致知2015年2月号成功の要諦 致知2015年3月号

致知出版社 2015-02


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 安倍政権になってから「道徳の教科化」が進められており、小・中学校の学習指導要領には「道徳」という章が設けられている。他の教科と並列にせず、道徳だけで単独の章とするあたりに、安倍政権の力の入れようが表れている。

 小学校学習指導要領
 中学校学習指導要領

 学年に応じて内容は異なるが、全学年に共通しているのは、道徳教育の目標を以下の4つの視点から設定していることである。
 【視点1:主として自分自身に関すること】
 自己の在り方を自分自身とのかかわりにおいてとらえ、望ましい自己の形成を図ることに関するもの。
 【視点2:主として他の人とのかかわりに関すること】
 自己を他の人とのかかわりの中でとらえ、望ましい人間関係の育成を図ることに関するもの。
 【視点3:主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること】
 自己を自然や美しいもの、崇高なものとのかかわりにおいてとらえ、人間としての自覚を深めることに関するもの。
 【視点4:主として集団や社会とのかかわりに関すること】
 自己を様々な社会集団や郷土、国家、国際社会とのかかわりの中でとらえ、国際社会に生きる日本人としての自覚に立ち、平和的で文化的な社会および国家の成員として必要な道徳性の育成を図ることに関するもの。
(「有限会社教育評価研究所」HPより)
 道徳の教科化に対しては色々な批判が見られる。私なりに大別すると(1)道徳そのものを学校で教えることに反対するもの、(2)学習指導要領に定められた道徳の内容に問題があるとするもの、(3)道徳の学習成果をテストで数値化することに反対するもの、(4)道徳教育には賛成だが、道徳を単独の教科として切り出すことに反対するもの、の4つに分けられると思う。

 (1)に関しては、道徳というのは、本来は家庭や地域社会の中で身につけるべきだということを思い出す必要がある。それができていないから、学校で道徳教育を行うわけだ。もし、学校での道徳教育に反対するのならば、家庭やコミュニティが望ましい機能を取り戻すための方策を提案しなければならない。

 しかし、それは容易なことではないと思う。両親の共働きが増え、3世代世帯が減り、地域コミュニティの解体が進んでいる現代では、かつての家庭像やコミュニティ像にしがみつく牧歌的な主張は通りにくい。家庭やコミュニティで道徳が教えられないから、学校で教える。すると、学校の負担が重くなってその他の教科を十分に教えることが難しくなる。よって、文部科学省も認めているように塾が補完的な役割を果たす。これが現代の実情に合わせた教育のあり方である。

 (2)に関しては、特に郷土愛や愛国心に関する教育が問題視されているのだろう。しかし、これは教え方の工夫でカバーできるはずだ。愛とは、対象のいいところだけを無条件に褒め称えることではない。そういう「○○万歳」的な教育を行うとどういう国民ができ上がるかは、隣国が既に証明済みである。対象には欠陥もあることを認めつつ、それでもなお対象を受け入れることが本当の愛である。

 (3)の批判に対してだけは、私も同意見である。安倍政権は、道徳はテストで数値化しないという方針を打ち出しているものの、市中には既に道徳のテストが出回っている。例えば、有限会社教育評価研究所が1990年代から販売している「HUMAN III 新道徳性検査」などがそうである。道徳は他の教科と違って、実践や他者との交流の中で磨かれるものである。したがって、個人が頭で取り組むペーパーテストは(たとえ論述式であっても)馴染まないだろう。

 (4)のような批判が、『致知』2015年3月号に掲載されていた。
 道徳は国語や歴史で教えよというのが私の持論です。管理する側からは、本当にやっているかは把握できにくいので困るでしょうが、教える側から見れば、国語や歴史教育から切り離した道徳はありえない。『私たちの道徳』を見ても、取り上げられている読み物教材の多くは、教科でやれる内容です。いや、やるべきなのです。
 こういう考え方もあるのかと非常に参考になった。ただし、仮に道徳を国語や歴史の中で扱うとしても、結局は頭の中の理解だけにとどまってしまう。(3)で述べたように、道徳は実践や他者との交流の中で磨かれるとすれば、プラスアルファの教育が必要なのではないだろうか?例えば、これは全くのアイデアで学校側の負担を考慮していないのだが、夏に2週間クラス全員で共同生活を実施してコミュニティを擬制する、といった取り組みが考えられる。

 本当のことを言えば、こういうことをやるのは家庭や地域社会の役割である。しかし、(1)で述べたように、家庭や地域社会が機能不全に陥っており、その機能を取り戻すことは非常に困難である。よって、学校がやるしかないのである。