こぼれ落ちたピース

谷藤友彦(中小企業診断士・コンサルタント・トレーナー)のブログ別館。2,000字程度の読書記録の集まり。

言語学


風間喜代三、松村一登、町田健、上野善道『言語学』―文法的分析よりも歴史的・文化的背景に興味あり


言語学 第2版言語学 第2版
風間 喜代三 松村 一登 町田 健 上野 善道

東京大学出版会 2004-09

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 ブログ本館で「山本七平『比較文化論の試み』―「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図について」という記事を書いたことがある。「はじめにロゴス(言語)ありき」という言葉を出発点として、言語によって歴史が表現され、歴史的背景から宗教が生まれ、宗教が人々の従うべき道徳を規定し、道徳に基づいて政治が行われ、政治によって社会が形成され、最後に社会を潤す経済が発展するという記事であった。

 もちろん、こんなに単線的にそれぞれの要素がつながっているとは思えないし、要素の順番が入れ替わることがあることぐらいは愚劣な私でも解っている。そもそも、「はじめにロゴスありき」が本当ならば、世界は単一言語であるはずだ。しかし、実際にはそうではないという事実は、言語が社会的生成物であることを示している。つまり、社会が言語に先行している。

 以前の記事「黒田龍之助『はじめての言語学』」で、言語学と言うと世界各国や諸民族の言語の文法的な分析、構造的特徴の成立過程、言葉の語源などを研究する学問だという印象があるが、実際には「音」を重視する学問であると書いた。そのことを念頭に置いて本書を読むと、本書の大半が言語の構造的分析に費やされており、音に関する解説は最後の1章があてられているだけで、黒田龍之助氏の助言がなければ言語学のことを誤解したままになりそうであった。

 言語学、特にチョムスキーの生成文法の流れをくむ研究は、様々な言語の構造を明らかにする。簡単に言ってしまえば、世界中の言語を形態素という最小単位に分解し、形態素の並び順、組合せの特徴を描き出す。例えば、世界の言語は大まかに「孤立語」、「膠着語」、「屈折語」に分けられるという。
 a.孤立語(中国語など)
 文:名詞句<主体>+動詞群(+名詞句)(+名詞群1・・・+名詞群n)

 b.膠着語(日本語など)
 文:名詞群(主体)(+名詞群2・・・+名詞群n)+動詞群

 c.屈折語(ラテン語など)
 名詞群1(+名詞群2・・・+名詞群n)+動詞群
 名詞句、名詞群、動詞群が何を指すのかを説明するのがこの記事の目的ではないため、この点については省略する。私にとって関心があるのは、どの言語が「孤立語」、「膠着語」、「屈折語」に該当するのかという分類学的な話よりも、なぜある地域では「孤立語」が、別の地域では「膠着語」や「屈折語」が生成・定着したのかという歴史的・文化的・社会的な背景の方である。

 また、言語学では、形態素の組合せの妥当性についても検証する。論理的には無限の組合せの可能性があるわけだが、その中には、組合せとして不適切だと社会が判断するものがある。例えば、日本語の「形容詞+名詞」で言うと、
 大きい人
 大きい車
 大きい紐(*)
 大きい影響
 大きい悩み
 大きい癖(*)
 のうち、(*)は日本語として不自然だとされる。こういう不自然な組合せを探し出すのも言語学の主要な目的の1つのようだ。しかしここでも、私の関心事は、何が不自然な組合せなのかということよりも、なぜある組合せは適切で、それ以外の組合せは不適切だと社会が考えるように至ったのかという経緯である。

 個人的には、以下のような話の方が面白いと感じる。
 エストニア語の複合動詞が、エストニア語とドイツ語の言語接触の結果、ドイツ語の分離動詞の影響で生まれた文法現象であると考える根拠としては、まず、歴史的な背景として、エストニアを含むバルト海の北東部の海岸地域は、北ドイツからの植民者が多く住み、ドイツ語(低地ドイツ語)が商業、宗教、教育などの言語として広く使われていたことなどにみられるように、ドイツ語を支配的な言語とする言語接触が、20世紀の初頭まで数世紀にわたって続いてきたことがあげられる。

野矢茂樹、西村義樹『言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学』


言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)
野矢 茂樹 西村 義樹

中央公論新社 2013-06-24

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 《参考記事(ブログ本館)》
 飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)
 森本浩一『デイヴィドソン―「言語」なんて存在するのだろうか』―他者が積極的に介在する言語論に安心する
 門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に

 ブログ本館で「シリーズ哲学のエッセンス」の言語論について書いた記事を改めて読み直したのだが、自分の理解が浅くて涙が出そうだ。それでも、自分の無知をさらにさらすことを覚悟で、言語学の本について記事を書いてみたいと思う。

 かつての言語学の世界では、アメリカの構造主義が主流を占めていた。アメリカ構造主義は行動主義とも呼ばれ、人間が言語を使用するプロセスに注目する。人間はあるインプットを受けると、何らかの言語処理を行って、言語というアウトプットを出す。アメリカ構造主義では、人間の言語処理をブラックボックスのままとし、インプットとアウトプットの関係を記述することに徹した。これに異を唱えたのがチョムスキーであり、彼は「生成文法」というものを発想した。

 チョムスキーは、アメリカ構造主義者が不問とした言語処理の中身を明らかにすることに努めた。我々が普段用いる様々な単語のことを「語彙項目」、そして「<名詞>+<動詞>」のような文の構造を「文法項目」と呼ぶ。語彙項目を文法項目にあてはめた時、明らかにおかしなものを排除していく。例えば、「私は財布を落としました」は正しいが、「私は財布に落ちられました」は不自然である。このような作業を繰り返して行くと、語彙項目の組合せには何らかのルールがあることが解る。こうしたルールのことを「統語論」と呼ぶ。

 生成文法では、能動態と受動態は同じ意味を表すとされる。具体例で言うと、「ダビデはゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は同じ意味である。統語論的には2つのルールで記述されているが、意味は同じとして扱われる。つまり、「統語論」と「意味論」は区別される。別の言い方をすれば、文法項目には意味がなく、意味を持つのは語彙項目のみとなる。そして、文法は異なっても意味は同じになる場合があることを指して、「客観主義の意味論」と称する。

 生成文法に対して、著者の西村義樹氏が研究しているのが「認知言語学」である。認知言語学はその名の通り、認知と言語の関係を扱うため、生成文法のように客観的なルールを切り出して整然と並べるのではなく、言語と心の働きを一体のものとする。また、語彙項目だけでなく、文法項目にも意味があると主張する。したがって、先ほどの「ダビデはゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は、意味が違うことになる。本書では他にも、使役構文、プロトタイプ、メトニミーなどに触れながら、認知言語学の広がりが紹介されている。

 生成文法が厳格であるのに対し、認知言語学は柔軟性や拡張性がある。(私の誤解でないことを願いたいのだが、)「私は財布に落ちられました」は、生成文法の観点では正しくないものの、認知言語学では意味が通用する。先日、私は実際に財布を落としたのだが、私の不注意というよりも、財布の方から勝手に転げ落ちたのであり、落ちた財布が悪い、被害者は私の方だと思っている。こういう気持ちを他者と共有したい場合には、「私は財布に落ちられました」という恨めしさを込めた表現の方が適している。この考え方を拡張していくと、当事者間で意味が共有できるのであれば、どんな言語を用いてもよいことになる。

 ただし、これを逆方向に突き詰めていけば、どんな言葉を用いても意味が通じない世界というのも想定できる。冒頭の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」でも書いたような事態である。こうなると、人間にとっては破滅的である。人間は、世界を意味で切り取ることができず、世界から放たれる全ての刺激を背負い込まなければならない。それを負担に感じているうちはまだましで、それを逆手にとって私が世界の全てを抱えているのだと肯定し始めると危険である。私は世界と等しい。同時に、他者にも同じように世界が全て流れ込む。ここに、私=他者=世界という構図が成立する。これは全体主義に他ならない。

 クリプキがヒュームの懐疑主義を導入してこの破滅を回避したように、認知的言語学は、「百科事典的意味論」を用意している。つまり、多くの人があらかじめ合意している意味の集合があると考える。我々の拡張的な言葉遣いは、百科事典的意味論の上に展開される。こう考えれば、破滅的な事態に至らずに済む。

黒田龍之助『はじめての言語学』


はじめての言語学 (講談社現代新書)はじめての言語学 (講談社現代新書)
黒田 龍之助

講談社 2004-01-21

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 「言語学」というと、世界各国や諸民族の言語の文法的な分析、構造的特徴の成立過程、言葉の語源などを研究する学問だと勝手に思い込んでいたのだが、本書によるとどうやら違うらしい。言語学では「音」にこだわる。世界中の音を示すために、「国際音声字母(IPA:Inernational Phonetic Alphabet)」という国際規格が用いられる。我々が英語の授業で学習した発音記号がこれに該当するが、言語学では発音記号とは言わずIPAと呼ぶ。

 世界には様々な音があり、舌打音が言語音として用いられている場合もある。もっと変わった音に放出音というものがある。まず、お腹に力を入れて喉の奥の声門を閉じる。次に、肺から上がってくる空気を溜める。そして、その圧力で声門を押し開くと、喉の奥から「ポコン」、「グエ」といった音が出る。こういう変わった音も含めて、言語学者はIPAが定める音を出せるようになる必要があるそうだ。若い学者たちは、空いた時間を見つけては人知れず音の練習をしているらしい。

 以下、本書から得られた面白い発見を3つ。

 ・「単語」という言葉を国語辞典で引くと、「文法上の意味・職能を有する、言語の最小単位」と定義されているが、言語学的には全く違うらしい。例えば、Every morning my wife drinks coffee.という文は、6つの単語から成り立つが、意味のまとまりは6つではない。言語学では、drinksをdrinkと-sに分ける。drinkは語彙を表し、-sは文法を表す。最も小さな意味の単位を、言語学では「形素態」と呼ぶ。

 ・比較言語学によって、祖先を同じくする言語や、言語同士の親戚関係など、言語のつながりが明らかになった。同じグループに属する言語群を「語族」と呼ぶ。ところで、私が高校生の時には、世界史の授業で「アルタイ語族」というものを習った。私が今でも持っている山川出版社の『詳説世界史』(1998年)には、アルタイ語族に属する言語として、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、朝鮮語(朝鮮語だけは「?」がついている)が挙げられている。

 ところが、著者によれば、アルタイ語族などという語族は言語学的に認められていないそうだ。中には、アルタイ語族がウラル語族(ハンガリー語、フィンランド語、モルドヴィン語、エストニア語)と密接な関係があるとして、ウラル・アルタイ語族と呼ぶ人がいるが、当然これも誤りである。ウラル・アルタイ語族には韓国・朝鮮語、さらには日本語まで含まれるという説は、もっと大きな間違いである。

 ・これは小ネタ。「蒲焼」のことを我々は「カバ」と「ヤキ」に分けて考えたくなる。著者が調べたある国語辞典では、「もとウナギを縦に串刺にして丸焼にした形が蒲の穂に似るから」と説明されていた。しかし、著者の調査によれば、本来は「か(香)ばやき(早き)」であったそうだ。それがいつの間にか分け方が変わって、「カバ」と「ヤキ」になってしまった。こういう解釈を言語学では民間語源と言う。
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。これまでの主な実績はこちらを参照。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 現ブログ「free to write WHATEVER I like」からはこぼれ落ちてしまった、2,000字程度の短めの書評を中心としたブログ(※なお、本ブログはHUNTER×HUNTERとは一切関係ありません)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
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