厚生制度があるし、有給を取れば仕事を休んでも給料が入るし、病気で長期間休養しても収入の一定割合を保障してくれる制度がある。

 それに、本書で「社員のモチベーションアップは企業の務めである」と書かれているように、会社が自分のモチベーションにも気を配ってくれる。加えて、改正職業能力開発促進法が昨年の4月から施行されたことによって、社員はキャリアコンサルティングの機会を受ける権利まで取得した。独立して1人で仕事をしている私から見れば、まさに至れり尽くせりである。現代の会社こそ、最高の社会主義機関なのではないかとさえ思えてくる。

 独立すると、これらの特権は何もないことに気づく。仕事がなければ収入はゼロであるし、病気で仕事ができなければそれまでの仕事を失う(私は独立してから2度病気で入院し、仕事に支障をきたしたことがある)。国民健康保険料は非常に高いし、国民年金は月額の保険料こそ少ないが、その分将来もらえる年金も微々たるものになる。仕事で大失敗をすると損失は全部自分の身に降りかかってくる(私も相手に騙されて大損害を被ったことが何度かある)。福利厚生制度なんてものは当然ない。一番苦しいのは、放っておくとモチベーションを上げてくれる要素が何もない状態になることである(ブログ本館の記事「中小企業診断士として独立してよかった2つのことと、よくなかった5つのこと」を参照)。

 ただ、よく考えてみると、企業が社員のモチベーションを上げなければならないというのは奇妙な話である。企業は社員にお金を払う立場、社員は企業からお金をもらう立場である。お金をもらう立場の人がお金を払う立場の人にモチベーションまで上げてもらおうということがいかに不自然であるかは、顧客と企業の関係を考えると解る。顧客は企業にお金を払う立場、企業は顧客からお金をもらう立場であるが、顧客は企業のモチベーションを上げようとは露だに思わない。

 それでも企業が社員のモチベーションを上げなければならないのは、顧客は企業が気に食わなければ別の企業を選択すればよいだけであるのに対し、上司は部下が気に食わないからと言って部下の首を簡単には挿げ替えることができないからである。上司は今いる部下に頑張ってもらわなければならない。ここに、上司が部下のモチベーションを上げる必要性が生じる(ブログ本館の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」を参照)。

 ただ、本書には、10数年前は気づかなかった非常に興味深い記述があった。
 日本では、まだ上司が部下を選べるような環境にはない。上司について、部下は選択権がないのである。だからこそ、上司は全ての責任を受容する器を持たなければならない。
 裏を返せば、労働市場の流動化が進んで、上司が部下を自由に選べる時代、環境が実現する可能性があるということになる。そうなると、上司と部下の関係は顧客と企業の関係と同じになり、上司が部下のモチベーションを上げる必然性はなくなる。したがって、モチベーションを上げるのは部下本人の責任となる。私は、これが本来のあるべき姿なのではないかと思う。

 マズローの欲求5段階説によれば、人間の最高次の欲求は自己実現である。しかし、マズローの説はあくまでも仮説にすぎず、多くの人はその1つ下に位置する承認欲求が最も強いと言われている。つまり、我々は周囲の人から認められたいと思っており、周囲の人から認められるとモチベーションが上がる。だから、社員が自分のモチベーションを自分で上げる最も効果的な方法は、顧客(社内顧客を含む)に対して、自分の仕事ぶりがどうであったか、自分の仕事は相手の役に立ったか、相手に価値をもたらしたかを直接尋ねることである。

 経営学者のピーター・ドラッカーは、毎年卒業生を無作為に50人程度選んで直接電話し、今どんな仕事をしているのか、学生時代の講義は役に立っているかといったことを聞いていたそうだ。大学の教員というのは上下関係が薄く、皆個人商店のようなものであるから、周囲からモチベーションを上げてもらうことを期待することができない。そこでドラッカーは、顧客である学生から直接自分の評価を聞き出すことで、自分のモチベーションを上げていたのだろうと思う。

出光佐三『働く人の資本主義』―日本企業が「仕組み化」を覚えたらもっと競争力が上がるのに


働く人の資本主義 〈新版〉働く人の資本主義 〈新版〉
出光佐三

春秋社 2013-10-18

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 人間は働かなければならない。しかも、お互いのために働かなければならない。自分のためのみでなく人のために働く。そこに真の福祉がある。そして人のために働くなら能率をあげなきゃならない。こういうことになってくるんです。この能率をあげることでは資本主義が最も適している。ただ、資本主義の欠点は資本家の搾取です。それだから資本主義から資本家の搾取をとってしまえば能率主義になりますね。社会主義・共産主義は働く人を尊重するところはいいが、社会主義は国営だから非能率であり、共産主義は悪平等で、人間性の無視である。そこで社会主義・共産主義の働く人のためというところをとり、能率主義の資本主義とくみあわせる意味で「働く人の資本主義」という言葉を使ってみたんです。
 出光佐三の言う「働く人の資本主義」とは、資本主義、社会主義、共産主義のいいところどりである。これはいかにも日本人的な発想であると思う。ブログ本館で、世界の大国は二項対立的な発想をすると何度か書いた。現代の大国はアメリカ、ロシア、中国、ドイツである。そして、アメリカ&ドイツという資本主義圏の国と、ロシア&中国という旧共産主義圏の国が対立している(実際には、この4か国の対立はもっと複雑なのだが、その点についてはブログ本館の記事「『小池劇場と不甲斐なき政治家たち/北朝鮮/憲法改正へ 苦渋の決断(『正論』2017年8月号)』―小池都知事は小泉純一郎と民進党の嫡子、他」を参照)。

 日本は経済大国だと言われるものの、私は所詮極東の小国にすぎないと感じている(今後、少子高齢化が進めばますますそうだ)。大国の二項対立に挟まれた小国が生き延びる道は、対立する双方の大国の長所を採用して、それをちゃんぽんにし、西側からも東側からも攻撃されにくい独自のポジションを確立することであると考える(ブログ本館の記事「『トランプと日本/さようなら、三浦朱門先生(『正論』2017年4月号)』―米中とつかず離れずで「孤高の島国」を貫けるか?」を参照)。この意味で、出光佐三の発想は非常に日本人的である。

 出光佐三は、世界中の人々が「働く人の資本主義」を採用し、互譲互助の精神を発揮して、「お互いに仲良く」すれば、世界の様々な対立は消えると主張する。そして、世界で最も「働く人の資本主義」が発達している日本こそが先頭に立って、世界各国をリードすることが日本の使命であると述べている。

 出光佐三の理想は非常に素晴らしいが、個人的には、残念ながら日本にはそこまでの力はないと思う。日本がある思想や主義を世界に広めようとするとたいてい失敗することは、豊臣秀吉の朝鮮出兵や、太平洋戦争における大東亜共栄圏の構想を見れば明らかである。日本は出しゃばる必要はない。仮にある国が、対立抗争に疲れ果てて日本の精神に学びたいと言ってきたら、その国に進んで協力するというぐらいのスタンスがちょうどいいように思える。

 さて、出光佐三は、資本主義の利点として能率の高さを挙げている。ところが、海外の資本主義圏の国の人々は、基本的に「お互いが対立すること」が出発点となっている。そこで、対立する人々を企業の共通目的に向かわしめる仕組みが必要となる。具体的には、組織、機構、法律、規定、技術、管理などである。欧米の企業は、放っておけば対立する大勢の社員をかき集めて、これらの仕組みを総動員することによって生産性を上げている。確かに、欧米企業が次々と開発する様々なマネジメントの仕組みは目を見張るものがある。

 これに対して、日本企業の場合は、出光佐三が何度も繰り返し本書で述べているように、「お互いに協力すること」が精神の根底にある。よって、対立に時間を費やす必要がなく、欧米企業よりも少人数で欧米企業と同じ成果を上げることができる。本書でも、満州では欧米の石油会社が何百人もの社員を抱えていたのに、出光は数十人の社員で運営していたというエピソードが紹介されている。

 この少数精鋭の経営に、欧米流の生産性向上のための仕組みを上手くドッキングさせることができれば、日本企業の生産性は欧米企業のそれをはるかに凌駕することになるのにと思う。生産性が向上すれば、社員の賃金が上昇し、消費が刺激されて適度なインフレが実現されるであろう。ただ、日本企業は仕組みを活用するのがどうも苦手であることは、以前の記事「一條和生『グローバル・ビジネス・マネジメント―経営進化に向けた日本企業への処方箋』―日本人は「仕組み化」ができないわけではないが、「道具」の使い方が下手」でも書いた。

 日本人は勉強熱心であるためか、欧米企業の最新の仕組みに飛びつきやすい。ある仕組みが開発されると、我先にとそれに飛びつく。数年が経ってまた新たな仕組みが開発されると、以前の仕組みをあっさりと捨て去って、それに飛びつく。だが、このような刹那的なやり方では、生産性向上はあまり期待できない。出光佐三は、人間が組織、機構、法律、規定、技術、管理などを使うのであって、組織、機構、法律、規定、技術、管理などに人間が使われてはならないと本書で警告している。この点は我々も十分に心に留めておく必要があるだろう。

 マネジメントの仕組みというのは必ずしも普遍性があるとは限らず、むしろある特定の状況においてよく機能するものが多い。日本企業は、欧米企業の組織、機構、法律、規定、技術、管理などがどういう状況の下でよく機能しているのかを研究し、仮にこれらを日本企業で機能させるためにはどのような修正を施さなければならないのかを検討する必要がある。新しい仕組みが出るたびにとっかえひっかえするのではなく、各国、各企業のいいところどりをして、それらを融合させ、自社に固有の仕組みへと磨き上げていくことが肝要である。ここでもまた、日本人は小国ならではのちゃんぽん精神を上手に発揮することが要求される。

『日本人なら知っておきたい 皇室/巨額買収のカラクリ ソフトバンク3.3兆円の梃子(『週刊ダイヤモンド』2016年9月17日号)』


週刊ダイヤモンド 2016年 9/17 号 [雑誌] (日本人なら知っておきたい 皇室)週刊ダイヤモンド 2016年 9/17 号 [雑誌] (日本人なら知っておきたい 皇室)

ダイヤモンド社 2016-09-12

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 ブログ本館の記事「北川東子『ハイデガー―存在の謎について考える』―安直な私はハイデガーの存在論に日本的思想との親和性を見出す」でも書いたが、日本では大雑把に言うと「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という上下関係、階層社会が成立している。当然のことながら、下の階層は上の階層の命令によって動く。ここで問題になるのは、頂点に君臨する天皇は誰の命令を聞いているのかということである。

 「(神?)⇒天皇」と書いたように、天皇は日本の神の命令を聞いていると考えられる。そのために、天皇は私的行為として神道にのっとった祭祀を行う。では、神は誰の命令を聞いているのだろうか?ブログ本館の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」でも書いたように、八百万の神の世界では、神々の間にも上下関係がある。だから、下位の神は上位の神の命令に従う。ここでさらに踏み込むと、神々の世界の頂点に立つ神は一体誰の命令を聞いているのだろうか?

 西欧の神学論で言えば、万物にはそれを生み出す原因が必ず存在する。その原因を順番にたどると、最後は神に行き着く。ただし、神だけは神を生み出した原因を持たず、自ら有を生んだことになる。よって、神は絶対性・無限性を有すると説明される。その神の絶対性・無限性が人間にも転写され、あちら側のメシアニズムがこちら側のメシアニズムに手繰り寄せられたのが近代の啓蒙主義であり、それが結果的に全体主義、共産主義をもたらした(ブログ本館の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 ブログ本館の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1/2)」等でも書いたが、人間は生まれながらにして絶対であるため、完全なる自由を有する。また、生まれた時点で人間として完成しているわけだから、教育によって人間を育成するという発想は消える(よって、全体主義や共産主義の下では、しばしば知識人・教育者が迫害される)。技術進歩に対しては極めて懐疑的であり(人間の改悪とされる)、人間が生まれながらの能力でできる仕事、すなわち農業が重視される。多くの社会主義国家が農業の振興に注力するのはそのためだ。

 (余談だが、宇宙飛行士が退職後に就く職業の第1位は農家であるという話を聞いた。宇宙の深遠さに触れると、技術革新よりも自然の方が大切であることに気づくらしい。ただし、私は次のように解釈する。宇宙とは神の世界である。神の世界に触れた人間は、神のようになって帰って来る、というわけである)

 さらに、人間の無限性は、人間が1人でありながら人類全体そのものであることを意味する。この関係においては、人間は皆平等であり、あらゆる階層は否定される。加えて、1人の財産は人類全体の財産でもあり、共有財産制が敷かれる。逆に、全体の意思は1人の意思と同一視できるため、民主主義と独裁が両立する。人間の無限性は、時間の流れを否定する。過去や未来を想定することは、時間の始まりや終わりを想定することに等しく、時間が有限であることを前提としているからだ。時間の流れを否定するとは、言い換えれば、現在というこの一瞬が時間軸全体を覆いつくしていることである。だから、全体主義者や共産主義者は歴史を否定する。さらに、革命は”世界同時”でなければならないと説く。

 話を日本に戻そう。日本の神々の頂点に立つ神は誰の命令を聞いているのかという問いであった。ここで、話をぶち壊してしまうようだが、日本の神々には頂点は存在しない。上には上があり、それがどこまでも続くかのように見える。”かのように見える”と書いたのは、本当は頂点があるのかもしれないけれども、神にはその頂点がぼんやりとしていてよく見えないのである。

 西欧人であれば、見えないその頂点を何とか明らかにしようと試みるだろう。しかし、日本人は、頂点の曖昧さをそのまま受け入れる。わざわざ頂点の正体を暴こうとするのは、野暮な行為である。究極の本質はよく解らないが、それでよしとする。だからこそ、日本人は絶対性・無限性に陥ることがない(ただし、天皇を絶対神扱いした昭和の一時期だけは、日本が全体主義に陥ったことをここで思い出す必要がある)。冒頭で紹介したブログ本館の記事中の引用文を再掲する。
 むしろ、ハイデガーは、「投げ込まれたこと」を存在論的な基礎概念として捉えるべきだと言います。自分がいるかぎり、私たちは、自分を「投げ込まれた存在」として受け止めるしかない。「誰が」や「どのようにして」というような「投げ込まれた」ことの根拠を明らかにすることはできない。
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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
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YggDore

 本ブログは、他のブログでは読むことができないような独自の視点から、少しでも皆様のお役に立つ記事の掲載を目指しています。もし、「面白かった」と思ってくださいましたら、YggDoreから投げ銭(寄付)をしていただけると大変ありがたいです(※手順は「こちら」)。

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