渋沢栄一「論語」の読み方渋沢栄一「論語」の読み方
渋沢 栄一 竹内 均

三笠書房 2004-10

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 旧ブログの記事「論語が実学であることを身をもって証明した一冊-『渋沢栄一「論語」の読み方』」、「「個人的な怨讐」を超越した渋沢の精神力-『渋沢栄一「論語」の読み方』」で取り上げた本を約5年ぶりに読み返してみた。渋沢が自分と同時代を生きた人物について色々と評価を加えているところが興味深い。

渋沢栄一の人物評

 大隈重信は雄弁家に違いないけれども、その言ったことをすべて実行したわけではない。これに反して山形有朋は雄弁ではないが、心に思ったことは必ず実行する人だった。そして能弁で実行家といえるのは木戸孝允や伊藤博文だろう。
 明治維新後の岩倉具視などは、策略を用いたが、けっして口先だけの人ではなかった。知恵は深かったが、その知恵は公明で、すこしも私利私欲をともなわず、純粋無垢のものであった。三条実美を”情”において清かった人とすれば、岩倉は”知”において清かった人といえるであろう。
 西郷隆盛は、これまたなかなか達識の偉人で、「器ならざる」人に違いない。同じ「器ならず」でも、大久保とはよほど異なった点があった。ひとことにしていえば、たいへん親切な同情心の深い、一見して懐かしく思われる人であった。いつもいたって寡黙で、めったに談話をされなかった。外から見たところでは、はたして偉い人であるのか、鈍い人であるのか、ちょっとわからなかったぐらいである。
 渋沢は人の好き嫌いが少なく、嫌なことがあっても怒りを自制することができる徳の高い人物であったが、その渋沢をしてはっきりと「嫌い」と言わしめたのが大久保利通である。よほどそりが合わなかったのか、本書の中で酷評されている。
 大久保利通は私の嫌いな人で、私もひどく彼に嫌われたが、彼の日常を見るたびに、「器ならず」とは彼のような人をいうものであろうと、感嘆の情を禁じえなかったものである。たいていの人はいかに見識が卓抜であっても、その考え方はだいたい外から推測できるものである。ところが大久保は、正体がつかめず、何を胸底に隠しているのか、私のような不肖者ではとても測り知ることができない、まったく底の知れない人であった。だから彼に接すると何となく気味の悪いような心情を起こさないでもなかった。
 この文章は、「子曰く、君子は器ならず」(為政)という一文の解説部に書かれている。一般の人には、器にそれぞれの形や用途があるように、適材適所というものがある。ところが、君子のような非凡達識の人になると、万般にわたって底の知れないスケールを持っている、という意味だ。孔子の君子論を構成する非常に重要な箇所である。そこに大久保批判を持ってくる(しかも、悪い意味で「器がない」と評する)あたりに、渋沢の強い嫌悪感を感じ取ることができる。